【トルコ小説】「心の園にてメヴラーナ」 その16 アーシュク(溢れる愛)が彼を取り巻く
忠俊を情熱溢れる愛が取り巻く
忠俊の頭にあった過去は、すべて新生された。一生懸命ガイドの言うことに耳を傾け、録音もした。夜中の寒さが顔を撫ぜたため、かなり疲れていることに気がつ いた。広い山の頂から、そよそよ吹きながら、山々の斜面の松の木の香りも加えて運んでくる冷たい12月の風を感じ、脳は冴え、より聡明に分析を始めるきっ かけとなった。
尋 常ではないすばらしい旅となった。見たもの、聞いたもの、感じたもの、確信したものがすべて魔法にかけられたかのように変わって、
「宇宙のすべてが限りあ るのに、今日私が過ごした彼の思索に含まれる情熱溢れる愛には限界がない。境界を乗り越え、水平線の隙間をさらに潜り抜け、無限へと続く。満月の夜にふさ わしく、かの気高き人間も、また魂たちや心たちと共に生きつづけている」
とつぶやき、目を空の月に向けた。真っ黒い雲がアンブルの馬のように、いなないて いた。月は、雲の後ろに見え隠れしていた。見え隠れする月の中へ、心が空気のように上っていくようであった。月も、その心に強い力で働きかけ潮(うしお) を送っていた。まるで天空に向かって飛び立つようであり、情熱溢れる愛という弦楽器を奏でる撥の旋律に合わせて回っていた。地球、月、諸星、人間などこの 世界に存在するすべてのものは回っている。すべてのものは回り、回って、さらに回り続ける。遥かかなたの的、聖メヴラーナに向かって、魔法の矢を放ってい た。サズ(弦楽器の一種)の不協和音のように、道を見出すことができずにさまよい憐れみの気持ちにも似たどこかしっくりしない音を、聖メヴラーナの心の聖 なる精神の息吹によって調律し、快音としたのである。
休憩時間が終わり、再び旅路へと向かった。忠俊の目は、ガイドに注がれていた。彼のそばを通るガイドに、
「もしお疲れでなければ、もう少しお話していただけ ませんか、お願いします」
といった。もともとこの申し出を待ち構えていたガイドは、もう一度忠俊の隣の座り、
「聖メヴラーナのどのような考えを伝えればよ ろしいですか」
と尋ねながら、一方で、彼の脳裏に浮かんださまざまなメヴラーナについての情報を整理していた。
「どうか、ご存知のことはすべて教えてください、おねがいします」と言った。
ガイドは語り始めた。
「聖 メヴラーナは、タウヒード(アッラーの他に神はなし)の神秘によって、限りない寛容さを、生き方そのものでより分かりやすく示してきました。もともと、聖 メヴラーナの中のはっきりとした個性には、成熟さと美しさが備わっていました。彼が語ったとおり生きたこと、考えたことを行動で示したことはその現われで す。個性に関してあるお話を思い出しました。
セマーの場で、聖メヴラーナは神の慈悲による歓喜の中で、セマーをしていました。突然、酒に酔ったキリスト教 徒がセマーの場に入ってきました。そして、酔ったまま、興奮状態で旋回し始めました。旋回しているときに、聖メヴラーナにぶつかってしまいました。このた め、聖メヴラーナの腹心の友たちは、その酔っ払いをなじり始めました。聖メヴラーナは、酔っ払いをなじる者たちにこのように説きました。
『酒 を彼は飲んでいるようだ。だが酔っているのは、あなた方のようだね』と。腹心の友たちは、その酔っ払いがどのような人かを知らせようとして、『彼はテルサ (キリスト教徒)です』といいました。すると、聖メヴラーナはテルサのもうひとつの意味の「恐がりや」をほのめかして、『彼が恐がりやならば、あなた方も そうですよ』と言い、友人たちの犯した過ちを、彼に謝ったそうです。聖メヴラーナの目には、誰であろうと、人間に映ります。彼にとって一番大切なのは、人 間であるということです。平の階層の人々も、高いランクの階層の人々も、みな人間です。彼はそのこと意外、全く気にかけません。逆に、民衆には特に大変慈 悲深く、孤独な人々にいつも心からやさしく接していました。
