小説「心の園にて メヴラーナ」

聖メヴラーナにであった日本人の心の変化を綴った小説が書籍化されました。
トルコ人のメラハートウルクメズさんは、聖メヴラーナをこよなく愛し、彼の愛を伝えるために現在も本の執筆、講演、新聞記者として活躍しています。

小説「心の園にて メヴラーナ


東京からコンヤにいたる道

高橋忠俊(たかはしただとし)氏は、世界でも屈指の某電機会社に勤める重役の一人である。彼は支社のチェーン店の連帯を図るため、そしてその輪を広げるためにプロジェクトチームを組み、イスタンブールを訪れた。

  どれほど多くの西洋人たちが、日本人独特の和を尊ぶ精神を冷笑し、また日本の会社のために身をささげようとする尊い目的をばかげたことだとみなしたとして も、はたまた、この高貴な目的を抱く人々を集めるために、綿密に工作し、巧みに操作していると考えようとも、忠俊は、全く別の考えを持っていた。「人間性 と品性が大切である」と彼は考えた。奉仕するという信条は、利益を追求する傍ら献身的に働くことであると捉えていた。また生産性を追及する一方で、ある目 的のために奉仕するという信念を持ち生きる事を、他の人々にも持ってもらいたいと願っていた。もともと彼の気質の中には、人間への愛と人間の価値を最重要 視する傾向が見られた。彼は周囲の人々と共存する中で、包容力のある人間性を育んできた。そして、このような結びつきを失うと、西洋のように重い精神的苦 痛を感じながら生きていくようになることを彼は知っていた。他の日本人と同様に・・・

  西洋では教会を中心として、人間の精神的絆を築き、それを独占という形で確立してきた。それとは逆に、日本では各個人が、個々に信条を持つという形があ り、ひとつを選択しなければならないと言う強制力が働くことはない。人々は無数の宗教を同時に信じている状況がある。たとえば仏教や儒教や神道など、どの 時代でも、それぞれすべてを同時に信仰していた。

 忠俊は、日本人らしさを譲歩することなく、西洋の影響力がかなり強い会社についても、「おそらく、西洋の民族主義と東洋の精神主義がバランスよく保たれたので、長期間にわたる成功を会社は手に入れた」と考えていた。

 イスタンブールでは会社の連携を図ること、その輪を広めること、製品の宣伝活動等に励んでいた。トルコの取締役達は、忠俊と彼のチームをゲストとして、旅行に招待しようと計画した。日付が聖メヴラーナの追悼祭の12月17日に当たっていたので、場所はコンヤが選ばれた。

  長旅の後、コンヤへ到着した。食事を取るのもままならないほど、すぐ休息したいと彼らは願い、ホテルの部屋へそれぞれ入室した。翌日、町の隅から隅までが 歴史的遺産といってもよいコンヤの町を観光し始めた一行は、コンヤが歴史的に大変興味深い場所であり、美しい町であると知った。思い出を残そうと、見たも のをいつもカメラやビデオに収めていた。

ガ イドはカラタイ・メドレセについて説明をしていた。「1251年に作られました。クッベ(半球型の天井)は、特徴的なセルジューク朝の色彩を醸し出す青緑 色と黒色からなり、見事に調和しています。そして、そこには葉や花の入り組んで描かれた見事な装飾芸術がみられます。クッベのちょうど真ん中の窓の下に作 られたプール(貯水池)から、当時天文学的観測が行われていたことが伺われます。左側の鍵の形をした奇妙な配置は、水面を絶えず水平に保させる効果があ り、諸星、天空を鏡のように映し出すために、水の流れを定めました」と説明し、何百年も前の科学者たちが、このメドレセの中央に存在するプールの水を望遠 鏡として使用していたこと、水の流れから諸星の運行を観察し研究し、天文学に光を燈したこと、さらにはオックスフォード大学が、カラタイ・メドレセの観測 機としての配置を模倣して作られたことなどガイドが伝えると、日本の人々は驚きで目を輝かせた。

ガイドはメヴラーナが熟考するためにこのメドレセをいつも訪れていたことや、一部の星からしばしば示唆を受けたこと、おそらく天空の観察にも参加し、さらにそこで、『メスネヴィー』の一節をも読んだことを伝えた。

「川の水に映る月のごとく、人間に見られるすべてのものは、かのお方(神)の映しである。そのアストロラーベの上のくもは、幽玄の天空と魂の灯火を明らかに知らせ、教えを授ける」メヴラーナの言葉をさらに続けた。「人間は神のアストロラーベである。しかし、アストロラーベをよく知る天文学者が必要である」と。

カ ラタイ・メドレセの後、文字装飾された冠の扉と大サロンによって特長づけられるインジェ・ミナーレ・メドレセの外観は、セルジューク朝の作品の中で重要な 位置を占めるのだが、それほど感嘆するものではない。ただ、今まで経験した戦争の全貌を物語る掘り込みのある石が一塊となって、その一つ一つがしっかりと はめこまれた状態を保っていた。青色石によって装飾されたミナーレだけでなく、見事に細工された幾何学文様は、何世紀もの時が経たにもかかわらず色あせる ことなく、芸術作品の傑作といえる特徴を備えていた。歴史の香りを漂わせる雰囲気は、誰にでもそうであるように、日本の人々をも何百年も前の世界へと誘 (いざな)った。

観 光バスは、メラムの丘へ向かって上り、駐車した。一行はバスから降りて緑豊かなコンヤを一望した。そよそよと吹く秋風は、黄、緑、紅色の葉でパステルカ ラーのジュンブシュ(弦楽器の一種)のように変化した木々を撫ぜながら弾き、穏やかな音楽を奏でていた。ガイドは、歴史の街を一冊の本のようにたとえ、メ ドレセや博物館やモスクや遺跡などが歴史の本の一頁、一頁を綴っていると伝えた。

旧石器時代から始まるコンヤの起源は、磨製石器時代の文化に遡る。チャタル・ホユクとジャン・ハサン・ホユクの遺跡は、紀元前7千年から6 千年にさかのぼると推測される。そしてこの特徴のあるチャタル・ホユクには、狩の獲物が浮き彫り式に描かれた絵が壁にみられ、遺跡からは、さまざまな作品 が発見された。それらは当時のものであることが確認もされていると語ったので、日本の人々は、これらをぜひ一目みたいと願った。しかし、観光バスの運転手 は、規定の時刻にイスタンブールに到着しなければならないと躊躇した。彼らはこの望みをあきらめた。ただ忠俊は、もしトルコを再び訪れることがあるなら、 会社関連ではなく個人的に一人で旅し見学にこようと心の中で計画を立てていた。
 ガイドは、説明し続けた。ヒッタイトの統治を崩壊させたのはフィルギア人達たちである。その世紀、コンヤはフィルギア人の重要な町となり、フィルギア人 たちの文化遺産は数多く残っている。その後、フィルギア人の統治を崩壊させたリディア、次に、ペルシア、アレクサンダー大王時代、そしてローマ帝国の統治 のさらに後、1071年、マラズギルトの戦いの勝利によって、トルコ人たちの支配下に入り、その後アナトリア・セルジューク朝の首都となったことを語っ た。それから、一行は、考古学博物館、コユンオウル博物館、アラーエッディーン・モスクを見学した。日本の方々は、コンヤの意味の由来を知りたがった。ガ イドは聖画という意味のイコンに由来するイコニオンからであると説明した。フィルギアの言語のカワニィアという言葉がなまり、派生したともいわれる。コン ヤという名は、古代アナトリアから続く名を守り続けた、まれな町のひとつであるとも説明した。
 観光バスはメヴラーナ博物館の三人の墓場(ウチュレル・メザルルウ)側の大通りに駐車した。セリム一世がミーマル・スィナンにつくらせたスルターン・セ リム・ジャーミィの横側を通り抜ける時、忠俊はその建物が、イスタンブールで見たモスクと同じような建築方式で建造されていることに気がついた。

