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トルコで際立っている日本人 山本直輝(Sensei)が熱い

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山本先生はトルコのマルマラ大学でイスラムを教えています。 ???と思われた方もいらっしゃるのではないでしょうか? というのは日本生まれで青年時代まで日本で過ごされた山本直輝先生が異国の地、イスラム文化の歴史の深いトルコという国で、イスラムをおしえているからです。 伝統文化の根付いた土地のそれに対する考え方には、形式的で先入観・固定感がつよくなりがちというデメリットが含まれます。 そんなデメリットを吹き飛ばすかのように、しなやかで本質にぐぐっと迫る山本直輝先生の感覚はトルコの方々にも良い刺激となることでしょう。 ところで、山本先生はトルコだけでなく日本でも際立っていますね。 専門はオスマン朝時代のスーフィズムということですが、日本でホットなご活躍をご紹介いたしましょう。 1 先月最終回を迎えましたが2019年から集英社新書プラスのサイトで 「スーフィズム入門」 という連載をしていました。 https://shinsho-plus.shueisha.co.jp/column/sufism/7531 2 フトゥーワイスラームの騎士道精神 や ナーブルスィー神秘哲学集成 の翻訳をされています。(かなり難しいかも)アマゾンでも発売しているみたいです。 3、 月1(第三土曜日)のユヌスエムレの助言の書(手紙)の読書会 をオンラインで開いています。3月19日の読書会では真の謙譲について紹介していました。 ユヌスの言う謙譲とは今の時代絶対想像もできない種類のものだと思います。なんたって大地よりも7倍も下に位置するの謙譲の精神なのだそうで・・・ その精神は天や地を背負えるほど強い思いでもある・・・ だそうで ユヌスの言う真の謙譲は私の脳に誤作動を起こさせそうです。かなり衝撃的でした。 4、読書会コラムでは ユヌスエムレの素敵なイラーヒ(詩みたいなもの)を紹介しています。 第1回は 「黄色いお花」 です。このイラーヒはトルコでも知らない人は多分いないだろうといえるほどみんなにしたわれていますが、この作品はユヌスエムレ自身の作品ではなく、ブルサル アシュク・ユヌス・エムレという方の作品だともいわれます。 ブルサのアシュク・ユヌスのお墓にお参りしたことがありますが、 その様子はことらからどうぞ。 動画はこちら アシュク ユヌスって?  第2回「身を焦がすほどの熱い愛」 https://to

アシュク・ユヌスって? 「BURSALI ÂŞIK YUNUS, YUNUS EMRE'DEN MİRASINI GERİ İSTİYOR」 の要約

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アーシュク ユーヌスって? アーシュクユーヌスの人生 ブルサの詩人。 1420年なくなったEmilスルタンの墓で祈っていた 。ユーヌスはイラーヒの中でブハラから来たと言っている。バヤズィトとムラト2世の時代に生きた。 詩の中でハッジに行った時のことを思い出しているところから、彼は ハッジに行った ことがある。 また息子にとても会いたがっていた詩を書いているので、 息子 がいたことがわかる。 1490年1月20日に ゼレイハー と言う名の女性が亡くなった時の文書に、 「ゼレイハーはハジュ ユーヌスの娘」と記されている。そのゼレイハーの相続人は姉妹が一人いただけだったことから、 このユーヌスはアーシュクユーヌスと思われる。 (アーシュクユーヌスが亡くなって50年後にかかれたこの文書から、このユーヌスがアーシュクユーヌスだと思われる。 ) 以上からアーシュクユーヌスには 2人の御娘と一人の息子 がいた推定される。 キャーミル ケペジオウルは 「アーシュクユーヌスの墓が見つかった場所の 隣にメスジド があった」と記している。 1490年のこの場所の持ち主は登記簿によると シャフダーネ(Şehdane) と言う名の女性だった。 だがケペジオウルがこの女性の名前の父親を記しておかなかったため、今我々は彼女の父親の名を知ることはできない。 ゼレイハー(Zeleyha)の姉妹 だと推測可能。 1743年 シェイフハミドはミハリチュカザーの エムレレル村 に行った時、アーシュクユーヌスの 孫の孫である女性 に会ったと書いている。 シェイフはこの村の者はみなスーフィーで年一度、旗を掲げてみんなでブルサのエミールスルタンの墓を詣でていたと書いている。 「エルグヴァン祭」 として知られている。 メフメド シェムセッディーンは15-20年前にこの習慣が終わったという。 だが、「これ以前にはスーフィーたちがブルサに何年のもお祝いに来たことが明らかである」と言う。 詩の中でターリカの一員だったことが書かれている。彼は エミール スルタンを師事 していた。彼に子で特別の敬意を表している。このことから エミーススルタンの弟子 だったと思われる。 エミールスルタンのターリカの ハルヴェト・ターリカ に属していたと推定される。 ベクタシー の

