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17世紀に空を飛んだ偉大なトルコ科学者 ヘザルフェン(ズームでオスマン帝国外伝を語る会)

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 ハナーは休職中。初めてズームを使ってズームでオスマン帝国外伝を語る会が復活しました。今までコロナでなかなか会えなかったメンバーですが、久しぶりの再会です。残念ながらあんねあんねはいません。(PCが使えないそうです。)話題はムラト皇帝のことのようです。 (今までの話題はこちらから )

オスマン建築やシステムはムフテシェン(Muhteşen)壮厳だった

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  2008 年にトルコで始まったユズユゼというトークショー番組の司会だったケナン・エルチェティンギョズさん。 招かれたのはオスマン帝国外伝でオスマン帝国外伝のセットです。 スンビュル役をつとめたセリムバイラクタルさんがガイドしてくれます。オスマン帝国外伝おドラマのセットに初めてカメラが入った時のことです。それまでセットは秘密にされていました。 このセットは本物のトプカプ宮殿にそっくりに作られており、中に入ったとき、「厳かさを感じる」とケナンさんは語っています。

オスマン帝国の本物の皇帝の姿がみられる貴重な映像を発見!

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映像で観られる実際のオスマン帝国の皇帝の姿は オスマン帝国外伝の軍服姿の雰囲気がちょっと違いますね。 なぜなんでしょうか? 話はちょっとそれますが、昔よくヨーロッパでやんちゃな子供たちがなかなか寝ないとき、母親たちは「オスマン軍がやってくるよ」と脅かして寝かしつけたというお話がトルコで伝えられています。オスマン帝国外伝の主人スレイマン大帝の時代まではオスマン帝国はそんな逸話が伝えられるほど、ヨーロッパに非常に恐れられていました。 オスマン軍が強かったためでしょうか、現在のヨーロッパの軍服には、当時のオスマン帝国の軍服は大きな影響をあたえています。中でもサッシュはいくつかの国々での軍服にみられます。 ただこの映像は私たちがイメージする服装と違って私たちがかなり見慣れた様相になっていますね。 それは実はトルコでは 1800 年代に入ってタンジマートという改革が行われたからです。 そのころ強大になっていたヨーロッパに対抗するためには、これは致し方のない変革でした。日本でも 1800 年代に明治時代になり、近代国家を目指し、ちょんまげを棄て西洋式の服を着て、廃藩置県を行い、中央集権的な国家を目指していましたが、トルコも同じでした。そのタンジマートでは軍政の改革も行われたんです。 それまでデヴシルメという制度で、海外の子供たちを集め、幼いときから皇帝直属に仕えるような教育をしてきたのが、年代が下る連れ、そういった兵士たちが世襲化していきました。ということはある程度、財も地位もある状態の人々が兵士になっていきました。そうすると皇帝の命令をびしっと聞かせることは不可能になり、兵士たちを中心とした反乱が何度も起こるようになったのです。これはドラマ「続オスマン帝国外伝」を観ていただけるとわかると思いますが、キョセムの生きた時代はイエニチェリノ反乱に次ぐ反乱の時代でもあったのです。 スレイマン大帝の時代はカプクルと言って奴隷出身の官僚が多かったです。(ドラマでもイブラヒム宰相やリュステム宰相を初め下級兵士までいっぱいいましたね) ところが続オスマン帝国外伝の時代はアフメト 1 世の時にも、何度か反乱がおこり、皇帝病気説が噂されたときは、宮殿まで乱入するという事件がおこりました。(それを沈めたのが妻のキョセムでした。それ以後キョセムは神話化されます)アフ

スレイマン大帝からムラト4世までの時代 悲惨な最期を遂げる大宰相たちが多い?

