【史実のマトラークチュ】Matrakçı Nasuh オスマン帝国外伝登場人物

史実のマトラークチュ ナスーフMatrakçı Nasuhは
1480年頃生まれる。名はナスフ ビンカラギョズ ビン アブドッラー エル ボスナヴィー
ボスニア出身のアブドッラーの息子のカラギョズの息子ナスーフ が本名である。

名前からわかるように彼はボスニア人。ボスニアの首都サラエヴォで生まれた。細密画家、書道家、歴史家であり数学にも強い。さらにオスマン時代、兵士たちに親しまれたゲーム マトラークの名手。死亡は1547年または1551年または1553年以後に亡くなったと諸説ある。祖父がデイシルメだったと言う記録が残っている。

スレイマン大帝の祖父・バヤズィット2世の時代1908年まで続いた学校エンデルン(Endern)で教育を受けた。そこで数学者として生徒たちに数学を教えた。

当時の有名な詩人サーイ(Saî')から教えも受けた。書道家としても有名でナスフ書体とディーワーニー書体を独変化させ独特の見やすい書を描いた。 (ナスフ書体は 職業的書記は書写性のとなる書体。ディーラーニー書体はオスマン帝国時代に政府文書に使われた文字。
ナスフ書体は現代でも使われているアラビア文字と似ているので読みやすいが、崩して書かれているディーワーニー書体は慣れないとちょこっと読むのが難しい。マトラークチュ・ナスーフはこのディーワーニー書体の文字をより大きく明確に描くように改善した。ナスフ書体も大きく読みやすくした。 

彼の細密画や地図は特別なスタイルを持つ。まるで人や物がそこに実際にいるかのように描く。飛ぶ鳥や地を歩く鶏のような動物たちから建物に至るまで細部にわたってデッサンされている。

幾何学と数学に関しては長さを図る素晴らしい物差しを開発した。スレイマン大帝の父セリム1世の時代にジェマールルクッターブ(Cemâlü'l-Küttâb) ケマールルヒサーブ(Kemalü'l- Hisâb )と言う本を書く。割り算や現代数学を母校エンデルン校で教えた。ネネイピアより50年も前のことである。彼の著作はネイピアに何らかの影響を及ぼしていると考えられる。(参考"International Journal of Turkish Studies, vol. 10, issue 1-2". University of Wisconsin (2004), p. 57) 

歴史家としては9世紀の有名な歴史家ターベリーの歴史書をトルコ語で訳し「メジュマウッテヴァーリフ」(Mecmaü't-Tevârih)と言う本を書き上げた。

スレイマン大帝の時代サファヴィー朝との戦いを書いたフェティフナーメイ カラブウダン)Fetihname-i Karabuğdan,と言う歴史書がある。その中に戦争で立ち寄った町々の地図も描かれている。

マトラクチュはフズル海軍提督と共に船で戦争に参加した。その時に訪れた港のようすも描いている。

学問だけでなく有名な戦いゲームでも名を挙げた。彼はかなり上手にマトラークをプレイした。マトラークゲームの攻略本テフフェトゥルグザート(Tuhfetü'l-Guzât)と言う本まで書いている

と言うわけで11でスレイマンの元を去ったとドラマでは書かれているマトラークチュですが、史実ではかなり学問の分野で功績を上げた方だったことがわかりました。祖国ネイピアニ影響を与えていたとは当時のオスマン帝国の学問がいかに発展していたか絵を垣間見ることができます。オスマン帝国の全盛期の時代は軍事だけでなくこのよう数学だけでないろいろな分野の学問がヨーロッパに勝っていました。古代ギリシャローマの知恵もアラビアの国そしてオスマン帝国を通して伝えられたのです。アラビア文字に翻訳された古代ローマ・ギリシアの書籍が再輸入と言う形でヨーロッパの諸言語に翻訳されたのでした。
オスマン帝国外伝ドラマでのマトラークチュについては次回。お楽しみに
本名のトルコ綴り
Nasuh bin Karagöz bin Abdullah el-Bosnavî
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