アーシュク・ユーヌスの墓 2 ブルサ/トルコ

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アーシュクユーヌス はトルコ語でイラーヒ(讃美歌)を書いた詩人です。1400 の中頃の方です。この時代は エミール・ スルタンの統治していた時代でもありました。 アーシュクユーヌスの墓 お墓の入り口  アーシュク・ユーススは エミールスルタンのおはかの近くのカラマザク通りの3つのアパートのに挟まれた場所に眠っています。写真に見える2つのアパートの間の1メートルぐらいの隙間から中に入れます。 以前はありませんでしたが 左側にはアーシュクユーヌスの墓と看板があります。 写真では入り口から突き当りの壁まで見えますが、あそこで行き止まりです。行きどまって、左を向くとしたのお墓が見えます。 向かって右の墓石がアブドルレッザークの墓 Merkad-I Abdürrezzak 真ん中の墓石がアーシュク・ユーヌスの墓 Merkad-ı Aşık Yunus' そして左端がユーヌス エムレの墓、ファーティハ Merkad-ı Yunus Emre,Fatihaです。墓石にはこの方だけ名前の最後にファーティハと書かれてありました。 これは墓石にこの字を書いた方がクルアーンの1章のハーティハ章を彼に贈っていると事の尚ですが、訪れた方々もお墓のみんなにファーティハを贈ります。 無記名の墓はしたアリと言う方のお墓だといわれています。彼は1730年に何年もかけてお墓を改築したことを長方形(50㎝×70㎝)の碑文に書き、お墓の上に置きました。一説では無記名の墓は 40-50年前に亡くなったシェイフ エスアド エフェンディの墓ともと言われてています。 関連動画 アーシュクユーヌスのお墓 動画 https://osmanteikokugaiden.blogspot.com/2019/08/1.html アーシュクユーヌスって

ブルサ旅行 ブルサの若いママさんパワー

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夏にあんねあんねの付き添いでトルコのブルサに行った時のことなんだけどさ、2日間ぐらいお墓巡りに付き合わされて大変だったよ えっ?おはかめぐりしたの?結婚式にいったのではなかったかしら?

ブルサ旅行 オスマンベイの墓のある公園

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関連記事 オスマンベイの墓 ブルサのママサンパワー ブルサ展望 オスマンベイの墓は公園の中にあります。 オスマンベイとオルハンベイの廟のある公園の入り口 このすぐ右側に見えるのがオルハンベイの廟で石畳の通路を挟んで左手に見えるのがオスマンベイの廟。 通路の先はこんな感じ 通路を抜けると開けた平らな場所にでる 上の右側 ハナーが休んだ大きな木 左側に大砲が並ぶ 見晴らしの良い赤い屋根のカフェ 通をの先に見えた背の高い時計台 時計台の隣からはブルサが一望できる  階段を降りるともっと近くに景色が見える場所がある。  赤い屋根の建物が多い  チャイ屋さんから見える景色

トルコの結婚契約は2種類ある?

ガーズィー君の結婚式に先月ブルサにいってきたお話をしましたが、トルコでは結婚式は2通りあるみたいです。 宗教的な結婚の契約(ディーニー・ニカー) 現在の法律にのっとってのレスミ・ニカーがあるみたいです。 両方する方もいるみたいですし片方だけの方もいるみたいです。 日本ではトルコジャーミで宗教的な結婚契約をすることができるようです。 必要な書類は以下です。 婚姻受理証明書(区役所あるいは大使館から発行された公的文書) 新婦と新郎の証明写真(パスポートサイズ)各1枚ずつ 新婦と新郎それぞれのパスポート ムスリム男性二人の証人 1は区役所に行くともらえます。 4の証人は基本的に女性でも可能ですが、女性の場合は4人必要になります。 この書類から見ると先にレスミ・ニカーをしてからディーニー・ニカーをする感じですが、ガーズィー君の場合は反対でした。先にディーニ―ニカーをしてからレスミニカーをしたみたいです。 (順番はどっちでもいいのかな?) 私が参加したのはレスミ・ニカーのほうでした。 ステージみたいに一段高いところに、椅子が置かれていてそこに結婚する2人と証人の2人と結婚の契約を進める人がいました。 「お互いに相手を結婚相手として認めますか?」と言う質問に、トルコ語でハイ(EVET)と言った後に、サインをします。ガーズィー君が大きな声でエヴェットって言ったのがとても印象的でした。普段は物静かな感じで、質問のみ答えるみたいな感じで、自分から進んで話し始めることがないので、元気のいい返事にはびっくりしました。でもそれだけ新婦さんがすきなのかもしれませんね。 ガーズィー君が手に持っている茶色い手帳 みたいなものにサインした紙が入っています。 で、それから新婦をブーケを投げました。以前参加した結婚式ではブーケ投げがなかったのですが、これって西洋的なものを取り入れたのかもしれません。They are  getting married! Evlendiler! おしあわせに!

