【トルコ小説】「心の園にてメヴラーナ」その17 メヴラーナの生い立ち(誕生、移住、結婚、コンヤへ)

忠俊はメヴラーナの人生に興味を持ち始める 全文はこちらから

「聖メヴラーナの子供時代にもきっと思いもかけないことが起こったのでしょうね」

「このように高価な宝石は、その子供時代も、尋常ではなかったでしょう。彼の作品の中に時々出ていますが、アッタールが、そばのものに、彼の父親の後ろから歩く小さなジェラーレッディーンをさして、次のように語ったそうです。

『ひとつの大洋が、ひとつの海に従って、その後から歩いていきよる』と。アッタールのこの有名な言葉を、『一つの海が、一つの川の後ろを、歩いていきよる』という形で伝える者たちもいます」

「聖メヴラーナのお父上はどのような方でしたか」と忠俊はたずねた。

聖メヴラーナのお父上は、2、3歳のころ、彼の母親が彼の手を取り、もう既に亡くなっていた彼の父親(メ ヴラーナの祖父)の図書室へ連れて行き、『これらの本を読み、知識人(学者)になるために、あなたのお父さんには私が与えられました。あなたも、これらを 読まなければなりませんよ』といったそうです。このように、知識の連鎖は継承されていきました。聖メヴラーナの父は「学者達の王」の地位を得たことで有名 なバハーエッディーン・ヴェレド・ビン・フセイン・ビン・ハーティブであり、バルフで生まれ、そこに祖先を持つ家系の方です。

バ ハーエッディーンは、バルフの街では知識のある高徳な人として知られていました。その当時、バルフの街はイスラーム、キリスト教、ゾロアスター教、仏教、 さらにギリシャ思想なども入り混じり活気を帯びていました。当時の最先端の知識、芸術が栄え、タリーカの中心地のひとつでもありました。

イスラームに反する信仰、捉え方であるムータズィラ派についての議論がなされていました。ギリシャ哲学者たちの作品を愛読する一部のイスラーム学者たちは、イスラームの信仰とイスラームに反する信仰の意見の一致を試みていました。

誠 実で敬虔なムスリムであるセルジューク朝の統治者たちは、スンナ派の知識人たちを大変優遇し、目前で宗教の解説の講義を行わせていましたが、バルフではハ リズム・シャーフラルが、彼の国で西洋での信仰について討論をしていました。ハリズム・シャーフラルはこの哲学の流れに心を奪われ、彼らのように考えない 人々を気に入りませんでした。聖メヴラーナの父バハーエッディーン・ヴェレドはこの考え方、捉え方と信条に対し、強く反対していました。ギリシャ哲学を取 り入れたファフリ・ラーズィーと彼に従うハリズム・シャーフラルの考えを否定しました。『教育』という作品の中で、『預言者の道より正しい道を、私は知ら ない』とおっしゃっています。

人 々に宗教の真実の教えを簡単な言葉で伝え、哲学的論争を極力避けていました。弟子たちに対しても、友人のように振る舞いっていました。メヴラーナ・ジェ ラーレッディーンが5歳になったころ、父親はバルフから移動しなければならなくなりました。この移動の理由として、バハーエッディーンがハリズム・シャー フラルによって、ムハンマド・テキシュとの関係を悪化させられたことがあげられます。
バハーエッディーンは、哲学者たちを厳しく諭し、彼らは、イスラーム の教えから逸脱したビドアであると断定し、それは罪であると説きました。その当時の哲学者で宗教学者の一人でもあったファフレッディーン・ラーズィーはこ の振る舞いに怒りを表しました。
統治者に強い影響力を持ち、彼の尊敬を得て、尊重されていたので、彼をバハーエッディーンにはむかうように仕向け、彼を遠 ざけました。このため、バハーエッディーンは、母国を去らなければならなくなりました。移動の理由として示されるこの出来事は、歴史的には正しくないとも 言われています。『ファフレッディーン・ラーズィーが、その時バルフで生きていたという明確な資料が見当たらない』といわれ、ラーズィーは移動する3年前 に亡くなっていたとも、言われています。
移動を余儀なくさせた本当の理由は、モンゴルの侵入であったという説もあります。また、私にとって興味深いと思う 出来事も伝えられています。それはこのようです。バルフに住んでいた学者たちがある夜、夢の中で別々に聖預言者の夢を見たそうです。聖預言者は彼らに、

『バハーエッディーン・ヴェレドをスルタヌルウレマー(学者たちの王)と呼ぶように』

と、おっしゃられました。次の日の朝みんながバハーエッディーン・ ヴェレドの家にやってきて、見た夢のことを伝えました。するとお互いが知らないうちに同じ夢をそれぞれが見たことがわかりました。バハーエッディーン・ ヴェレドも実は同じ夢を見ていました。その日以後、バハーエッディーン・ヴェレドはスルタヌルウレマーと呼ばれるようになりました。このことによって、バ ルフでもいごこちが悪くなってため移動をしたと伝えられています」

事 実、スルターン・ヴェレドの『初歩』(アブティダーナーメ)の中にも、祖父が移動した時、バルフはモンゴルによって占領されたという情報が残されていま す。バハーエッディーン・ヴェレドは1212年又は1213年にバルフから家族たちと共に離れました。巡礼に行くと意思表示をしたため、バグダードに向 かって出かけました。

モッラ・ジャーミィの『友たちの講義』(ネファアトウルウンス)の叙述に従えば、ニーシャープールの街に到着したとき、彼らの民族が 何で、どこから来てどこへ行くのか尋ねた護衛の者に、

