
ジハンギルはイスタンブルのベイオウル(Beyoğlu)地区の隣に位置しているだよ。

狭い道や公園やカフェなどがありますね。

タクシム(Taksim)とカバタシュのあいだよ。

タクシム広場から南へちょこっと下ったところで、イスタンブルに移住した外国人や芸術家たちが多く住んでいる場所で
すね。ジハンギル地区にはジハンギル通りやアカルス通りもありますよね、たしかシンさんは行ったことがあるのでしたよね

いいや、そこの先の海岸に降りて行って、そこでmidye ルーム貝のフライを串刺しにしたやつをほおばったんだが、、旨かったぜ‼

わあ、そうなのおいしそう !

ところでこの地名の由来はシェフサーゼジハンギルに由来しているんですよ

え!人名だったんだ!やっぱりね

はいそうです。ロセ マリネ ロカンタのちょっと海よりの方にスレイマン大帝がジハンギル皇子の死を悼んでミーマル・スィナンに造らせた木でできたモスクがあるのですんですよ

おお、そこはながめがいいぞうー。ボスポラスを見渡すことのできる。100万ドルの絶景だ!

その眺めの良いこのモスクの名にちなんでこの地域はジハンギルと呼ばれるようになったたんです。

へえ、スレイマンのちちごころってやつなんんだね、せめて眺めのいいところにっておもったんだよ、きっと ・・・

でもジハンギルは親より先になくなってしまったのよね、かわいそうだわ、ほんとうに・・・

その早世したジハンギルなんですが、ペルシア語でジャハンは征服者を意味しジハンギル(جهانگیر)は世界の征服者という意味らしいですよ。

へえ、すごい名前を付けたんだね、ヒュッレムたちは・・・

それでその場所って昔どんなだったのかしら?

その昔ビザンチン時代には人が住んでいなかったぞ、かすかに修道僧たちが修練の場として生活していたようだが

スレイマン時代この地区は狩猟するための森でした。そしてスレイマンの息子のジハンギルのお気に入りの場所でもあったのです。

わあそうなんだ、確かにジハンギルは森を愛しそうな感受性の強い子だったものね

ジハンギルの死後、スレイマンはボスポラスを見下ろせるこのすばらしい場所にジハンギルのためのモスクを造らせたなんて、ジハンギルのことをスレイマン大帝は心から愛していたのね。

うん、でも森だったなら、その当時も多くの人が住む場所ではなかったんだよね

はい そうですしばらくは閑散としていました。

19世紀にイスタンブルでは火災事故が頻繁に起こり、1916年にはこの地域は全焼してしまったんだよ、

19世紀後半から20世紀にかけて石積みの建物や大きなアパートが立ち始め、栄え始めました。

そうそう、非ムスリムの人々がこの地区に1920年以降すみはじめ、ペラと言う場所にはロシア人の移住者も住み始めたんだったな

はいそして共和国建国後、この地域の開発はさら進み多くの建物やお店が作られました。

へえそれでこんなに今栄えているんだね。全世界から人が集まるんだものね。

そうとも言えますがそうともいえません。おっしゃる通りジハンギルは1930年から1950年にかけて芸能人の住む場所、会合する場所、豪華なマンションのたちならぶ場所、富裕の人々の住む場所として有名になりました。ですが1960年からベイオウルがほうちされるあおりをうけて、ジハンギルもすたれていったのですよ。

あらそうだったの?

そうなんだよ、以前から住んでいた非ムスリムと中流階級が住む場所は不動産価格が下落したんだぜ。次第に都心で、家族と離れた悲惨な状況の人々が集まるようになったんだよ。

ではどうしてヒュッレムがおみせから出てくるのかしらねえ・・・

ヒュッレムは出てこないよ、メルイェムさんでしょ?

あっうん、そうそう、わたしにはどっちでもおんなじだけど、、、

そうなんですが、その後1980年から改善し始め発展し、現在では「芸術家たちの場所」「インテリたちの場所」として知られるようになりました。
ロセ マリネ レストランも多くの芸術家や芸能人たちがよく訪れますよ。

わあいいわあ、いつか4人で家アンネアンネも一緒にたべにいきましょうよ!

はあ、まあ

おい、おい

それはむりだね。 暇もお金もないよ。
と言うことでジハンギルは地名でもあり人名でもあったんですね。皆さんももしトルコに行くことなどありましたら、是非ジハンギルモスクを訪れてくださいませ。(ざんねんながらモスクはかって全焼したためミーマルスィナンが当時作ったものではありませんが)