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大宰相が処罰されるたびに思うのですけれど、皇帝の妹や娘と結婚した大宰相の最後はみな悲惨なのでしょうか。 オスマン帝国外伝ではイブラヒムパシャ、カラアフメトパシャが処刑、ルトゥフィパシャは幽閉、 リュステムパシャ(一応病死、ドラマではアトマジャに殺された)も無残な死に方でしたね。 アヤスパシャは病死しました。 後誰でしたっけ? スレイマンパシャですね。皇帝の前で剣を抜いたために解雇され間もなく死亡しました。 原因は大ハティジェ皇女の夫です。バヤジト皇子が イランのタフマースブに捕らえられたときバヤジトのために交渉に行ったヒュスレヴパシャは当時第二宰相の自分大宰相になれると思っていたの第三宰相のスレイマンパシャが大宰相についたため、しばしばスレイマンパシャと口論になり、最後は皇帝の前で刀を抜いてしまいました。二人とも同時に解雇されます。ヒュスレヴパシャは失望しその後食を絶ち死亡しました。 続オスマン帝国キョセムに出てくる デルヴィシュ大宰相 も死刑でした。彼はドラマではアフメト 1 世の叔母にあたるファーリエと結婚したことになっています。 ムスタファ皇帝の時代の カラダウド大宰相 もムスタファの妹デルルバーと結婚していた。ドラマでは彼はキョセムの手の者によって処刑された。そして今度は トパルパシャ 。死刑執行人に絞殺されました。(ドラマではちっと違ってます) ちなみにトパルパシャの次に大宰相になった タバヌヤッス メフメドパシャ もムラト4世によって処罰されています。彼は姻戚関係はなかったようだけれど、他にも大宰相でえらい目に遭った方々は多いですね。 ということで大宰相の職は確かに権力は強いものの、就任することは本当に命がけだったのですね。  スレイマン大帝の時代の大宰相 Pîrî Mehmed Paşa       25 Ocak 1518   27 Haziran 1523 普通に引退 Pargalı İbrahim Paşa 27 Haziran 1523       14 Mart 1536 絞殺 Ayas Mehmed Paşa      14 Mart 1536   13 Temmuz 1539 病死 Lütfi Paşa     13 Temmuz 1539      Nisan 1541 解任されデメトカに蟄居

旅行家ハンスダーンシュワム氏が見たバヤジト皇子の人と成り (ほんとのオスマン帝国のお話)

1555年エディルネでバヤジト皇子を見た旅行者の H. Dernschwam ハンス・ダーンシュワム (1494-1568) は 「気質が父親にのバヤジト皇子のことを彼は背が低く、青白く、黄色い肌で、薄い口髭をしていたといっています。さらにハンスは「彼はメランコリックだが、勉学と善行を好み、高潔で、詩の才能があり、知的で、謙虚でそして勇敢な人」と説明しています。

スレイマン皇帝は事前リュステムに約束していた? オスマン帝国外伝シーズン4

 ドラマでは、ムスタファの死後、スレイマン皇帝はムスタファの死にリュステムが関与していたことを知り激怒したためリュステムは大宰相の座を追われたとなっている。 でももし本当に激怒しての決定だったのなら、リュステムの死は免れなかっただろう。現にスレイマンの義弟のフェルハト(ベイハン皇女の夫)、イブラヒム(ハティジェ皇女の夫)は殺され、ルトフィは幽閉、そしてファトマ皇女の夫カラアフメトもムスタファ死後しばらくして処刑されている。 彼は大宰相の座を解かれてイスタンブルに戻ってからも、同じ家に住み、史実では肩書はなくても彼を通さずに、政務は進まないようになっていた。死を免れただけでなく、以前と何ら変わりのない生活を続けていた。そしてカラアフメトのあとまた大宰相に復帰したのだった。 ではなぜリュステムだけが安泰だったのだろうか? 娘フリマーフの夫だったからだろうか?義兄弟よりも婿のほうがより近いからだろうか?それは違うだろう。婿よりも息子の方がより近いはずだ。 そこ浮上したのは二人の間で了解されていたことだという説だ。しばらく後にスレイマン皇帝はまたリュステムを大宰相にすると約束し、ムスタファの死の責任をリュステムに向けることによって、兵士たちの自分への非難を逃れようとしていたというのだ。 ☆☆☆ 皆さんはどう思われますか? スレイマン皇帝は本当にムスタファの無実を知らなかったと思いますか?それとも無実だと知ったうえで命を奪ったのでしょうか? このことはスレイマン皇帝に尋ねてみないとわからないことですが、ドラマのようにスレイマン皇帝がリュステムたちに騙されてしてしまったことだと考えたいです。息子ムスタファ皇子の無実を知っていたけれど、自分が皇帝の座を下ろされるかもしれないという恐怖のために息子を殺めたのだたしたらかなしずぎますから・・・