 

メヴラーナとの初めての出会い

ガイドは旅行中に、聖メヴラーナとコンヤについて予備知識を与えてくれた。この知識の光に導かれ、彼らは、メヴラーナ博物館の外門から中庭へと入っていった。

秋 雨の力強い勢いに逆らい、逃れかすかに生き残ったバラたちは、春も夏も知ることもことなく、花を咲かすこともなく、枯れていった。けれども、季節のいたず ら、時に戸惑うバラのつぼみたちは、存在する場所の尊さを知っているかのように、美しく咲き誇っていた。噴水から直接みずたまりに落ちる水のリズミカルな 音や美徳を備えた説教壇で語り合いながら飛び回る鳥たちのさえずりも加わり、その中庭は、来世の雰囲気を醸し出していた。庭に開かれた博物館や図書館や修 行者(スーフィー)たちの小房の壁は、何世紀もの間に壊されたにもかかわらず、基本の形はそのまま残されている。しかし、色あせた石は何百年もの間に古び ていった。セルジューク朝の偉大な人物たち、アレムッディーン・カユセル、スルターン・ヴェレド(スルターン・ワラド)、ゲヴヘル・ハートゥンの働きに よって、聖メヴラーナの死後、建造された歴史的な記念碑は、時を越えても頑丈に留まっていた。霊廟の扉は、気高く心を焦がす者達に開かれ、いと高く情熱を 持ち続ける者達を巡りあわせる。その扉は、深い痛みに対する薬ともなる、外界の束縛を取り除く扉、心を携え旅する者達に開かれた扉であった。

  忠俊がメヴラーナ博物館の扉から中へ一歩踏み入れると、神秘的な雰囲気が漂い、その香りが忠俊の顔をやさしく撫ぜ、細やかに彼の魂を包み始めた。彼の心に 安心さと安らかさが生まれるのを、彼は感じた。彼が墓石のほうへ一歩一歩進むごとに、その安らかさは増し、次第に高まっていった。博物館の中に広がる悲哀 のこもった旋律は、日本の音楽とはまったく似ていなかった。今まで聴いたこともない嘆き、悲しみの伴う泣き声にも似た葦笛は、彼の心を震撼させ始めた。傷 心、哀愁そして別れの叫びを奏でているかのような葦笛の音色は、うずきとうめきと共に、弔辞を述べているようであり、物寂しかった。同時に、その想いに燃 え焦がれ、浄化された魂の息吹が、忠俊に伝わってくるようであった。いや彼は確かに魂の息吹を感じた。

  葦笛の奏者の息づかいによって、満たされるその魔法がかった魅惑的な葦笛の翼の羽ばたきに似た音色が、彼の心に届いた。心地よい感覚を味わうたびに、彼は 彼の心の中に何かが燃え上がり、徐々に熱くなっていくのを感じた。悲しげに奏でられる葦笛は、忠俊の耳からはいり、体に染み渡り、心を満たしていった。ま るで強く燃え焦がれることを欲する心に閃光が走り、太陽の燃える炎が心を満たしていくようであった。理性を超えた炎が、彼を取り囲んでいた。

この炎は、終わりなき永遠への誕生を示し、熱き愛の存在を知らせる炎でもあった。彼の心の中に、ひとしずく、ひとしずく熱き愛が暖かく流れ込んできた。それはまさに春の訪れのようであった。

  コンヤのゼラニウムの香り漂う霊的雰囲気の中で、忠俊は熱き愛の呼び声と変わりゆく高められた心を再び沈ませる旋律、葦笛の悲しげな嘆き声を耳にする時、 「私は音符も、音符に従って楽器を奏でることも知らないのだが、この不思議な音の世界は何なのだろう」とぶやいた。葦笛の吐息は、天の川にまで届く愛、熱 き愛の軌道を画いた。彼はその軌道内に入り始めたのである。今まで味わったことのないこの感覚は、説明もできず、理解もできなかった。「もしかしたら、ガ イドが旅行中にした解説のためになのだろうか。それで、このような感じを味わっているのだろうか」と言いながらも、一方では彼はまったく違った影響も受け ていることを感じていたのだった。まるで、霊廟の壁、天井、扉から、ひしひしと熱き愛が湧き出ているかのようであった。

  彼は聖メヴラーナの墓石に向かって、深くお辞儀をした。それは、このうえなく敬意のこもった、謙虚な礼であった。日本では、敬意を表し一礼する態度の他に も、丁寧な行動や慣習がある。それは西洋で目と目を合わせながら握手をするのと同じである。人に対し一礼するというのは、「私はあなたを受け入れ、あなた とお近づきになります」と言う意味が込められており、礼を受けたものは、儀礼として、お返しにお辞儀を返す。

  ガイドと一行は、偉大な指導者(ピール)の御前から横側に移動し始めた。忠俊はといえば、そこを離れたくないと感じていた。魔法か何かの力でそこに釘付け にされてしまったかのようであった。手にいれたこの平安な状態を、もっともっと長く味わっていたかった。だが、居心地のよいこの精神的安らぎの場から何と か自分を離させたが、少し憂鬱な気分でグループのほうへ向かった。ガイドが説明する貴重な知識も聴き逃したくはなかったから。

  博物館には、聖メヴラーナと彼が生きた時代についての衣服や品々、手書きの『メスネヴィー』や『聖クルアーン』、葦笛やクドゥム(楽器の一種)や絨毯等々 が置かれていた。それらの前に、いつの時代のものかなどさまざまな知識を伝える説明書きが置かれてあった。ガイドはひとつひとつ丁寧に英語に訳しながら伝 えていた。このような音響効果が見事な環境で、しかも神秘的な空気とうずくような葦笛の音色に包まれた彼の解説は、忠俊の揺れ動き始めた心の琴線に、ひと つひとつ槍のようにささった。心の深くまで刻み込まれ、震えさせた。

おそらく、忠俊は世界中を飛びまわったであろう。しかし、どの国も、そしてどのような場所でも、メヴラーナの御前ほどに感化を受けたことはなく、不思議な異なる感覚で満たされたこともなかった。

ガイドが、旅の間何度か繰り返し暗誦したその有名な呼びかけの言葉が再び耳に響いてきた。

「来れ、来れ、何人であれ、再び来れ、
信仰を持たぬ者であろうと、拝火教徒であろうと、多信仰者であろうと、来れ、
わが学び舎は絶望の場にあらず、
たとえそなたが百度その誓いをやぶろうとも、
来れ、再び来れ」

  忠俊は、聖メヴラーナのこの呼びかけから、人は宗教、言語、人種、民族そして貧富の差による違いはないと考え、愛と寛容さと共に、世界のすべての人々に腕 を広げ、罪びとであろうと、信仰を持たぬ人々であろうと、広い寛大さと慈悲に満ちあふれた愛情深い目で、見守っていることを理解した。

  ガイドは、聖メヴラーナが、「『メスネヴィー』の中で語ったように、アッラー(唯一の神)は拝火教徒でさえ、もしご自身を呼び求める者なら応え給う」と言 いながら、このように成熟者たちは神の恵みと慈悲で希望に満ち溢れていた。聖メヴラーナの誰をも下にみるべきではない」という繊細な考え方を、別の言葉を 説明した。そして、その言葉を暗誦すると、忠俊はさらに感嘆した。

「信仰を持たない人々を軽視なさらないでください。信仰者として死を迎える可能性もあります。人の人生の終わりを知るものはいませんのに、そのことからまったく顔を背けていらっしゃるのです」と言う彼の言葉は、意味深長である。