『アッラーから来て、アッラーに向かっています。アッラーの他に権能も力も所有するものはおられませ ん』

と意味深長な答えをなさったそうです。この言葉がシェイフ・シェハベッティーン・スフレヴェルディーにと届くと、

『この言葉をバルフのバハーエッ ディーンのほか語るものはおるまい』

といい、彼のそばに駆け寄っていきました。出会うと、すぐ馬から下りて、丁寧にバハーエッディーン・ヴェレドのひざに 口づけし、心からの敬意を表しました。そして修行場に招待しました。しかし、バハーエッディーン・ヴェレドは、

『知識人たちが、そのメドレセにはふさわし い』

とおっしゃり、その招待を受け入れませんでした。カリフの贈り物として贈られた3千エジプトディナールも『非合法のうたがいがある』といって受け取ら なかったこと言われています。

  バハーエッディーンの名を聞いたシェイフ・ファリドゥッディーン・アッタールも、彼に会いに来ました。メヴラーナは、その時まだ子供でした。アッタールは メヴラーナの額(額には運命が記されていると伝えられる)に完璧さを発見し、彼に『エスラールナーメ』という本を贈り、父親のバハーエッディーンに、

『近 い将来、あなたの息子は世界中の心に火を燈すことであろう。彼らは身も心も焼き尽くすであろう』と語りました。メヴラーナは、それからというもの『エス ラールナーメ』という本を、肌身離さず持ち歩きました。その本の幾つかのお話は、『メスネヴィー』にも引用されています」

「思い出しましたか、忠俊さん、少し前にお話しましたね。ええと、『ひとつの大洋が、ひとつの海に従って、その後から歩いていきよる』とおっしゃられた方です」

「もちろんです、とても注意して聞いていました。あなたがお話になると、本当に驚きが増してきます。どうかお続けください」

「巡礼の義務を果たした後、その帰りにダマスカスに立ち寄りました。そこで、シェイフ・エクベル・ムフィッディーン・イブン・アラビーと出会いました。

ダマスカスに立ち寄って後、そこからエルズィンジャンに、エルズィンジャンからアクシェヒルに行きました。アクシェヒルの後でカラマン(ラレンデ)へ行きました。ラデンデで七年間すみました。

こ の時18歳になったメヴラーナ・ジェラーレッディーンは、街の名士、サマルカンド出身のホジャ・ラーラ・シェラフェッティーンの娘ゲヴへル・ハートゥンと 結婚しました。この結婚によってスルターン・ヴェレドで思い出されるメフメド・バハーエッディーンアラエディーン・メフメドが生まれました」

「メヴラーナには2二人息子さんがいらっしゃるのですか」

「メ ヴラーナの最初の妻であるゲヴヘル・ハートゥンが亡くなると、コンヤで、二番目の妻となったゲッラ・ハートゥンと結婚しました。彼女からムザッフェレッ ディーン・アーリム・チェレビーという名の息子とファトゥマ・メリケ・ハートゥンという娘が生まれました。
メヴラーナの血を継ぐチェレビーたちは、通常 は、スルターン・ヴェレドの息子フェリドゥン・ウル・アーリフ・チェレビーの子孫たちです。メリケ・ハートゥンの子孫たちはメヴレヴィーの間ではイナス・ チェレビーとして思い起こされます」

「そうですか、メヴラーナはコンヤへどのようにやってきたのでしょうか」

「メ ヴラーナがコンヤにやってきたのは、当時の統治者アラーエッディーン・ケイクバートが、バハーエッディーンの名声を聞いて彼をコンヤに招待したことにより ます。彼は途中の道まで出迎えにいき、大いなる敬意を払い街へおつれしました。アルトゥナパ・メドレセの客人としました。コンヤの人々はバハーエッディー ン・ヴェレドを愛情満ちた歓声によって出迎えました。説教にも注意深く耳を傾けました。統治者も彼を議会に招待し尊敬を表しました。

宮殿の役人たち、軍人の名士たちはみなバハーエッディーン・ヴェレドに堅く結びつき、従いました。つまり、弟子となりました。聖メヴラーナのコンヤに定住することに関して面白い解釈があります。

『い と高き真の主は、アナトリアの民へ大いなる恵みを与え給いました。そしてまた、誠実なるアブー・バクルのドゥアーによって、この民は、共同体の中で最も慈 悲を受けるのにふさわしい者たちの一員となりました。
最もよい国は、アナトリアの国です。
しかしこの国の人々は、真の所有者アッラーの愛の世界と心の喜び を知りません。全ての根源であられる真の創造者は、すばらしい恵みをお与え下さいました。原因のない世界に、原因を創り、私たちをホラサーンの国からアナ トリアの地域に連れてこられました。私たちの任命地をこの清らかな土に、そしてここに住む場所をお与えくださいました。
神の神秘によって、金を作ることの できる薬を、彼らの銅のような体にふりかけましょう。そして彼らを完璧に変化させ、彼らが知識の世界のくすりとなり、この世の知識人たちの腹心の友とりま すように』

と語ったそうです。

バ ハーエッディーンがコンヤに引っ越した時に関しては、いろいろな説があります。この間は、2年から10年差があります。亡くなったのは1231年です。葬 儀にはコンヤすべての人々、国の名士たちが参加しました。統治者は、1週間王座に付かず、さまざまなモスクでは貧しい人々に食事が配られました。バハー エッディーン・ヴェレドが亡くなったとき、メヴラーナ・ジェラーレッディーンは24歳でした。弟子たちの懇願を受け入れました。幾つかの資料を父親の遺言 とみなし、さらにスルターン・アラーエッディーンの強い望みによって、彼の役目を継承しました。

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