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スレイマン大帝 誕生から帝冠式後まで

1494年11月6日トラブゾンで生まれる 父セリムは当時トラブゾンの州知事(総督)だった。母はハフサスルタン。

スレイマン大帝のお墓には黒石(アルハジャル=ル=アスワド))がある?トルコのお墓

シゲトバールから運ばれたスレイマン大帝の遺体はミーマルスィナンが7年かけて作ったスレイマニイェジャーミの後ろ側に埋められました。隣にはヒュッレムスルタンもいます。スレイマニェモスクは海沿いのトプカプ宮殿から30分ぐらい西北西へ歩いたところにあります。距離は2キロメートルぐらいです。タキスィムから行くならバスが便利かもしれません。48Tに乗ってスレイマニェジャーミ停留所で織ります。( 48T Hamidiye Mahallesi – Taksim Hattı) スレイマニイェジャーミの敷地内にある墓は1566年ミーマルスィナンによって建てられたと言われています。 スレイマン大帝のほかに スレイマン2世(Sultan II. Süleyman) アフメト2世(Sultan II. Ahmet,) ミフリマフスルタン(Mihrimah Sultan,) サーリハ母后(Saliha Dilaşûp Valide Sultan) アスィイェスルタン(Asiye Sultan ) ラービアスルタン(Rabia Sultan)が眠っています。 入り口には2つの窓があり扉にはカーベから持ってこられた黒石が埋め込まれています。中は大理石で装飾され、天井はドーム状になっています。 https://seyahatdergisi.com/kanuni-sultan-suleyman-turbesi/ ☆ 黒石 ٱلْحَجَرُ ٱلْأَسْوَد(アルハジャルルアスワド) の破片はトルコに全部で6つあります。アラビア語で アルハジャルはその石 で アルアスワドはくろい という意味です。 5つがイスタンブルにあり残りの一つはエディルネのエスキジャーミに保管されています。イスタンブルにある5個の1つがこのスレイマン大帝の墓の入り口のドアに埋め込まれています。 そして残りの4つはなんとソコルル・メフメト・パシャジャーミにあるんです。 https://www.a24.com.tr/hacerul-esved-kabe-tasi-nedir-nereden-geldi-simdi-nerede-haberi-40110147h.html?h=51 ☆スレイマン大帝は亡くなった場所に内臓だけ埋められました。遺体を腐らせずどのように運んだかは...

シゲトバール付近のÜzüm Tepesi(ぶどうの丘)でスレイマン大帝の墓を発見!

2013年にハンガリーの歴史家や考古学者によって始められたカヌーニ・スルタン・スレイマンの不明の墓を見つけるというプロジェクトは終わりはむかえた。調査の結果、スレイマン大帝の墓はオスマン帝国街跡で発見!された。 オスマン帝国外伝の主役スレイマン大帝の墓はシゲトバールの近くのウズンテペスィで発見された。この丘はスレイマンの最後の戦いになったシゲバトール包囲戦の時に、本部隊とスレイマン大帝のテントが作られた場所であることも明らかになった。  BBCトルコによると46年間、領土を拡大し続けたオスマン帝国皇帝・スレイマン大帝はこのシゲトバール付近の丘で命を落としたが、敵の城が落城するまで彼の死は伏せられ、ここにひそやかに埋めらた。 シゲバトール占領後、遺体はイスタンブルに移された。 スレイマン大帝は一時的にその土に埋められ、後にイスタンブルに運ばれたが、内臓だけはここに残った。内臓が埋められた場所がのち墓の形式をとり、ハンガリーを統治していた150年間はオスマン人たちにとって重要な詣場所となっていた。 オーストリア軍がオスマン軍から領土をとりもどした後,彼の墓は破壊された。墓があったことは語り継がれ多賀、その所在は明かではなかった。  ノルベルト・パプ教授の指導の元、トルコの協力機関TİKAとハンガリー科学アカデミーが協力して墓を発見した。この調査は墓だけでなく、当時のオスマン時代のかなり栄えた街の発見にもつながった。 街の中心部には堀や壁に囲まれた墓、テッケ(修行場)、モスク、兵舎があった。はじめは役人たちが、その後次第に民衆が移住し始め、2つの通りから成るおおきな街に発展した。 1664年エヴリヤ・チェレビがその旅行記の中に街の建物の一部が建設中であると記さしている。1683年ウイーン遠征へ向かうカラ・ムスタファパシャがここの地を訪れ、墓のすぐ近くの宿に泊まったという記録もある。 スレイマン大帝の墓とその周辺の発掘とすべての建物の発掘はオスマン帝国の歴史の空間をうめるのに役立った。 墓の発見はトルコ人だけでなく16世紀から150年間オスマン帝国支配化で生活したハンガリー人にとっても重要なことだった。 「歴史との調和は人々の間に平和をもたらす」とわれるように、ハンガリーとトルコの政府と専門家の両方が、今後数年間でスレ...