ムスタファの死の前夜  シーズン4 オスマン帝国外伝を語る会

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50話ムスタファの死ハイライトはこちらから ムスタファの死 ムスタファは1553年10月6日コンヤの平原で亡くなった。ところで2019年7月現在ムスタファの眠っているお墓の建物の入り口の反対には木が一本立っている。その木になぜかとても惹かれる。その木を見ながらムスタファは何故死んだのか?ムスタファの死ぬ前はどんなだったのだろうか?そして彼の死後は何が変わったんだろうか?と何となく考えた。

史実 【ミフリマーフ スルタン】 オスマン帝国外伝登場人物

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1522年イスタンブルで生まれた。 父はスレイマン1世。母はヒュッレム妃。 ミフリマーフは文献ではMihrimahとよく使われるがオスマン帝国の資料には “Mihr ü Mah ”と書かれる。 スレイマン1世には娘が1人しかいなかったためとくに父親にかわいがられ、母親と共にに育った。 ディヤルバクルの長リュステムパシャと結婚することになったが、彼にハンセン病と言う噂がでまわりスレイマン大帝が調べさせるためにディヤルバクルに医者を送ったといわれている。しかしこの伝承は正しくなく、後に政治的な争いの結果書かれた可能性があるともいわれている。 1539年11月ミフリマーフとリュステムの結婚と同時にバヤズィトとジハンギルの割礼式も行われた。 結婚後夫の昇進に尽力し、母ヒュッレムと共に権力を握った。夫リュステムが 大宰相に就任するとますます権力は増大した。 ムスタファの代わりにバヤズィトを支持し、彼を皇位につけようとした。 1553年ムスタファが処刑と同時に、夫リュステムは大宰相の任を解かれた。この時夫が死刑にならないようにヒュッレム母に強くお願いした。ヒュッレムも手紙をスレイマン大帝にかけ婿の許しをこうた。 その後ミフリマーフは母と共に尽力し、カラアフメトパシャの処刑後、再びリュステムを大宰相の座につかせることに成功した。  ヒュッレム妃がなくなるまでバヤズィトを次期皇帝にと懸命に働いた。 ヒュッレム妃の死後彼女のサライでの影響はますます増大した。スレイマン大帝は何でも彼女に相談するようになっていった。 その後もバヤズィトのために働いたが、 バヤズィトが無関心だったため セリム側についた。 リュステムパシャが1561年亡くなったがその後結婚はしていない。 子供は アイシェ ヒューマシャー とオスマンの二人いた。 スレイマン大帝がなくなった後のセリム2世の時代に、ミフリマーフは 宮廷でもハレムでも最も影響力のある女性の一人 として活躍した。 エスキサライで生活していたが、高い給付を獲得していた。  その当時イスタンブルに滞在していたドイツ人旅行家ステファンガーラックStephan Gerlachによると1578年1月25日に亡くなった。お墓はミーマルシナンが造ったスレイマニイェジャーミの父の墓の隣にある。 文献によるとミフリマーフは良い教育を受け上手に話し上手に描くこともでき

