反逆者アフメトパシャ(AHMED PAŞA, Hain )(ö. 930/1524)

 1524年死亡。オスマン帝国の宰相だった。教育はエンデルンで受けた。エンデルンについてはこちらから
その後、イェニチェリに配属された。
1516年から1517年セリム1世の時代、エジプト遠征に参加した。
1521年スレイマン大帝の時代、ベオグラードの戦いに参戦。彼は功績を立てその後ルメリ・ベイレルベイに就任。この時同時に第三宰相として御前会議に参加し始める。
1522年ロードス島の戦いに参加し、彼が指揮して島へのじょる六作戦と包囲作戦を指揮した。敵との降伏条件の交渉も彼がした。
 戦後イスタンブルに戻ってから、大宰相ピーリー・メフメト・パシャを解任させることに関与した。メフメトパシャはセリム1世の時代からずっと大宰相を務めていたがロードス島の戦い失策した。アフメトパシャは大宰相にあることを期待していたが、スレイマンはイブラヒムを破格の昇進大宰相に任命した。アフメトこのことに不満を覚え、1523年8月、自らスレイマンいお願いし、エジプト知事となった。

 エジプトでは1522年、エジプトの州知事ハイルバイが亡くなり、不穏な気配だった。そのころ彼はエジプトに赴任する。 彼はマムルーク朝とベドインの長たちと和平に合意しエジプトの秩序は守られた。スレイマン大帝はカラ・ムーサ・パシャをエジプト知事として任命した。解任されたアフメトパシャが処刑されるといううわさがイスタンブルで広まり、この情報はエジプトにも届いた。

 アフメト・パシャは1524年1月エジプトで王「アル・マーリク・マンスール」であると、オスマン帝国から独立宣言した。初めカラ・ムーサ知事を殺させ、カイロ城のイェニチェリを破り入場した。キリスト教徒たちとも協力し合った。また貨幣を発行し、彼の名において礼拝の説教を指せた。

 スレイマンは鎮圧のため、アヤスパシャを派遣した。さらにアフメト・パシャの仲間にスパイをしのばせ攻撃させた。負傷したアフメト・パシャはバニー・バクル族に助けを求めたが、反対に彼らによって首をはねられた。 1524年死亡した。
 
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