聖メヴラーナが担った役割を意識して、彼は次のように述べている。

「私 たちはコンパスのようだ。私たちの一方の足はシャリーア(イスラーム法)の上に、堅固に留まっているが、もう一方の足は72の国を歩き回っている。ある人 々は時がたつに連れ、黙認できないような行き過ぎた寛容さと非難したとしても、その広い寛容さはタウヒード(アッラーのほかに神はなし)の秘密と高貴なる クルアーンの光とイスラームの意識と基本に基づく聖ムハンマド・ムスタファ(彼に祝福と平安あれ)の高徳さを指し示しているに他ならない」と。

平 らな表面を流れる透き通った水のように、滑らかに読まれた聖メヴラーナの諸ベイト(二行連句)とガイドの解説は、よく響き、こだましながら、真っ暗な穴の 中へ、さらに深い井戸の底に流れ込むかのように、日本人の観光客の脳裏にも流れ込み、こだました。忠俊は、その場の心地よさの中で幸せと驚きを感じてい た。人々はモザイクのように、同じ場所に存在でき、寛容と愛の最終扉を捜し求め、そこに至ることもできる。そして、その色とりどりのモザイクの中で、それ ぞれの魂が一つになる。誰もが、それらにご自身の高貴な光を与える聖メヴラーナを太陽にたとえる。彼は、善人も、悪人も、富む者も、貧しき者も、知り合い も、見知らぬ人も、大人も、子供も差別なく、それぞれの人間、いきとしいけるものすべてに、同じ光を放つ太陽のようである。鎖に繋がれ、締め付けられてい るかのように、「もしあなたの生きた時代に生き、あなたを見ることができたなら、偉大な思想家よ」という言葉が、彼の唇からもれでた。

中の神聖な神秘的な雰囲気は、忠俊に霊感によって磨かれたメッセージを与えた。忠俊は類まれな精神的雰囲気の中で生きつづけた。永遠の魂、太陽よりも神秘的で、今まで解き明かされなかった偉大な秘密が、忠俊の全細胞を捉えたようであった。

 ガイドは博物館の壁に掲げられている4行詩を訳しながら読み上げていた。それから意味も説明していた。

「石は葉を出させない、春がきて過ぎ去っても、

土となれ、なんとも美しいバラを咲かせられる、

汝は石のよう、多くの心を砕いてきた、さすればもう十分、

土となれ、その上には楽しげなバラたちが育まれる」

「来 たれ、と言う呼びかけとこの詩の一ベイト(二行連句)の中の深遠な思想が、その瞬間に彼の脳裏に完全にやきつけられた。と同時に、何か特別な驚きも感じ た。「この言葉を語ることができ、何世紀もの間それが忘れ去られなかったこと、そして周囲、いや周囲を乗り越え全世界へと繋がる知識の連鎖によって、数多 くの知識人達へと受け継がれてきたこのすばらしい考え方は、理性と優れた知性に支えられている。本にはいり切れないほどの強い生命力と情熱溢れる愛にささ えられた思念・・・情け容赦のないこの世の社会にもまれても、人生を何とか守りぬこうとする人々のために最も役立つ薬、最も効果のある解毒剤、最も快適な 精神状態へ導くもの、最も優れた医療」と彼は考えた。

ガ イドは博物館に備えられた品々について説明するだけでなく、聖メヴラーナの目に見えない部分をより重点的に好んで伝えた。忠俊の心に芽生え始めた炎の火種 に風を送り、さらに燃え上がらせていった。「水に満足する者に何も与えることはできぬ。水に恋焦がれる心を見出しなされ」と語った偉大な指導者の言葉をさ らに続けた。

忠俊は彼の心が水を求めているのに気がついていた。その日までのどの渇きは仏陀の前でさえ、癒されることはなかった。その時にかいだ香り、心を酔わせる美酒のような効果は、以前一度も感じたことがなかったし、味わうこともなかった。

「こ れはなんともいえない心地よさだ。虹ほど近く、虹ほど遠く感じるこの不思議な感覚」と自分自身に語りかけた。魂にやさしく平安を撒き散らす甘い季節風、ベ イト(二行連句)が吹いてくる。葦笛の音はこの風を駆り立て、けしかけ、何も聞こえず何も語らぬ遠い地平線へと連れ去っていった。

心 に話しかけ、魂にささやきかける世界から齎される不思議な音色、その神を思い出させる音と神秘的な香りは非常に異なった感覚を呼び覚ませていった。普遍的 な愛と寛容さを顕す偉大なスーフィーの影響を受けず、彼に向かおうとしない諸器官は、彼の身体の中にひとつも残っていなかった。

彼 は人生の中で次第に生きる事に嫌気がさしていた。人生は意味のないものだと知っていた。だだっ広い太洋のど真ん中で、支えもなく取り残され、さまざまな嵐 に見舞われ、沈没を免れようと右往左往する船のように、弱々しい精神状態に陥っていた。嵐の中、精神を守り支えとなる港を探し求めていたが、どこもいつも 何か欠けていると感じていた。しかし、ある時は、それらを捜し求め調べたりもした。訪れた国々のさまざまな哲学者達、神殿や彼らにとって聖なるものと聖な る者の意図することも学び、深くそれらを習得してきた。自国でもまた同様に、深く捜し求めたが、どの場所でも、彼が探し求める精神的安定を与える風を見出 すことはできなかった。誰からもこれこそが意味あるものという確信は得られなかったし、呼びかけられることも、魂が引き寄せられることもなかった。このた め、長い間、捜し求めることもしなくなっていた。そして、もう彼の内面を完璧に満たし、落ち着かせ、休養させる精神の扉は存在しないと思っていた。しか し・・・思いもかけず、偉大な人物である聖メヴラーナの扉に足を一歩踏み入れた。探し求めることをあきらめ、見出すことはできないと確信していたが、その 港に乗り入れたその瞬間、彼の魂と彼の自我は、ついにそれを発見したのであった。

忠 俊は、自分の命と同じくらい価値のあるその港が、トルコに存在するとはまったく予想しなかった。自分自身に、「何年も探し続けて、捜し求めても見出せず、 もうそのような港は発見できないだろうと思っていた。でも、鍵をかけた私の内的、精神世界への扉の鍵穴に、ぴったり当てはまる鍵がここにある。これは夢で はない、確かなことだ」とつぶやいた。

彼の心、彼の胸の外をおおう強く硬く閉じられた殻が、バリバリと音を立て、打ち破られ、中のすばらしい感受性が表面にほとばしり始めた。まるで太陽の深い底から吹き出た高価な純粋無垢の真珠のようであった。

  忠俊は、「私の生きている時代は、通俗の集団文化という弾をどんどん撃ち込まれる。その砲撃の元で、人間が次第に物質主義化し、精神的世界を忘れ始める。 強い快楽主義によって、大切なものがくみ出され、砂漠化し、枯渇してしまった心に不可欠な永遠の水が、ここにのみ存在するのは確かだ。科学技術の時代に、 人々は目まぐるしく駆け回るが、失いつつある熱き思いをなくしてはならない。本来、この熱き思いと美しさは、どの人間にも内在している。ただ芽吹かせ、葉 を開かせ、花を咲かせるには正しい場所、きっかけとなる火種と、適切な良い時が必要であろう。ちょうど私のように・・・」と言いながら、この世のすべての 人間が、この場所を訪れるといいのにと彼は考えた。そして自らも彼の心の中で、その精神的豊かさを味わい始めたのであった。彼は、ただ単に自分が生物的存 在でないことにも気づいていた。どんなに生物的制約のために、外界と結びついていようとも、彼の魂は未知の永遠へと開かれた幸福を感じ取ることができた。

  ガイドとその一行は、メヴラーナ博物館から外へ出た。墓石の前からなかなか離れられない心は、その中に残されたままだった。忠俊はガイドに、「2分間、お 待ちいただけますか」と言った。急いで博物館の中へ飛び込んでいった。ふたたび聖メヴラーナの墓石の前にやってきて、一瞬の間、身じろぐことなく立ち留 まった。手のひらを合わせ、胸の前に持っていった。そして下に頭がつくほど深々とお辞儀をし、挨拶をした。この挨拶は、彼の生涯の中で交わした、最も誠意 のこもった、心からの挨拶であった。

