マルコチョールのファミリー Malkoçoğlu ailesi~オスマン帝国を語るプチ会5~


陽:この間お約束したマルコチュオウル(マルコチョール)の一族です。ざっとこんな感じです。いかがですか。図にはマルコチョールのトルコ語の発音に近いマルコチュオウルで記されています。

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明菜:頭がこんがらがってきた。ほとんどマルコチョールがつくし、それにバーリベイと言う名の人もいるし・・・
ハナー:オスマン帝国ドラマに外伝の登場人物のマルコチュオウルはどのかたなの?
陽:赤と緑の2重枠の方です。
マルコチュオウル(マルコチョール) ヤフヤーパシャザーデ バーリ ベイです。

陽:グリーンの枠がバーリベイの直系の祖先と子孫です。
ハナー:ああそうか
明菜:わかったわ
陽:下に少し説明を加えました。もし興味があったら、みてください。
ハナー:OK
明菜:ありがとう陽さん
ハナー:家系図は確かにいいわね、みやすいわ。テシェキュレル陽さん

マルコチュ ベイ
ムラト1世とバヤズィト1世の時代の指揮官。1389年「コソボの戦い」で右翼弓隊指揮官として参戦。息子ムスタファ・ベイは左翼の弓隊指揮官だった。歴史の本ではハミドオウル
・マルコチュと書かれている。1396年に「二コポリスの戦い」で左翼の指揮官として任務を果たした。マルコチュ・ベイのお墓はブルガリアの国境沿いのブルヤにある。

マルコチュオウル(マルコチョール) ムスタファ ベイ
マルコチュベイの息子 子そばの戦いに父 マルコチュ・ベイと参戦。スィバス城長官。1400年ティムールのスィヴァス包囲に18日間耐えたが、その後降伏しティムールにより殺される。

マルコチュオウル(マルコチョール) メフメット ベイ
マルコチュベイの息子 
1385年亡くなる。お墓はコジャエリ県のゲブゼにある。父よりも先に逝ったため墓はマルコチュベイが作る。

マルコチュオウル(マルコチョール) ハムザ ベイ
ヤフヤーパシャの父 マルコチュオウル ムスタファベイの息子。メフメット2世の時代ニコポリスで知事を務める。1461年ワラキア公国との戦いで亡くなった。
https://eksisozluk.com/malkocoglu-hamza-bey--3119130

マルコチュオウル(マルコチョール) バーリ ベイ
バヤズット2世の時代シリステレの知事を務める。ワラキアの反乱を抑える。1513年に亡くなる。父はハムザベイ

マルコチュオウル(マルコチョール) アリ ベイ
マルコチュオウル バーリ ベイの息子。ソフィア知事を務める

マルコチュオウル トゥラリ ベイ
マルコチュオウル バーリ ベイの息子。1514年チャルドラーンの戦いでシャー・イスマイルに殺された。

マルコチュオウル(マルコチョール) ダーマト ヤフヤー パシャ
1501年バヤズット2世の娘ヒューマと結婚。前妻の子バーリ・ベイ。ヒューマとの子アフメットとメフメットがいる。マルコチュオウルバーリベイと兄弟
1480年ボスニアのベイに、1481年にルメリ州の知事に、そして1504年にクッベ・ヴェズィール(宰相)になった。1506年に亡くなる。

ヤフヤーパシャザーデ マルコチュオウル(マルコチョール) メフメット・ベイ
マルコチュオウル ダーマト ヤフヤー・パシャの孫。バーリ ベイの息子
エンデルン出育った。オラデアの知事となる。1548年アナトリア州知事となる。1563年
ジュラ城を59日で落とした。バボフチャ城も手に入れた。
1567年ララ・ムスタファパシャと共にイエメンで戦った。1570年キプロスのファマグス城包囲の時に殺された。

ガーズィー クザン メフメット パシャ
マルコチュオウル ダーマト ヤフヤーパシャの息子。
スレイマン1世の父方の叔母の子。1526年モハーチの長官となり1527年セメンディレの知事、同年ベオグラード知人就任。1529年第一次ウィーン包囲の時首都レーゲンスブルク、モロヴァの主とブルンを事実上勝ち取った。チェコスロバキアも得た。1530年アンドレア ドーリアが占領したモーラのコロニ城を取り戻した。同年ブダを包囲した。ドイツ軍に勝つ。1531年オーストリアに進行し15000人の捕虜を捕まえる。ペーチも取り戻す。
1535年再びセメンディレの知事になり8年間在職した。1537年ゴルヤニの戦いでドイツ軍の撃退した。1538年この勝利は兄弟のヤフヤーパシャザーデ・マルコチュオウル・アフメット・ベイとシファール・アルスラーン・パシャも貢献した。1538年ぼボグダン、1543年3代目ブダ知事となり、4年半勤めた。1566年ブダで亡くなった

ヤフヤーパシャザーデ マルコチュオウル(マルコチョール) アフメット ベイ
マルコチュオウル ダーマト ヤフヤーパシャの息子。レパントの知事として知られる。1537年ゴルヤニの戦いに参戦した。1543年ベオグラード知事となる。

シファール アルスラーン パシャ
ヤフヤーパシャザーデ マルコチュオウル メフメット ベイの息子
アルスラーン・ベイはシファールとして知られている。
1537年ゴルヤニの戦いに参戦した。ポシェガ(現在のクロアチアにある)知事になる。
1565年ブダの14代目の知事になる。詩人でもある。
1566年ソコルル・メフメット・パシャによって死刑にされる。オメル・セイフェティンのクトクと言う物語に登場するArslan Beyは彼のことである。https://www.bilgicik.com/yazi/kutuk-omer-seyfettin/

デルヴィシュ ベイ
マルコチュオウル ダーマト ヤフヤー パシャの孫。メフメット・ベイの息子

ヤヴズ アリ パシャ  
マルコチュ一族の家系で歴史上で知られる最後の人。この後はマルコチュ一族の名は出てこない。
1603年までエジプト州知事を勤める。
1603年大宰相としてイスタンブルに呼ばれる。最初の仕事はイラン問題に着手する。1604年ハンガリーへの遠征中ソフィア出体調を崩しベオグラードで亡くなった。お墓はトルコの中部のヒッタイトで有名なヨズガット県にある。

https://tr.wikipedia.org/wiki/Malko%C3%A7o%C4%9Flu_Bali_Bey

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【史実編】




マルコチョール(史実)




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