史実 ミフリマーフの娘 アイシェ・ヒューマシャーAyşe Hümaşah Sultan  オスマン帝国外伝登場人物

 1541イスタンブルで生まれた。母は ミフリマーフ 、父はリュステム。スレイマン1世とヒュレム妃の初孫。  小さい頃はミフリマーフとリュステムのそばで育った彼女は母親や祖母と同様オスマン帝国の政治にも強い影響力を示した。 後に宰相になったセミズ アフメト パシャと結婚。  子供はアフメトとパシャとの間に アブドゥルラフマーン ベイ、メフメトベイ、 シェシヒード ムスタファパシャ、 オスマンベイの4人の子供を授かった。 1589年アフメトパシャがなくなり、そのあと1592年にシャンジュ フェリドュン ベイと結婚したが、結婚一年後彼は亡くなった。 1594年息子と共に巡礼にいったアイシェヒューマシャースルタンは、戻ってすぐにウスキュダルの家で亡くなった。 一説ではハサンベイと結婚しもう一人娘を授かった言われている。 また一説では1590年に アズィーズ マフムト ヒュダーイ エフェンディ と結婚したともいわれている。彼女の名にちなんだアイシェヒューマシャーモスク 1594に建てられた。他に彼女の名のテッケが2つ、テッケの前には水のみ場もあった。

ミーマルシナンはアヤソフィアよりも大きいモスクをつくりたかった? オスマン帝国外伝シーズン3 78話ハイライト

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  マトラークチュがある建築現場をあとずれた。机の上にはモスクの設計図が置かれていた。どうやら青空の下で設計がなされているようだ。 マトラークチュは興味深そうにその図面を見ていた。少し年を取ったがマトラークチュも数学や絵画に卓越した歴史家だった。だからモスクの設計図にみ人一倍関心があるのだ。しばらくすると中から髭のはやし、腰には建築用の道具をぶら下げた男が出てきた。 彼は出てくるなりマトラークチュをみると 「16メートルですね?」と話しかけた。 さすが将来大建築家になる運命の者が語る挨拶はちょっと違う。 マトラークチュも気が付き 「10、9、 と数えながら、シナン何を見つけようとしているのだ。何を計算しているのだ?」 と挨拶を返した。当時の科学者は(今の科学者も一部そうだけど)三度の飯より科学の話が好きだった。マトラークチュも例外ではない。(残念ながらドラマでは最近はリュステムとの確執の場面でよく出てくる。本来はもっと違った生活を送っていたに違いなし) 「きかないでください、ナスフエフェンディ 私は長い間アヤソフィアを夢見ているのですよ。一日中 この(長さや幅や奥行きなどの)寸法とその割合を計算はすべてそのためですよ。夜も昼もずっとね。彼らに安らかの眠りを!イシドロスとアンテミオスは偉大な学者だったのですよ。 わあなんとシナンはあのアヤソフィアに魅了されていたんだ。シナンはそれを造った建築家を讃えた。 そういうとマトラークチュも楽しそうな表情をした。 「その通りだな。1000年も前に世界で最も大きな教会を彼らは造ったのだからな。今はそれが世界で最も大きいモスクだからな」 と当時アヤソフィアはモスクとして使われていた。メフメト2世によってコンスタンチノープルが陥落したのち、そこはモスクとなったのだ。そしてアタテュルクの時代、90年前に博物館として、人々に親しまれてきた。1985年にユネスコの世界遺産にも登録されたのだが、 1か月前の2020年7月 アヤソフィアは再びモスクとなった。 gördüğünüz tüm before - afterları unutun♥️ #AyasofyaiKebirCamiiŞerifi pic.twitter.com/ZwRdsP4xkd — Fatma Büşra Ayaydın (@busraayaydin) July 23

ハセキ スルタン キュリエスィ(複合施設) ヒュッレム妃はほんとは人助けが大好き?