ムラト2世の複合施設でトルコの女性の団体ツアーの皆さんに会いました

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ガーズィー君が結婚するのでサインをすることになり、それに招待されトルコを訪れました。そのついでと言っては何ですが、翌日無理を言ってどうしても見たかったムスタファのお墓を見に出かけました。 ムスタファのお墓の様子はこちらからどうぞ、  ムスタファのお墓はオスマン・ガーズィーのお墓から車で15分ぐらいのところにあります。私はドルムシュと言う乗り合いバスでチェキルゲ通りÇekirge Cd.のムラト2世複合施設に近いところで降ろしてもらいました。トルコのドルムシュはかなり自由度があり一応停留所みたいなところがあるのですが、好きなところで降ろしてもらえます。そこから500mぐらい坂を登るとムラト2世複合施設(Muradiye Complex)に到着します。 その施設の中にあるのがムスタファ皇子のお墓です。下の地図のブルーのところを通ったと思います。オスマン・ガーズィーの墓の東側に(地図では向かって右側に)ウルジャーミーがあります。ウルジャーミーの前の通りがアタトゥルク通りです。 ここにはバスでも行けます。バスですとお墓のすぐ近くまで行けますので坂を登る必要がないです。でもブルサカードを前もって用意しないと現金ではのれません。ブルサカードはスイカみたいなものですが、全国共通ではなくブルサのみで使えます。 もう一つ鉄道を使っていけますが、最寄りの駅はメリノスという駅で役1.6kmくらい歩かなければならないので、便利なのはバスでしょう。30分に1本は出ているようです。 その日バスでトルコ国内の団体ツアーの方たちも来ていました。バスと言っても観光バスで、50人ぐらいの女性だけで観光に来たようです。女性のガイドさんが一人ついていました。彼女たちはついてすぐお墓参りはしなかったです。 ムスタファ皇子のお墓のすぐ近くにはコンスタンチノープルを陥落させたメフメト2世のお父さんのムラト2世のモスクがあり、彼女たちはそこでお昼の礼拝をしてから、お墓詣りをしましたが、この団体ツアーには少し驚きました。以前トルコに来た時には見られない光景でしたので・・・ 団体ツアーと言えば外国の方が多かったのです。トルコ国内の人々がそれも女性だけのグループで遺跡?周りをする旅行をするということはめったになかったと思います。トルコでは重要な文化財の施設への入場料がタダになっているところが多くなりました