「偉 大なお方よ、あなたに感謝いたします。すぐにまた私はここへ参ります。ごきげんよう」といった。3、4歩、後ずさりした後、急いで外へ出て、仲間に加わっ た。メヴラーナのすばらしさを知るガイドは、忠俊の心が聖なる指導者の虜となったことをよく承知していた。メヴラーナ博物館から出た一行は、博物館の周り にあるお土産品店に入り、買い物をし始めた。そのどれもが聖メヴラーナに深く関係する品々であり、博物館の中に展示されていたものと関わる歴史的な品物で あり、記念品や思い出となるものであることは明らかであった。数珠、花瓶や彫刻などの小さな飾り、銅の彫り物、額縁にはめられた聖メヴラーナの詩や言葉、 写真等々。

 忠俊はコンヤとメヴラーナの墓の写真入りの絵葉書とセマーゼン(旋舞する修行者)の形を掘り込んだ木のスプーンを買った。

買い物が終わった一行は、すぐそばのレストランに入り二階へ上った。二階は広いバルコニーであった。彼らが予約しておいた場所、バルコニーの園停(ぶどう棚)の下に腰をかけた。このバルコニーから、メヴラーナの霊廟とバラ園が魔法の看板のようにくるくると回って見えた。青緑色をしたお墓の天辺、クッベは、建物の間でもいっそう壮大で、華麗であった。忠俊にとって、彼の精神状態を慮(おもんばか)れば、これよりすばらしいもてなしはなかったであろう。

な んと貧弱な品性を身につけてしまったことだろうと彼は思った。彼は精神的美しさを失い始めていた。ところが、この世の苦難とそれから生み出される嫌気、倦 怠感、憂鬱を彼の上から取り除き、精神的平安と心の安定を与え、広い水平線のかなたまでも包み込む安心感がこの世まで延び広がった。熟考という海の中で泳 ぐために、彼は最初のひとひろ(両手を広げた長さ)を踏み出し、海に飛び込んだ。忠俊は、幸せと歓喜の只中にあった。座った場所から、物思いにふけり、メ ヴラーナの霊廟とバラ園を眺めていた。そして墓石の前で感じた情熱溢れる愛によって、彼の平安な心地はその場所でも、いまだに続いていた。

 

セマー(旋舞)

空 は暗くなり始めた。メヴラーナを記念し、セマーを見せるサロンに向かってみんなは出かけた。忠俊はこよなく幸せであった。だが、同時に自分は沈んだ状態で あることも感じていた。何も語らなかった。今でも尚、絶え間なく指導者の御前で感じた相互作用的な感動に浸っていた。まるでプログラムされたロボットのよ うに、グループみんなに従ってはいたが、彼の内的世界では光が満ち溢れていた。一行は友人達とサロンに入り、示された各々の観客席を見つけて席に着いた。 忠俊の人並みならない関心を見極めたガイドは、彼を特に隣に座らせようとした。

「忠 俊さん、少し後で観ることになるセマーは、万有の動きを示しています。メヴラーナによると、セマーとは、アッラーが、『われは、汝らの主である。さよう か』と仰せられたのに対し、『はい、さようです。あなた様はわれらの主であらせらます』と返答したその声を聴きながら自我を消滅させ、主に合間見えること です。諸原子は修道者たちのように、太陽の光の中でセマーをし、回転していますが、どのような旋律で、どのような拍子で、どのようなサズ(弦楽器の一種) によってセマーをするのかは、私達は知る由もありません。セマーとは、心の中の神秘に到達した者達が、人の心を和らげる恋人に会うためにする動きです。セ マーに入ると、2つの世界からもっと外の世界へ出ます。セマーの世界は、その2つの世界よりもより外側に存在します。7番目の天は一番高い天ですが、セ マーの位階はこの天よりもより高いのです。顔をクブラ(礼拝する方向)に向けた者達は、この地上においてもセマー の位階の高さに到達します。もちろん、あの世でもですが・・・『たとえ輪となって、セマーをし、回転し、留まる者達の間にカーバが存在したとして も・・・』と語られるようにです。セマーは、聖メヴラーナが霊感によって到達し、発展させたものです。完璧に向かって歩む精神の旅(ミィーラージュ)は、 その行き来の代表的なものです」

「ミィーラージュとはなんですか?」

「忠俊さん、このことについてあなたに本を一冊あげましょう。それから学ぶことができますよ。もしよろしかったら、儀式が始まる前に、セマーについてあなたに少し情報をお伝えしましょう」

「喜んで、どうかお続けください」

「セ マーは、7つの部門と4つのセラームから成り立ちます。知識的に綿密に調べるならば、存在することの基本条件は、回転することです。存在するものに共通す る類似点は回転です。その類似は、もっとも小さな原子からもっとも遠い諸星に至るまでみられます。それぞれのあり方は、原子の中の電子と陽子の回転に基づ きます。すべてのものが回転するように、人間という種族も、構造的には原子の中での回転、身体中の血液循環、土から造られ土に戻る事による自然循環など、 無意識的に回転するという作業が見られます。ただ、人間が他の存在よりも優れている点は、知性にあります。そうです、少し後でごらんになるセマーゼンたち は、被造物に共通する行動をセマーによって顕します。知性も共にその動きに加わる形をとります。セマーとは、しもべたちが、真理に方向付けられ、知性と共 に情熱溢れる愛と共に高められ、自我を滅却し、真理なるお方(神)の中で消滅し、完成し、成熟した人間となった後、再びしもべに戻ることです。すべての存 在のため、そしてすべての被造物のため、新生した魂と共に、愛と奉仕のために戻ることです」

「女性たちもセマーをしますか」

「こ の問いは近年何年もの間、討論の的となっているテーマのひとつです。聖メヴラーナの時代、栄誉ある広間(メイダン・シェリフ)という場所では、一度も女性 と男性は一緒にセマーすることはありませんでした。セマーはスルターン・ヴェレドから後、形式化され現在に至ります。女性達は女性達の間だけでセマーをし ていたそうです。今日ではセマーをショーに変えてしまった者達の間では行われていますが、これは大変忌々しきことです。さあ忠俊さん、儀式が始まります よ。また後ほどお話を続けましょう」と言って、ガイドは説明を止めた。

 はじめに、講師が出て、聖メヴラーナについて短い説明をした。ガイドは話を短く切って、翻訳した。彼自身の知っていることも付け加えながら、忠俊の耳元でささやいていた。

聖 メヴラーナは開花を渇望しており、ちょうどそのころ、その彼の心を満たすためにシェムス・テブリーズィー(シャムス・タブリーズィー)がコンヤの通りに現 れたことや、メヴラーナという芽をだそうと強く望む小さな種子が、シェムスの聖なる息吹によって、殻をばりばりと破り、芽生え、開花したことを話した。そ このくだりに入ると、忠俊は弁慶の泣き所をけられたように、完全に魂を奪われてしまった。

世 界でも数少ない優れた文学作品の一つである聖メヴラーナの2万5千ベイト(二行連句)の『メスネヴィー』と蜃気楼の炎にたとえられる5千の詩作集、そのす ばらしさから『偉大な詩作集』と呼ばれているが、これらの作品を読まないわけにはいかないと、彼は考えた。しかし、どのように?ガイドにこの作品の英語版 があるかどうかを尋ねた。彼の返答は満足のいくものであった。

講師は最後を、「メヴラーナよ、おお、預言者の道しるべとなる光よ、あらゆる井戸にも流れ込む大洋よ、あらゆる国を滔々と流れ行く川よ、あふれつづけよ、流れつづけよ、あなた様は、私達にはなくてはならないお方ゆえ・・・」と言いながら話を結んだ。