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オスマン帝国外伝シーズン3でヒュッレムがモスクを建てさせることになったのですが、それを作ったのはミーマルシナンです。 モスクの形そのものは気にいったのですが、場所を当時アヴラト市場と言うかなりにぎわっていた場所に変えてほしいとドラマではヒュッレム妃が言っていました。 場所はイスタンブルのヨーロッパ側のファーティフ地区にあります. モスクは割合小さいのですが複合施設として一部としてみると、その役割はしっかり果たしていると言えます。モスクの向かい側にはスブヤンメクテブ(中等学校)やメドレセさらに病院とイマーレが建設され、複合施設としては充実しているとてもまとまった感じのする複合施設です。 ただハマムやが少しこの場所から離れています、複合施設として作られました。 初めてのモスクは1539年につくられました。ドラマでも模型がみられたと思いますが、ドームが一つの4角形のこじんまりしたモスクです。 5つの小さなドームのあるソン ジェマート イェリ と言う前がオープンになっている場があります。 最初に手掛けたのはミーマルシナンです。 現在はドームが2つになっています。それは1612年にアフメト1世が新たに付けくわえました。 ミンベル(説教台)は木製で幾何学模様で装飾されています。 メドレセは昔風で中央には中庭があります。 イマーレにも長方形の中庭がありその両側に部屋が作られました。 病院は八角形の中庭があり、南側には正方形で2つのドームのあるホールも用意されていました。 それから ハセキスルタン複合施設がみられる貴重な映像がありますので紹介いたしますね。 レポーターの語った内容はだいたい以下のようです。 このヒュッレム妃による複合施設がミーマルシナンにとってはイスタンブルでの初めての複合施設の建設でした。初めは 1 つの場所でしたが 1550 年代にはいると真ん中に通りができて二つに別れました。この通りの名ハセキスルタン通りと言います。 ハセキスルタン通りの向かいにある学校や病院や食堂では、生徒たちは、病気の人々や、旅人そして貧しい人々にすべて無料で教育や医療や食べ物が提供されました。 ここに来ればイマーレでいつでも料理が準備されており無料で食べることができましたが、ここまで来れない場合には家まで食べ物を運んでくれていました。 特に病院としての役割はとても重

シャースルタンشاه سلطان 史実  2013年墓が発見、母后の隣に眠っている。

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シャースルタンはセリム1世の娘。1507年とも1509年ともいわれるが明らかではない。 スレイマン、ハティジェ、ベイハン、ファトマの兄弟姉妹がいた。 マニサで1523年に後の大宰相ルトフィパシャと結婚したと言われている。。 1539年に彼女のサポートで大宰相の地位までついたルトフィパシャはイスタンブルで権力をふるった。 1541年ルトフィパシャと離婚した。その結果ルトフィパシャは大宰相の地位をはく奪された。 理由は夜の町で働く女性に与えた罰が正当化どうかで言い争いになり、シャーがたたかれたからと言われているが定かではない。 19年間続いたけっこんはこのようにおわった。 エスメハン(エスマハン)と言う娘が1人いた。 また1説では (タルク ヴェリオウル オスマン時代の心の王たちイスタンブルTarık Velioğlu,Osmanlının Manevı sultanları,2008、p110)の本よると シャースルタンはメルケズエフェンディと結婚したことになっている。 その本によると 「セリム1世の娘シャースルタンは最初の夫が亡くなった後、メルケズ  エフェンディと結婚させた。 ある日スレイマン大帝が妹を訪問したとき、天下の皇帝の娘シャーが洗濯をしているのをみた。 心の王(メルケズエフェンディのこと)が人をどのように変え、自我を制御する方法を得たを見て喜んだ。 『召使よ(シャーのこと)、ついにメルケズをおまえは見つけたのだな』と言った。 (タルク ヴェリオウル オスマン時代の心の王たちイスタンブルTarık Velioğlu,Osmanlının Manevı sultanları,2008、p110)の本よると シャースルタンはメルケズエフェンディと結婚したことになる。 (メルケズエフェンディは1552年に亡くなったので、1523年にルトフィパシャと結婚したシャーとは同一人物ではないのかもしれないが、ドラマではメルケズエフェンディのグループに多大の寄付をしている場面があった。そして ヒヤシンスの花をもらった場面があったが、あの時のシャー皇女の表情が本当は史実の彼女に近いのかもしれない ) たとえば一説では メルケズエフェンディのターリカのメンバーだったともメヴレヴィ―のメンバーだったともいわれている。 言うことでシャースルタンについて確かな情報はあまり得られて