スレイマン大帝の息子・ムスタファ皇子と大帝の妃・マヒデブランの墓 in ブルサ

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コンヤ平原のスレイマン大帝のテントで亡くなったムスタファ皇子のご遺体はブルサに移されました。現在は  ムラディイェ複合施設 (ムラト2世コンプレクス)の中にあります。2019年7月28日のお墓の内部の様子です。ムスタファがなぜなくなりブルサに送られたのかはオスマン帝国外伝シーズン4のエピソード123と124に詳しく描かれています。 オスマン帝国外伝シーズン4 エピソード123前半   オスマン帝国外伝シーズン4 エピソード123後半の1 オスマン帝国外伝シーズン4 エピソード123後半の2  ムスタファの旅立ち オスマン帝国外伝シーズン4 エピソード124前半  オスマン帝国外伝シーズン4 エピソード124後半 ムスタファ皇子の墓の御参りをした7月28日はとても暑い日でした。外観はこんな感じです。 木に囲まれてこじんまりとした感じの雰囲気の良い建物です。 建物の向かって左側にお墓の説明が書かれてありました。 入り口 入り口の上に置かれた文字 入口を入るすぐ手前がムスタファ皇子の棺です。ターバンは男の人だけのせられます。 名前の書かれた石板はこんな感じです。 頭のほうから見ると、  脚の側からはこんな感じです 窓からの光がブルーを基調としたタイルを美しく見せていました。 タイルを近くで見るとチューリップの形がここにもありました。 そして入り口から2番目のムスタファ皇子の隣の棺はスレイマン大帝の息子バヤズィットの子・オスマン皇子と言われています。音kの子だったのでやはりターバンがのっています。 そしてその隣がスレイマン大帝の妃でムスタファの母であるマヒデブランです。 名前の書かれた石板はこんな感じ 次は反対側(マヒデブラン妃の足のほうから)の撮影です。 棺の上には黒を基調にした布がかけられています。 マヒデブランの隣にはもう一つ小さな棺がありましたが、名前はわかりません。ターバンはのっていませんでした。  ドラマの登場人物を身近に感じながら入り口から外に出て、建物の後ろ側を見てみると大きな木がありました。木のおかげか建物のおかげかわかりませんが、お墓の中は涼しいくらいでした。 お墓の中の壁や天井をご覧

オスマン・ガーズィー廟からブルサを一望!

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オスマンガーズィーとオルハンガーズィーのお墓はブルサの市街にあります。アタトゥルク通りに10分ぐらいかなり急な坂を登ったところにオルハン・ガーズィーのお墓が見えてきます。 そして少し先の左側にはオスマンガーズィーの墓があります。 そこは広場になっていて、少し先には時計台があります。時計台のそばで撮影したブルサの景色です。 お楽しみください。

アーシュク・ユヌスのお墓 1 動画

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トルコ語でイラーヒをかいた方、時々ユヌスエムレと混同される場合がありますが、彼は別人です。ユススエムレの100年後ぐらいに生きた方です。 「黄色い花に尋ねました」というイラーヒはユースの巣作品と思われがちですが、実は彼の作品です。 トルコ語のわかるトルコ人たちに親しまれ続けたこのイラーヒの作者のお墓はアパートとアパートの間を通っていき3畳ぐらいの小さなスペースに4体のご遺体が眠っています。 向かって左から右へアリ ユヌスエムレ(KS) アーシュク・ユヌス(KS) そしてアブドゥル・レッザークと碑にに書かれています。1406年ごろ作られたようです。 天井はなく空が見えます。その様子はこちらから    関連記事 アーシュクユーヌスの墓2 アーシュクユーヌスって

ガーズィー君の結婚式@ブルサ

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4月に兵役を終えて日本に遊びにやってきたガーズィー君。約一か月の滞在を終えてトルコに無事帰ったというお知らせをもらったばかりなのに、今度はなんと結婚するんだって連絡もらいました。そこでブルサのお墓を見がてら結婚式の様子をちょこっと除いてきました。 スラっとしてかなり二人ともかっこいい。ガーズィー君はあごひげをはやしていたので4月の時より大きく見えました。ぱっとみ竹野内豊さんに似ています。ガーズィー君のお嫁さんは モデルさんみたいでした。話すと知的な感じがするけど、遠くから見ているときれいなほうが目立ちます。 結婚式と言っても簡素なもので、結婚のサインにみんなが立ち会う?みたいな感じでした。結婚の契約のサインの後で、飲み物と軽食が出されました。立食パーティーみたいな感じです。その時にガーズィー君とそのお嫁さんはみんなの前に立ってみんなとあいさつを交わします。あいさつしたり、写真を撮ったり、みんなが贈りものを渡します。しばらく飲食した後、みんなに苗木をプレゼントとします。三々五々帰っていきます。 ガーズィー君はガーズィー君の親友たちとお嫁さんとお嫁さんの親友たちでそれから食事をするために車で去った行きました。 一回り大きくなったガーズィー君。日本に来ていた時より明るい感じがしました。 最近はこのような結婚式?が若者の間では流行っているらしいです。 関連記事 https://osmanteikokugaiden.blogspot.com/2019/05/blog-post_37.html https://osmanteikokugaiden.blogspot.com/2019/05/blog-post_27.html