  話の後、大きなヒルカ(マント、おおい)を身に付け、頭には「自らの墓石、スッケ」と呼ばれる円筒型の形をした墓石を象徴しているフェルト帽をかぶったセ マーゼンたちが靴をはかずに、一人一人やってきて敬意を表した。サーゼン(演奏者)たちもひと角に集まった。その少し後で、背にはヒルカ、頭には緑色の ターバンを巻かれたスッケといういでたちのメヴレヴィーのシェイフ(長老)が近づき、『メスネヴィー』の一節を読み上げた後、毛皮の敷物の上に座った。

ま た修道者たちの一人が『偉大な詩作集』(ディヴァーン・ケビール)の中から讃歌を朗読した。この詩の朗読は非常に感動的であった。修道者の声は、高い音色 から小さな低い音色へとかわり、さらに低い音から高い音へと下がったりあがったりし、その抑揚が見事であったので、聴衆たちは我を忘れてしまうほどであっ た。

  葦笛奏者は葦笛を即席演奏した。この即興は神の美しい香りを象徴していた。デヴリ・ケビール(トルコ音楽で見られる拍子、28分の12拍子)の拍子で、序 曲を奏で始めた。クドゥムの奏者が始めの一打ちを鳴らし、4つのセラームからなるセマー(旋舞)を始めた。シェイフとセマーに加わる修道者たちは、床を手 のひらでたたいてから、立ち上がった。斜めに腕を交差して組むことによって、その外観は『1』の数字を象徴し、アッラーの唯一性を顕していた。セマーゼン たちは、次に腕を広げた。サラワート(預言者の平安と御祝福をアッラーに祈願すること)を唱えながら、セマーの場所に重々しく、しかしリズミカルな足取り で3度セラームをして、動き始めた。これはスルターン・ヴェレドのデヴリ(拍子の一種)といわれ、神秘的な魂から魂への挨拶である。序曲の後、『偉大な詩 作集』から抜粋され作曲された「アイン・シェリフ」が演奏家達によって演奏された。この間にセマーゼンたちは背中のヒルカを同時に地の上においた。この黒 いヒルカ(おおい)は神のほかのすべての存在を意味する。それを脱ぎ捨て、一心に真理(神)へ突き進むこと、つまり墓にむかうことを意味している。黒いヒ ルカ(おおい)を、下においたセマーゼンたちは、一人一人シェイフの前で乞い願い、その後、腕を組んだ状態となった。その状態は、単一性と唯一性を強調し ている。それから旋回しながら、ゆっくりゆっくりセマーする中へひろがっていった。右手は、祈りを捧げるかのように、天に向かって、左手は、地を指すよう に下へ向いていた。この形は、スーフィー(修道者)が主から得た精神的恩恵を人々へと伝えている。右から左へ心を軸として回ることで、72の国々に住む人 々を抱擁すると言う意味を持っていた。セマーゼンたちは、長いすその広がったスカート状の衣装を舞い上げながら、飛んでいるかのようであった。お互いが触 れあわずに旋回する様子は、奇跡的で見事な光景であった。乞い願う状態を表す斜めに傾いた頭、閉じられた目は、絶え間なく回転し、まるで地から浮いた足は 宙を舞っているかのようにみえた。

旋回という動きによって、真っ白な長いすその広いスカート状の衣が扇のように開かれ、円を描き、さらに描き、描き続けた。

初 めて出会ったこの不思議な独特の雰囲気の漂う光景と、昼間指導者の墓石の前で感じたさまざまな感覚とが、忠俊の中で重なり合い、混ざりあった。まったく奇 妙な感じで、それこそ今までと違う水平線へ向かって翼を広げ、羽ばたいていくような感覚がした。セマーゼンたちはよろめくことなく、お互いに触れ合うこと も、ぶつかり合うこともなく整然と旋回しているが、それは彼にとって不可能だと思われる想定範囲外の出来事であった。ガイドの耳元に屈みながら、

「めまいはしないのでしょうか?」と訊ねた。

ガイドは、

「セ マーゼンになるまで、釘を打ち付けた板をつくり、釘と釘の間に足の親指を突っ込みながら、同じ一点を中心点として回転することができるよう練習してきまし た。めまいがしないかということに関しては、ただアッラーヘ対する情熱溢れる愛によってしないとしか説明できません。しかし耳鼻科の医師が、『セマーゼン たちは回転するとき、頭を三十度傾けるため、耳の内耳に影響する圧力の影響を変化させ、めまいを起こさない』と述べています。それだけではなく、めまいに よる不快感にも適用でき、彼らの動きは不快を感じさせないことが、広大な知識によって説明されました。お望みなら、その本をお求めになれますよ。セマーゼ ンたちの回転の仕方、腕の広げ方、直立の仕方、回転しながら歩く様子、しるしのない軌道の上を、左右によろめかず前進する形などさまざまな動きが、今日使 用されている医学的手段と、驚くほど近似していることがわかりますよ。セマーは単一な動きとなり、重力の中心は、セマーゼンの身体を通ります。セマーゼン の回転軸は、傾いた頭、心臓、左足を貫きます。

セ マーの間、頭はさまざまな行動から守られ、うなじと首の筋肉により頭を支えています。セマーゼンは半目を開けて、その視線から見える左手の親指を見つめて います。セマーをする前には、食べ過ぎに注意し、それだけではなく、消化しにくいものも避けます。セマーの間、ズィクル(神を想い念ずること)をしなが ら、知性を昇華させ、脳が麻痺状態になるのを防ぎます。近代医学が、めまいをしないため推奨する方法とセマーゼンの動きは驚くほど似ていることに気がつか れるでしょう。さらに、近代医学が最近になって推奨したことを、セマーゼンたちは7百年ものあいだ、適用し続けてきたことは、大変重要な点です。近代医学 と7世紀前の知識とが一致し、完璧に類似しているわけです。セマーは7世紀間、もっとも古いよく知られた演習場での訓練プログラムです」と、語った。

  この返事は、忠俊を深く考えさせた。「何世紀も前に生まれ、無意識的に医学的知識を前提としたこれらの行動が、近代医学と重なることを、理解するのは非常 に難しいことだ」と。神秘的な考えが頭の中でぐるぐると回りっていたが、同時に修道者を観つづけていた。その日、喜びに満ちた一日を過ごし、一方では、集 団の一人としてまた個人として、人生を清算しようと努めていた。

「こ の世に生きている人々、スクリーンに満ち溢れる人々、私たちの目に映る人々は、なぜ美しくないのであろうか、なぜわずかな美しさしか感じられないのだろ う。もしかしたら私たちは美しさというものを逆に捉えているのであろうか。ゆがんで眺めているのだろうか。なぜ人としての美しさを熱望せず、遠ざかるのだ ろう。なぜ精神的美しさをすり減らしてしまうのだろうか。メヴラーナの思想はこれらすべてに答えてくれる広大で明白なひとつの真実だ。理性を失った命が引 き込まれるように連れてこられ、私たちが到達した地点から飛び立つ時はまぢかに迫っている。人間の精神をすり減らすのを止めよ、というべきだ。みんな、こ こへ来て、優れた熱い望みに抱かれるべきだ。そして、この熱望は、世界へ広げ反映させなければならない。すばらしい苗木をうえるべきだ。再生する春と魂の 美しさを感じながら、生きるべきだ。人間性の醜い部分を取り去り、余計なものから離れなければならない」と考えていた。

 「忠俊さん、今ごらんになった第三のセラームは、人間の感嘆する気持ちと恩恵を感じる気持ちを情熱溢れる愛に変えることによって、知性が情熱溢れる愛にその身を捧げたことを意味します。これが完全な従順さで、アッラーにあいま見えることであり、愛するもの(神)の中で消滅することです。妨げるものは一切ありません。仏教で最も高い位階「涅槃」の境地です。イスラームでは、「アッラーの中での消滅」です。イスラームでは最も高い位階は「しもべであること」です。