史実イブラヒム パシャ③ 芸術家を保護し、寛容だった?

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イブラヒムパシャと同時代に生きた詩人でありで、ある職業に従事した者たちの生活の様子を伝えた作品( Tezkir)を書いた ラティーフィー (Latîfî)はイブラヒムパシャについて2つの物語を記している。 それに寄ると 彼は急激に出世し大宰相の職に就いた。その間の彼のふるまい、威厳、偉大な能力が、彼の傲慢さを増させ、名誉や地位に執着するようになったことを記されている。 さらにその偉大な名誉を誇りながら、突然一日にして処刑されたこと、これらから教訓を選ばなければならないことが述べられている。

史実 イブラヒム パシャ ① 

オスマン帝国外伝で悲劇的な最期でしたが、イブラヒムは大活躍しました。 彼はギリシャ国境内のパルガ近くの村で生まれ、 6歳でイスタンブールに連れて来られたと一般に認められていますが、 彼の人生の最初の数年について明確な情報はありません。 またバヤズィト2世の時代に軽騎兵(アクンジュ)たちに襲撃され捕虜になり ケフェにいたスレイマン皇子に贈られたという説や、 パルガの漁師の息子でトルコ人の海賊によってとらえられマニサ近くの 寡婦の家に売られ、 その後マニサにいたスレイマン皇子に仕えるようになったという説もあります。 これらすべての情報の正確さは疑わしいものですが、 彼が若い頃、 マニサでスレイマン皇子に仕えていたことが知られています(Uluçay、p。249)。 ドラマでは2番目のこの説がとられていましたね。 また、パルガ生まれの(Pargalı)フランク(Frenk)、殺された(Maktul)などのニックネームで知られています。 おそらく彼がマニサにいたときスレイマン皇子の近臣になり、 スレイマン皇子が皇位についたとき、一緒にイスタンブルに行きました。 スルタンに最も近い位置にあり、彼は宮殿で重要な任務を果たしました。 ベオグラード遠征(927/1521年)の間、彼は門番(kapı ağası )を務めました。 この時ごろこらスレイマン皇帝は自費でアトメイダン(Atmeydanı)に宮殿を作り始めました。 皇帝の信頼は、強化され、それがイブラヒムパシャの権力を増大させていきました。 小姓頭(Has odabaşı )とイチ シャヒンレリ バシュ(iç şahinciler ağası)となり、 ロードスの遠征に(928/1522)に参加しました。 ピーリー・メフメト・パシャの解任(1523年6月27日)まで イブラヒムパシャはルメリ・ベイレルベイの司令官終え務めました。 İbtihâcü’t-tevârîhによると、 当時第二宰相だったアフメトパシャはイブラヒムが大宰相になることに不服でした。 そのため御前会議で以後いごこちがわるくなり、アフメトパシャは自らエジプトの知事になることを申し出ました。 イブラヒム大宰相はアフメトパシャをイスタンブルから遠ざけたかアタので、 スレイマン皇帝に働きかけアフメトパシャの申し出は承認されました。 その後アフメトパシャがエジプ

オスマン帝国外伝 ミーマル シナン [Ters Lale]【逆さのチューリップ】の謎

ミーマルシナンは スレイマン皇帝に仕えた名匠・建築家です。 彼は多くのモスクや複合施設を建造しました。 その中でも最高傑作とされているのがエディルネにあるセレミイェモスクです。 これドームが一つだけの屋根と言うのが建築上難しいらしく、評価が高い作品です。

「パルガルイブラヒムパシャは別の国家を作るといったような考えがあったでしょうか?

