史実 イブラヒム パシャ ① 

オスマン帝国外伝で悲劇的な最期でしたが、イブラヒムは大活躍しました。

彼はギリシャ国境内のパルガ近くの村で生まれ、
6歳でイスタンブールに連れて来られたと一般に認められていますが、
彼の人生の最初の数年について明確な情報はありません。

またバヤズィト2世の時代に軽騎兵(アクンジュ)たちに襲撃され捕虜になり
ケフェにいたスレイマン皇子に贈られたという説や、

パルガの漁師の息子でトルコ人の海賊によってとらえられマニサ近くの
寡婦の家に売られ、
その後マニサにいたスレイマン皇子に仕えるようになったという説もあります。


これらすべての情報の正確さは疑わしいものですが、
彼が若い頃、
マニサでスレイマン皇子に仕えていたことが知られています(Uluçay、p。249)。
ドラマでは2番目のこの説がとられていましたね。
また、パルガ生まれの(Pargalı)フランク(Frenk)、殺された(Maktul)などのニックネームで知られています。

おそらく彼がマニサにいたときスレイマン皇子の近臣になり、
スレイマン皇子が皇位についたとき、一緒にイスタンブルに行きました。
スルタンに最も近い位置にあり、彼は宮殿で重要な任務を果たしました。
ベオグラード遠征(927/1521年)の間、彼は門番(kapı ağası )を務めました。

この時ごろこらスレイマン皇帝は自費でアトメイダン(Atmeydanı)に宮殿を作り始めました。


皇帝の信頼は、強化され、それがイブラヒムパシャの権力を増大させていきました。
小姓頭(Has odabaşı )とイチ シャヒンレリ バシュ(iç şahinciler ağası)となり、
ロードスの遠征に(928/1522)に参加しました。

ピーリー・メフメト・パシャの解任(1523年6月27日)まで
イブラヒムパシャはルメリ・ベイレルベイの司令官終え務めました。

İbtihâcü’t-tevârîhによると、
当時第二宰相だったアフメトパシャはイブラヒムが大宰相になることに不服でした。
そのため御前会議で以後いごこちがわるくなり、アフメトパシャは自らエジプトの知事になることを申し出ました。

イブラヒム大宰相はアフメトパシャをイスタンブルから遠ざけたかアタので、
スレイマン皇帝に働きかけアフメトパシャの申し出は承認されました。

その後アフメトパシャがエジプトで反乱を起こします。
それを見事に鎮圧にエジプトの「財務管理」を整えました。
その時エジプト君侯(Mısır beylerbeyi )の称号があたえられました。

カイロに滞在中彼は公的秩序をたもちながら、
古い法律書や重要な書物を探しだします。そしてそれらの代わりに
新しい法律を発行し法を整えました。(930/1524)。

この重要な任務の結果が評価され彼の権力と影響力は増大していきました。


この2年後ハンガリーの遠征が行われ、モハーチの戦いでは彼の戦略により大勝利をおさめました。
勝利後、彼は皇帝と共に入ったブディンにあった彫刻をイスタンブールに運び、
宮殿の庭におきました。
ですがこれに反対する者も出てきました。
彼がエジプトにいたときも
イェニチェリにより彼の宮殿は略奪されます。

彼が突然大宰相になったことへの不満でした。

実際のところ、ベネチア大使館の報告によると、
イブラヒムパシャは最初は嫌われてましたが、
皇帝の信頼を得ていた彼に対しては
母后や、皇帝の妻、他の2人のパシャたちも
かれと良い関係を気づかざる終えませんでした。
彼の宮殿の庭に建てられた彫刻は、
不満の結果としてフィガーニの詩に表されています。

Dü İbrâhîm âmed bedâr-ı cihân /
Yekî büt-şiken şüd dîger büt-nişân(偶像を建てる者)”
büt-nişânとは偶像を建てる者と言う意味です。

ヴェネチアの報告書には、
彼がヨーロッパの古い王の歴史に興味があり、
既存の王朝を知ろうと努めた
と述べられています。

参照
https://www.devletialiyyei.com/pargali-damat-ibrahim-pasa-sayfa-120.html

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