聖メヴラーナは、ある日、温泉に行きました。息子のエミール・アーリム・チェレビーは、彼らより少し先に出発し浴場に着きました。聖メヴラーナと友たちがよ り快適に過ごせるようにと、お湯に入っていた人々をみんな外に出しました。そして湯船に赤や白のりんごをたくさん浮かべました。聖メヴラーナが中に入る と、浴場の脱衣場では、人々が急いで服を着替えていました。
『や あ、エミール・アーリムよ、この人々の命は、りんごよりも軽いものなのかね。だから、彼らを外へ追いやり、りんごで湯船を満たしたのかね。一人の命は、そ れらの三十倍以上もの価値があるのだよ。りんごだけでなく、世界のすべて、そしてその中に存在するものは、人間のためにあるのではないのかね。もしあなた が私のことをいとしく思うなら、みんなを全員、湯船に戻しなさい。貧しい人々も、裕福な人々も、力強い人々も、誰も外に放っておいてはなりません。そうす れば、私も知られざる客としてほっとして、お湯に入ることができようというものです。少しは休むことができようというものです』
とおっしゃったそうです。 周りの者達や彼自身と共に立ち座りたい者たちが、王や司令官、裕福な人、著名人などであったにもかかわらず、聖メヴラーナは、より多くの時間を貧しい人々 や悲惨な状態にある人々と共に過ごし、彼らと深く親交を結んでいました。もともと弟子たちのほとんどが、一般には見下され軽視されるような人々だったそう です。弟子たちを批判する者たちに対して、聖メヴラーナの答えといえば、
『私は弟子がすばらしい人間たちであったなら、私が彼らの弟子となったでしょう。 品性をより良くし、善い人間になり、善い行いをする者たちとなる手伝いをするために、彼らを弟子として受け入れたのです。アッラーの慈悲が現れた者たち は、救われました。しかし、神の慈悲から遠ざかった者、のろわれた者は治療を必要とする病人達です。このように私達はこれらの慈悲から遠ざかったもの達 に、慈悲をもたらす手伝いをするために、この世にやってきたのです』と語ったそうです。
『慈しみ深い心の高鳴りによって、人間すべてに、
絶望の館へ向かうことのないように、希望は存在する、
暗黒へ向かうことのないように、太陽は存在する』
と叫んだそうです。
このような限りない愛情を備えた東洋の哲学と神秘主義の熟達者について、民衆に伝わった伝説の中で、
『愛という言葉をきいたとたんに、私は私の命、私の 心、私の目を、この道で使い果たそうと考えた』
とおっしゃったそうですが、それがすべてを物語っています。メヴラーナの作品を詳しく調べていくと、トル コ・イスラーム世界に見られる文化芸術、神秘主義が根強く見られます。歴史的分野でのメヴレヴィーの研究を、幅広く包括的に分析するならば、他の修行者た ちと同様メヴラーナも、その神秘を経験の中で追求していく方法をとったことがわかるでしょう。人間の欲望をひとつずつ消滅させ、最後に、ただ神を熱望する よう彼の魂を浄化させていきました。考えてみますれば、メヴラーナに見られる心的な真理とは、完全に神のためにのみ真実を探求することだけではなく、安心 と平安を失った魂に、安らかさを取り戻させ、その後で、情熱溢れる愛を見出させるというものです。神秘主義のきまりに従って、包括的に認識するのではな く、人生を生き抜く一個人としてメヴラーナを捉え、認め、理解する必要があります。このことも、情熱溢れる愛によってのみ、なしえることですね」