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YOUTUBEある番組で   「パルガルイブラヒムパシャは別の国家を作るといったような考えがあったでしょうか? 自分自身をスルタンと言いましたか?」 と言う質問に 答えています。 答えは結論から言うと 「ありました」

フィルーゼの好きな詩人【ルーミー】とは(オスマン帝国外伝シーズン3 【7話から】

ルーミー 1207 年生まれ 1273 年死亡 神秘主義詩人。ペルシア語の詩集が有名。 1207 年ヴァフシュで生まれる。父はバルフで活躍した神学者。 1217 年バルフから移動し流れ流れてトルコの東のエルジンジャンヘたどり着く。 当時の支配者はセルジューク朝ケイクバート 1 世だった。彼の招待でコンヤヘ移住する。 そのがダマスカスで神学や法学を学んだ。 1244 年ごろシャムスタブリーズィーと出会い神への愛を知る。彼の強い影響を受け、多くの詩を残した。 1273 年コンヤで亡くなる。 トルコ詩人ユーヌスエムレも彼の詩を多く引用した。 オスマン帝国外伝のドラマで、スレイマン大帝もコンヤを訪れた時、彼の廟に参り祈りをささげた。またイブラヒムにルーミーの言葉をいい、仲尚路するシーンもある。このドラマでも藻ルーミーの詩が所々で引用されている。 主な作品には 精神的マスネヴィー シャムス・タブリーズ詩集 などある。 詳しくは 西田 さ ん の サイト levha.net  でどうぞ   関連記事 https://osmanteikokugaiden.blogspot.com/2018/08/blog-post.html

 フィルーゼの好きな詩人【フズーリー】とは(オスマン帝国外伝シーズン3 【7話から】

フズーリー ( 1483 年誕生、 1556 年死亡) 彼は遊牧生活をやめ現在のイラク地域に定住したオグズ族のバヤト族の出身です。 フズーリーは正確ではありませんが、 1483 年白羊朝の時代にイラクのカルバラまたはナジャフかキルクーク州のケール地区に生まれたようです。   ヒラー市のムフティであった父親から、教育を受け、後にラメトッラーという教師に学びました。 その後の教育について正確な情報はありませんが、彼の作品から、彼はイスラム科学と天文学のと語学の分野で非常にすぐれていたことがわかります。 トルコ語のほかにも、アゼルバイジャン語、アラビア語、そしてフィルーゼが語ったペルシャ語でも詩を書きました。オスマン語やチャガタイ語も知っていたそうです。   トルコ語の作品の中ででは "İlimsiz şiir temelsiz duvar gibidir, temelsiz duvar da değersizdir  「知のない詩は基礎のない壁のようなもので、基礎のない壁は価値がありません」 と綴っています。彼がここでいう知(イリム)とはイスラムの知です。 彼はこのように世俗的な愛というよりは神への愛、預言者と預言者のご家族への切望と別離などが彼の詩の主題でした。   彼は非常に誠実で叙情的な方法で自分の感情や考えを表現することに成功しました。 彼に匹敵するトルコ詩人と言えば、ユヌース・エムレ以外にはいないでしょう。 彼の作品「レイラとメジュヌーン」を題材にした詩は最高傑作です。   ハーフズ ( イランの詩人 ) やのネスィミーとネヴァイ ( トルコの詩人 ) に強い影響をあたえました。 1556 年にカルバラで流行した感染病(ペストまたはコレラ)で死亡したと思われます。   彼は自我を驕りから遠ざけるため、彼は「空の、不必要な、意味のない」を意味する「フズーリー( fuzuli )というの偽名を使用していました。本当の名前は ムハンマド・ビン・スレイマン( محمد بن سليمان Muhammad bin Suleyman )です。
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