「仏教についても、知識をもっていらっしゃるのには驚きました。大変、感心いたしました」。

「アスタグフィルッラー(アッラーに私は赦しを請います)、いえそんなことはありません。私はただ務めを果たそうとしているだけです」

セマーゼンたちは、メヴラーナの位階を継承するシェイフの前で一休みしていた。その後再び懇願した。

4番目のセラームの後、クドゥム(楽器の一種)が後わりをしらせる一打を打った。葦笛が最終ベイト(二行連句)を奏でた。扇のように広げ舞い上がったスカート上の衣は、突然動きが止まったために、小さく萎んでいった。精神的旅路から本来の姿、しもべへと戻っていった。

  セマーが終わると、セマーゼンたちは皆座った。ヒルカ(おおい)を後ろに羽織った。クルアーンから10節が朗読された。すぐその後、ドゥアージュ・デデ (祈りをささげる役目のデデ)が祈りを捧げ、立ち上がったシェイフによってギュルバンク(神に捧げる祈りや賛歌)がなされ、修道者たちによってアスマー・ ウル・フスナー(美しい神の御名)が唱えられた。さらに、「フー」(彼、すなわちアッラー)が、コーラス形式で唱えられた。その後、シェイフが座っている 敷物の上から、待ち構えている人々に挨拶をした。このセラームは、アシュチュ・デデ(台所を取締る役目のデデ)によって、声を出す形で受け応えられた。

シェイフは背後を扉に向け返礼するとき、座っていた敷物(その地位を意味する)のために祈った。この祈りに修道者たちも加わった。シェイフはセマーをする場所、セマーハーネから立ち去った。修道者たちも続いてその後から去っていった。

セ マーの上演の後、神秘主義的音楽の大家であるアフメット・オズハーンの心魅せられる声と歌われた作品の旋律がセマー中に響き渡り、人々に我を忘れさせた。 すばらしい儀式は深い感銘を残す形で終わりを告げた。しかし、忠俊の心の中では、再びセマーが始まっていたのであった。個々人が自らを解き放ち、セマーに 立ち上がる修道者がヒルカを脱ぎすてた時のように、そしてまた、回転する宇宙の中で、さらに回転する太陽の周りを回転する私たちの惑星地球のように、熱く 燃え上がる愛によって、彼の魂と心は回り始め、さらに絶え間なく回り続けていた。

 

メヴラーナを育む若葉の香る土地との別れの挨拶

墓 を心ある者と喩え、「私達の死後、私たちの墓をこの地で探さないでください。私達の墓は、賢きもの達の心の中に存在しますから」とおっしゃった聖メヴラー ナは、彼の心によって全世界の人間を抱き、包み込み、700年間、神への情熱溢れる愛を伝えてきた。神の息吹によって普遍的なメッセージをいまだに与え続 けている。滅びることのない広大な愛が人間の心に芽生えたこの土地から、寛容さが円を描いて回る愛の軸であるメヴラーナの街から、そして、歴史の香りを漂 わせるこの街の息吹から別れ旅立つことは、忠俊にとって大変つらいことであった。

人 生の中で、今まで一度も味わったことのないすばらしい気持ち、もっとも幸せな瞬間をこの日、一日中感じ続けることができた。初めての親友や恋人に抱く気持 ちに似た愛、その絆が別れの痛みをますます強く感じさせた。まるでコンヤの聖メヴラーナと共に何年間も生活していたかのように、心の一部がこの土地に取り 残された形となった。乞い焦がれる者へ辿り着く道が、遠くに離れていった。観光バスは、12月の寒さの中で夜を分けて、前進していた。忠俊は、いまだに聖 メヴラーナの墓とセマーの儀式の影響下にあった。初めて味わったあの喜びと驚きに満ちたセマーの上演は、彼の目の前から、そして心から離れることはなかっ た。白い衣を着て右に左に、心の周りを旋回しながら、72国の人々を、熱く燃える心によって抱くことを象徴化したセマーゼンたちは、彼の心の中で扇のよう に、情熱溢れる愛によって回り続けた。彼は喜びに満ちて生きた瞬間すべてを思い出そうとしていた。いや、そのことを思わずにはいられなかった。

  彼の人生において、重大な変化のサインが送られ、海の灯台の強い光が自分自身に向けられ、道が示され、そして呼び招かれたことを彼は感じていた。「奇妙な 一日を、私は過ごした。気持ちが混乱してしまった。私の魂は変わってしまった」と思った。あの有名な呼び招きの言葉の意味が、彼の脳を占領してしまったよ うだ。聞いたこと、見たことすべては強い影響力を備えていた。訳などまるで必要とすることもなく、彼の心に、そして魂に呼びかけているようであった。

 

ガイドはさらに説明する

  脱力感が観光バスに乗った人々のほとんどを襲った。一日が終わった。旅の疲れがバスに乗るとドッと出て、彼らは深く眠りに落ちていった。忠俊はといえば、 その日に起こったことを深く考えながら、物思いにふけっていた。とても眠れそうになく、思い起こすことに熱中していた。ガイドが彼のそばに来て隣に座って もいいかどうか尋ねたが、気がつかず、3度目に話しかけた時、やっと彼に気がついたほどだった。窓のそばの肘掛を引き上げ、ガイドに場所を空けた。

 ガイドは、

「セマーの儀式はいかがでしたか、忠俊さん」

忠俊は、

「ブ ラボーの一言に尽きます。思いもかけぬほど、すばらしかったです。深く感銘を受けました。今まで私が人生の中で見たもの、あるいは見ていないものすべて ひっくるめた中で、もっとも美しい儀式でした。感動しました。メヴラーナについてもっと詳しく学びたいです。ぜひ教えてください。おねがいします」といっ た。そして、ガイドの言ったことを記録するために、テープレコーダーを取り出した。何年もかけて行ってきたメヴラーナに関する人生、作品、思想の研究、そ して旅行中にそれらを説明することが、ガイドの主な目的の一つでもあった。ガイドをしたグループの中には、忠俊のように関心を持つ者たちや、それをきっか けにメヴラーナの愛までたどり着く者たちが数多く現れた。このように普遍的愛に到達するためのきっかけになることを、ガイドは心から望み、そのことに大変 喜びも感じていた。

ガイドは時計を見た。忠俊に、彼が望むように、そのすばらしさを伝えるのには十分なほどの時間と場所が彼らにはあった。

 

博物館、墓、そしてメヴレヴイーについての知識

「忠俊さん、もしよろしかったら、はじめに博物館と墓についてお話しましょう。詳しいことは、そのあとでお伝えします」と語った。

忠俊は待ち遠しく、「よろこんで」と答えた。

ガイドは説明し始めた。

「ご 覧になったように、コンヤにメヴラーナ・ジェラーレッディーン・ルーミー(マウラーナー・ジャラールッディーン・ルーミー)の墓と修行場を含む、1927 年に開館した博物館には、聖メヴラーナの墓石、『メスネヴィー』詩作集、そして、そのほかにもご覧になった当時の品々が展示されています。墓の中の壁に は、文字で装飾された大変興味深いカリグラフィーが記されていますが、メヴラーナの芸術に関係するものです。ご注意なさるなら、墓の扉や修行場の中庭に開 かれた扉と、墓に至る回廊には碑文があります」

「はい、すべてみました。その碑文が、何を伝えているのか知りたいです」

「よろしかったら、碑文に書かれた詳細を、根本から学んでみてはいかがですか。さもなければ、今度またお墓を訪れることがあったなら、その時もっと詳しくお話いたしましょうか」

「また、参ります」

「ええと、どこまでお話しましたっけ」

「メヴラーナの墓についてお話ししていらっしゃいました」

「え え、そうでした、メヴラーナの墓は、メヴラーナ・ジェラーレッディーン・ルーミーの死後、アラメッディーン・カイセルとアラーエッディーン・ケイフスレヴ 2世の娘とムイニッディーン・ペルヴァーネの婦人グルジュ・ハートゥンによって1274年に建てられました。つまり、死後すぐに建てられたのですね」