【スレイマン大帝】の治世 その3 イラク・ペルシャ湾、東地中海を手にする

シーズン2の初めに1526年モハーチの戦いで大勝を収めたオスマン軍はイスタンブールに戻る。 日本では室町幕府が『御成敗式目(ごせいばいしきもく)(享禄版)』を完成させたころのことだが、3年後の1529年5月にスレイマン大帝軍は出発する。ベオグラードに7月に、9月の末ウィーンに到着したオスマン軍総勢12万対ウィーン防衛軍5万の戦いが始まった。防衛は思ったより硬く、ナポレオンがロシア遠征で失敗した理由と同様冬という季節、自然の驚異がオスマン軍を容赦なく襲い、オスマン軍は撤退を余儀なくされた。 1534年最愛の母ハフサ皇太后が亡くなる前後、東ではサファヴィー朝がアナトリアで次々と反乱をおこす。クズル・タッジ紅帽という赤い帽子が目印の「紅帽の徒」を鎮圧するためにオスマン軍は東へ出兵する。 1533年10月21日イブラヒム・パシャはイラン方面へ向かう。これらの戦いで奮闘している。トルコドラマ・オスマン帝国外伝ではニギャール問題で窮地に陥ったころのことで、イブラヒム・パシャは史実ではハフサ皇太后なくなる前の年に遠征にでかけている。 1534年7月1日、オスマン軍はメヴラーナがこよなく愛した方シャムスッディーン・タブリーズィーの生まれ故郷でもあるイランのタブリーズへ入る。 1534年6月11日にスレイマン大帝も遠征に出かける。9月29日イブラヒム・パシャの軍と合流する。 11月29日ダマスカスが陥落する。次にバスラをそしてペルシャ湾についに至る。 海といえばドラマオスマン帝国外伝シーズン3の1話から登場するバルバロス・フズールが大活躍する。フズールは1533年12月27日にイスタンブルに到着する。スレイマン大帝に会い、海軍の最高司令官に命ぜられる。彼の奮闘努力で地中海の覇権を手に入れる。 1534年大提督フズールはチュニスを占領するが、チュニスの援軍として駆け付けたカール5世率いるハプスブルグ軍に敗れ、1538年プレヴェザの戦いが起こる。フズールはアンドレア・ドリア率いるヨーロッパ連合艦隊を打ち破る。 負けじとその3年後の1541年にカール5世はアルジェリア(フズールの本拠地)を占領しようとしたがフズールの守りは固かった。 1543年ニースを占領し、1546年フズールがなくなるまでに地中海の東半分の実権をスレイマン大帝は握った。海に関して言えば父セリ...

スレイマン大帝の治世2 フランスとハンガリーとオスマン帝国

スレイマン大帝の治世 2 1541年ブダ州が置かれるまでハンガリーのハプスブルク家とオスマン軍の攻防が行われた。 1519年、そのハスブルク家からスペインの王が出現する。(カルロス1世)その後この方はローマ皇帝として君臨する。ローマ皇帝への道もかなり大変で、フランス王(フランソワ一世)と争った結果手に入れた座だった。1525年名実ともにヨーロッパの最高権力者になった。でどうする?フランス!なんと長年の敵国であるオスマン帝国のスレイマンがフランスを助けた。理由は西進したいオスマン帝国には利用価値が十分あったからだ。勿論フランスはドイツのルター勢力やローマ教皇クレメンス7世との連携して何とか自国を守ろる努力もしている。 というわけで 1526年8月29日のモハーチの戦いから3年後の1529年スレイマン大帝はウィーンを包囲する。 つづく

スレイマン大帝の治世1 オスマン帝国外伝2の1話から4話の時代

スレイマン大帝 スレイマン1世 カーヌーニースレイマン 1520年 当時マニサの知事だったスレイマンは26歳で即位する。まずシリアでガザーリの反乱を1521年2月に鎮圧した。それから「赤いリンゴの国」をめざして13回の親征を開始する。  1回 1521年 ヨーロッパンの玄関のベオグラードへ ベオグラードを手に入れ喜びのうちに帰還したスレイマン大帝には悲しいニュースが待っていた。それは二人の息子ムラトとマフムトの訃報だった。  2回 1522年 ロードス島は海路航路の重要地点であった。スレイマン大帝は曽祖父のメフメト2世が得ることのできなかったロドス島へ向かう。彼にとってロドス攻略を必須だった。そこに海賊活動をしていた聖ヨハネ騎士団がいた、かなり手ごわく、苦戦した。 1522年6月4日海軍が出発。6月18日、スレイマン大帝はウスキュダルから陸路で出発した戦争中にヒュッレムの息子メフメットが生まれたことを知る。 ロドス島にはジェム伯父の息子がいた。彼の命を奪い、彼の娘たちと妻はイスタンブルに送られた。 激戦後ロドスの長は島を明け渡すことを受け入れ、マルタ島へわたった。 12月29日スレイマン大帝はとうとう念願のロドス島に入った。 1523年1月2日島を去った。 イスタンブルに戻るときも狩りをしたり、ラクダのレスリングを見物したりして過ごした。 帰還後、小姓頭(ハス オダ バシュ)のイブラヒムパシャが大宰相となる。エジプト総督に就任したばかりのアフメット・パシャがそれに不満で、反乱を起こす。エジプトの税収はかなり多く、エジプトの安定的な統治は重要課題だった。  3回 1526年 ハンガリーへ西進し、ハンガリー大平原にある モハーチで戦い 、ハンガリー軍の勝利する。 つづく

モハーチの戦い後のスレイマン大帝の言葉@エピソード26、オスマン帝国外伝

スレイマン大帝のおかげで大勝利を勝ち取った旨をスレイマン大帝に言うと、スレイマン大帝は「思い上がりが心に満ちている。それに対抗しよう。」と 鏡に向かって話しかける。   悟れ  わすれるな   謙虚であれ  名誉と力はお前のものではない  主に感謝せよ  お前がお前自身を打克たせたのではない  主に対して敬意を示し、そして民衆に尊べ  お前の体、考え、意志がお前のものだと思うな  そう思ってもそれらはおまえのものではない  主からの恩恵はお前からのものではない  お前の自我を滅せよ  さもなければそれがお前を滅する  おごりに打ち勝てスレイマンよ  すべてのファラオにはモーゼがおり、すべての悪には善がある  信じよ  思い出せ  お前がどのように生まれどこへ逝こうとしているかを忘れるな  そうすれば天国の扉はお前に開かれる  お前の良心はクブラだ、スレイマン  見失うな