【オスマンベイの墓】 写真追加

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オスマン1世のお墓 彼は1258年で生まれました。 彼の人生はほぼ戦いですぎたと言われています。弓の名手です。父はエルトゥールルベイで母はハイマ・アナと言われています。。 1258年シェイフ・エデバーリの娘マルフムハートゥンと、結婚しオルハンベイと言う息子がいました。 ブルサを包囲したときオスマンはブルサの町の中にあるクッベをさして、もし自分が死んだらそこへ埋めるようにと遺言したと言われています。 オスマンガーズィーにとってブルサ攻略は最大の夢だした。まだ攻略していないそのブルサの街の中に埋葬するということは、オスハンに必ずその街を手に入れるようにと遺言したとも言えます。 年を取るにつれて彼は痛風に悩まされました。そのため統治者としての役をオルハンに譲りました。1324年亡くなったと言われています。 クッベのあった建物とはトプハーネ公園の左側にあるエリエ修道院の礼拝堂のことだそうです。 ブルサを手にした後、オルハンガーズィーはこの修道院をお墓に変えます。 1855年に地震によりお墓が崩れたため1863年にアブドゥル・アズィーズによって修復されました。天井は8角形です。 この墓にはムラト1世の息子サヴジュベイ、オルハンベイの妻のアスプルチェ・ハートゥンと彼女の息子イブラヒムベイ、そして オスマンガーズィーの息のアラエッディーンベイ、名前不明の2つの棺があります。 関連記事  オスマンベイの墓 の説明  ブルサ旅行1・オスマンベイの墓のある公園    ブルサのママは強し オスマンベイの廟の入り口の横にある説明文 廟の外観 入口 向かって左側の紋章拡大すると 入り口から入って見えるもの 茶色ぽい覆いと茶色のターバンがオスマンベイの墓 右回りするとこんな感じ上の写真の旗のある方からの取ったオスマンベイの墓 ここでファーティハをおくる。 先に進むと オルハンベイの息子イブラヒム皇子の墓とその隣にオルハンベイの妻のアスプルチェ・ハートゥンの墓(ターバンがしてある方が皇子)ここでもファーティハをおくる。 さらに右に曲がると反対側はこんな感じ 入り口の反対側の拡大写真 簡素な模様の天井 オスマン帝国君

【オルハンベイのお墓】 写真追加

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オスマンガーズィーのちょうど向かい側に、オルハンガーズィーの墓があります。彼は1281年に生まれました。 15歳で初めて戦いに出かけ、彼も父オスマンと同様戦いでほぼ人生を過ごします。45歳で長になり、1326年ブルサを、1329年イズニクをそして1337年ゲミリクを征服しました。 ブルサを獲得した後すぐに行ったこと城壁の外に新しい中心地を作ったことです。それからオルハンモスク、隊商宿のエミルハン そして公共浴場のセンギュルハマムとイマーレトなどの複合施設を建設していき、商業の発達に貢献します。 ビザンツ帝国にマルテペの戦いで勝利し、アンカラとゲリボルでもかったため多くの君侯たちが彼の元へ集まってきました。 1345年にビザンツ帝国と協議の結果、 皇女テオドラ を妻に迎えることになります。え!とおどろくことでしょう?ビザンツ帝国は完全なる敵だと思っていましたが、実はオルハンベイの時代にはかの国からお嫁さんをもらっていたんですね。 彼はヨーロッパ側からコンスタンチノープルに徐々に迫っていきます。ゲリボルの次にはボアユゥル、 ハイラボル、 テキルダウを獲得しました。 1360年79歳で亡くなります。 ブルサのエリア修道院の一角を墓の形に整えそこに埋められました。 そのためか教会にによくあるモザイクタイルが今で墓に残っています。1855年の地震で崩壊しましたが、1863年アブドゥルアズィーズによって建て直されました。 ほかにお墓には配偶者の ニルフェル・ハートゥン 、息子のカスィム、娘のファティマ、ジェムスルタンの息子アブドゥッラー、バヤズィット2世の息子ムーサ・チェレビ、名前の不明の4つの棺があります。 撮影日2019年7月26日 お墓のある公園の入り口 オルハンベイ墓の説明文 入り口  向かって右側がベヤズィット2世の息子コルクト皇子の墓 左はオルハンベイの墓 オルハンベイの墓 オルハンベイの配偶者ニルフェルはハートゥンの墓 オスマン帝国君主10代まで オスマン  オルハン  ムラト1世 バヤズィト1世 メフメト1世 ムラト 2 世 メフメト2世 バヤズィト 2 世 セリム 1 世 スレイマン 1 世
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