「1927年とおっしゃいましたか」

「忠俊さん、1927年は博物館の開館の日です。1274年に墓が造られました。亡くなって、すぐのことです」

「聞き間違えてしまったようですね。失礼いたしました。どうかお続け下さい」

「建 築家はベドレッディーン・テブリーズィーです。周囲の礼拝所、セマーハーネ、聖なる広間、台所、修道者の小房、噴水地、シェブィ・アルースの噴水とチェレ ビー(メヴラーナの子孫につけられた称号)たちの部屋などからなる墓を中心とした教育機関の形に整えられています。この教育機関を構成する建築の基礎であ る墓の建物は、セルジューク時代に、墓の刻み目のある胴体部分、とんがり帽子の形をした屋根の部分、入り口の回廊、チェレビーたちの墓が造られ、ポスト・ クッベ部分はカラマンオウル時代に、礼拝場はオスマン時代に造られたものです。

  今日の墓の形は、4角形の地下の土台の上に、3方がアーチ状になり、1方が閉じた形をして作られています。この上に16に区切られたとがったとんがり帽の 形の屋根が覆っています。とんがり帽の屋根のてっぺんの三日月の中に、メヴレヴィーのスッケという崇高な世界が存在します。とんがり帽の上に、トルコ石の タイルが飾られてあります。とんがり帽の屋根は「緑の塔(ヤェシル・クッベ)」とも別名呼ばれています。緑色の屋根の下に、メヴラーナとその子供のスル ターン・ヴェレドの墓があり、青緑色の大理石で作られ、その上をプシデと呼ばれるおおいで覆った墓石があります。

聖メヴラーナの墓の上に、2.65メートルの高さのセルジューク朝時代の名彫刻作品である墓石がありました。今日は、メヴラーナの父スルタヌルウレマー(学 者達の王)の墓の上に見られますが、その見事な胡桃の墓石は、アブドゥル・ワーヒドという建築家が作ったものです。立法者スルターン・スレイマーンの命に よって、後に、この墓石がスルタヌルウレマーの上に移されました。そして聖メヴラーナとスルターン・ヴェレドの上にそれぞれ墓石を作らせました。この上を 金の刺繍がほどこされた覆いで覆っています」

「なぜ、かえたのでしょうか?」

「な ぜなら、天国の住人の地位を得た立法者スルターン・スレイマーンは、その父ヤヴズ・セリムと同様、聖メヴラーナに心を奪われた統治者の一人でしたから。ご 自身も詩人であられ、聖メヴラーナの詩に強く感銘を受けました。こよなく愛した偉大な神の友(アウリヤー)に奉仕したいという気持ちで、胡桃の墓石を取り 去り、その代わりに、当代きっての有名な熟練工に造らせた大理石の墓石を設置させ、その上に、聖メヴラーナの詩を記させました。メヴラーナは見せかけのよ さや、尊大さを好まない神の友であったので、聖メヴラーナの上におかれた見事な墓石を、彼の父スルタヌルウレマーの上におくことがよりふさわしいと考えた のです。知らず知らずに、世界のスルターン・カーヌーニー(立法者)は、メヴラーナの魂からの望みを実現させていました。今日、お墓に来ると、礼儀として 立ち上がりますが、高みにみられるこの見事な墓石を見た人々は、彼ら同様、父親のスルタヌルウレマーが、その子に対して敬意を示すために、立ち上がったか のように思うのです。実際に、そこに埋められたすべての人が、聖メヴラーナのところへやって来たとき、立ち上がったそうです。このような精神的起立をみた ことがありますか?よく考えてみると、今日、全世界の人々、アメリカ人やイギリス人や日本人やフランス人などすべての人が、聖メヴラーナのために起立し、 彼に尊敬の念を現しています」

「教えてくださったことは、とてもすばらしいです」

「ありがとうございます、忠俊さん」

「正面の銀の入り口の下に見られる扉は、17世紀に造られたと知られています。レンガで覆われたこの部分に、聖メヴラーナのご遺体があります。

聖メヴラーナの特になさったズィクルと儀式を目の当たりに見た者、そして、彼の死後、スルターン・ヴェレドの創設したタリーカ(道)に入ったものをメヴレヴィーといいます」

忠 俊は大きな期待を持って、「望む者達は、みんなメヴレヴィーになれますか。わたしもなれるでしょうか」と聞いた。ガイドは愛情のこもった目で忠俊の顔を見 て、そして「今はどのようにすればメヴレヴィーになれるか知りません。今も続いているかどうか、確かな情報はありません。よろしかったら、あなたのために お調べしましょう。しかし、確実にわかっていることは、彼との絆です」

「どのような絆でしょうか」

「それは、心の絆です。心から敬愛し、結びつき、聖メヴラーナの生き方を大切にし、特に彼が注意していた考えや生活をあなたの中に取り入れるならば、メヴレヴィーになれないはずはありません」

「あなたのおっしゃったことは、できるような気がいたします」

「私も大変うれしいです、忠俊さん」

「ありがとうございました。あなたを疲れさせてしまわなかったでしょうか。そうでないことを願いますが、あなたの教えてくださったことは、私にとって、とても大切なことです。そこで、もうひとつお尋ねしてもよろしいでしょうか」

「も ちろんです。疲れてなんかいませんよ。反対に、聖メヴラーナについて語ることは、私には大きな喜びとなります。お聞きになりたいことがあったら、何でもお 尋ねください。私の知っていることは、何でもお答えします。あなたに、よりはっきりとした考えをもっていただきたいですから。どうか、質問なさってくださ い」

「わかりました。それでは、儀式でみたセマーゼンたちは、メヴレヴィーなのでしょうか、彼らは心の絆で繋がっているのでしょうか。彼らは我を忘れて旋回しているように見えました」

「あ なたがご覧になったセマーゼンたちとシェイフは、過去を再現させるために、政府のスタッフの一員として働いている方々です。精神的生活について、私たちに はわかりません。この絆は、個人的な特別の絆と考えられます。ただ自分の心の中だけ、創造主との間に見られる想念です。強い心の結びつきです。セマーゼン は、この絆を得られたかもしれないし、そうではないかもしれません。しかし、情熱溢れる愛の状態に入っているのですから、メヴレヴィーではなく、その心の 絆が得られなかったとは、到底考えられません」

「ええ、そうですね。私も、彼らがその絆で結びついていないとは考えられません。きっと、絆を得られたことでしょう。それではスルターン・ヴェレドの時代のメヴレヴィーたちがどのようであったか、さらにお話していただけませんか」

「メ ヴレヴィーのタリーカのきまりでは、試練に耐え、試験や試みを乗り越え、能力ある指導者から許しを得た者にその資格が与えられます。メヴレヴィーになるた めには、指導者から許しを得て、免許皆伝を授かることが必要です。メヴレヴィーとしてのふるまいや着こなし、携帯するものから話し方まで、さらに周囲の人 々への関心、他の人々に対するよい態度など、タリーカのきまりには、明確に枠組みがしっかりと示されています。メヴレヴィーに対して、愛情と関心を持ち、 シェイフの存在するテッケ(修行場)で、必要なら儀式に参加する者をメヴレヴィー・ムフビーといいます。メヴレヴィーを愛する者という意味です」

「それらの儀式、それに免許を授ける指導者やシェイフは、今尚存在していますか」

「忠 俊さん、この私のした話はスルターン・ヴェレドの時代のことです。いつまで続いたのかはよく存知ません。私が申し上げたように、今日まで伝統として続いて きたかどうかもわかりません。インシャアッラー、いつかコンヤに一緒に訪ねましょう。そして、聖メヴラーナの子孫であるチェレビーたちを探して、彼らから お話を聞きましょう。私もこのことを、非常に知りたいと思っていますので」

「インシャアッラー、とはどう意味ですか」

「アッラーがお望みならば、という意味です」

「わかりました。ありがとうございました。どうかお続けください」

「メヴレヴィー・ムフビーのところでしたね」

「そ うでした、メヴレヴィーの修道場のシェイフをチェレビーといいます。聖メヴラーナ・ジェラーレッディーンの子孫から選ばれた方々です。コンヤに存在するメ ヴラーナの修行場のシェイフたちは、みなチェレビーと呼ばれています。タリーカに結びついた弟子(まなびと)たちやデデ(千一日の修行を修了した者の称 号)たち、修行者たちから絶大の愛と尊敬を得ています。チェレビーたちは、別名モッラ・ヒュンカール・オウルラルとも呼ばれます。メヴレヴィーになりたい と望む者達は、修行場に入ったあと、必要な儀式を一通り行い、確実にきまりを守ることが、その慣わしとなっています。一部の者たちは、メヴレヴィーという 名前を得るために、千一日間の試練に耐える必要があります。試練はメヴレヴィーの伝統に従えば、ある小房で独居し行われます。試練を受ける弟子たちは、修 行者という意味のチレニスィンと呼ばれます。修行は、内的世界における特別な訓練であり、自我を鍛えるためのひとつの方法です。修行は儀式によって始ま り、儀式によって終わります。

 メヴレヴィーの候補者たちを命という意味のジャンと呼びます。ジャンは三日間の最初の修行の後、小房のひとつに身を置きます」

「偶然ですね。日本でも愛するものたちへ「わが命」などと呼びかけます」

「そうですか、忠俊さん。このように似ているのは、適切な言葉だからでしょう」

「三日間の修行の終わったところまで、お話していましたね。さて・・・」

「そのとおりです」とガイドはいい、忠俊の中に芽生えた熱烈な興味と注意力に感嘆しながら、話を続けた。

「こ こでは三日間、秘められたという意味のスルになります。どこへも出かけることはできず、扉も窓も閉まっています。食べ物と水を食事係が運びます。三日間の 修行が終わると、ジャンを連れ出し、デデのところまで連れていきます。ジャンはデデの前で正座し、授けられた教えと示された道について拝聴します。その 後、再び修行に戻ります。十八日間修行場に留まります。この間、外に出ることはならず、ただ修行場の中だけを歩き回ることが許されます。十八日後、シェム ス・テブリーズィー(シャムス・タブリーズィー)を訪れるために出かけます。訪問後、チェレビーたちが日課とする、神を讃える言葉やドゥアー(神への祈 り)やズィクルの言葉などを学びます。これを学習した後、望むなら修行を続けます。また望むならその先にある「メヴレヴィーの館」に入り、一定期間奉仕活 動をし、終了となります。「栄誉ある台所」という意味のマトバフ・シェリフで合計千一日奉仕します。この千一日間の中で、いろいろな仕事が与えられます。 これらの仕事についてお知りになりたいですか」

「はい、教えてください」

「1、 足へ奉仕する。(アヤクチュ)2、中庭を掃除する(スプルゲジ)3、台所のろうそく台に火をともす。(チュラウジュ)4、修行場のろうそくをつける(カン ディルジュ)5、食事の準備と片づけをする。(ソマゥチュ)6、修行場の中央間で仕事をする。シェイフの敷物をセマーハーネに敷き、返礼の後片付ける。 (メユダンジュ)7、デデたちの珈琲の豆をひき準備する。(ラフミスチュ)この仕事は珈琲がアナトリアに広がった後に付け加えられた。8、布団を敷き片付 ける。(ヤタクチュ)9、市場で買い物をする。(パザルジュ)10、食器を洗う。(ブラシュクチュ)11、扉を看る(ドラプチュ)12、便所の掃除をする (アユルズジュ)13、出でたちに甘い飲み物を配る。(シェルベトゥチュ)14、修行者の衣服を洗う。(チャマシュルジュ)15、タリクチ・デデの命令を 知らせる。(ドゥシャル・メイダンジュス)16、台所のろうそくをつける(ウチュ・カンディルジュ)、靴を整える(パシュマクチュ)18、食事をつくる。(ロクマジュ)

修行場でそれぞれ重要なそして特徴のあるこれらの奉仕をするのは、千一日修行によって完成します。すべての奉仕活動の分野をこなした後、特別な儀式によって修行は終わります」

集中して聞いていた忠俊は、

「そして、メヴレヴィーの名を名乗る権利を得るのですね」といった。

ガイドは、「そうです、そのとおりです。修行が終わると、メヴレヴィーの名を名乗る栄誉を得ます」といいながら、忠俊に確認するように言った。

「この千一日の修行をこなし、さらにほかの儀式も行うために特別に作られた街や城があるはずですが」といった。忠俊は、その時代に戻り、そこで日々を過ごしたいと思った。

ガイドは、

「は い、もちろん、忠俊さん、「メヴレヴィーの館」がありました。これらは大変重要な役目を果たしました。コンヤだけではなく、いろいろな地域に存在していま した。その幾つかは、今でもその役目を果たしています。メヴレヴィーのタリーカが発展していった県では、メヴレヴィーたちの数によって、ひとつ又は数箇所 にメヴレヴィーの館が作られました。トルコで、もっとも多く「メヴレヴィーの館」が見出せるのはイスタンブールでした。この中で特に有名なのは、ガラタ・ メヴレヴィーハーン、エーユプのバハリヤェ・メヴレヴィーハーン、ヤェニカプのヤェニカプ・メヴレヴィーハーンです。

「メ ヴレヴィーの館」は、メヴレヴィーたちのタリーカのきまりに従い集まる場所や、特別な部所、儀式の場所やメヴレヴィーの倫理に基づく特別な部屋などが存在 するところです。中に台所、修行場、客間、セマーの場であるセマーハーネ、広間、演奏家の館、小房のような特別な場所があります。「メヴレヴィーの館」 は、すべての権能を有するシェイフたちによって、管理されていました。

「メ ヴレヴィーの館」は、同時にメヴレヴィーたちのため、教育機関としても機能していました。メヴレヴィーたちのために、必要なあらゆる知識、タリーカの規 則、メヴレヴィーに必要な一般基礎知識や儀式や音楽も、この「メヴレヴィーの館」で教えていました。シェイフたち、修行者たち、宿泊用の特別な部屋、睡眠 をとる場所などがありました。どの「メヴレヴィーの館」にも、図書館が設置されていました」

「メヴレヴィーについて、ほかに何かおっしゃりたいことがありますか?」

「聖メヴラーナは、親友たちが参加した特別な集会を準備し、神秘主義や宗教についての講義をしたり、詩を読んだり、ズィクルしながら、旋回したりしてしました」

「すみません、ズィクルとおっしゃいましたか、それは何ですか」

「単 語としての意味は、」(名を)思い出すこと、という意味になります。聖メヴラーナにとってのズィクルとは、アッラーの御名を想うこと、唱えることです。セ マーゼンたちの旋回は、アッラーの御名を想念しながら、愛と情熱溢れる愛と共に旋回し、熱き愛の状態にはいり、その精神的喜びを得ることにより起こりま す」

「その情熱溢れる愛は、ただメヴラーナにのみに固有のものでしょうか。望むならば、誰もがその喜悦を感じることはできますか」

「情 熱溢れる愛は風邪に似ています、忠俊さん。あるものたちは軽くかかります。あるものたちは、まったく感じないでしょう。またある者達は重症になります。聖 メヴラーナは、もっとも重くかかった偉大でまれな方々のうちの一人です。情熱溢れる愛は、人それぞれ違います。世界中のすべては、お互いを情熱溢れる愛に よって関連しあっています。もしお互いがわかりあうなら、世界を同じ視点から見ることができるでしょう。そうなのです、情熱溢れる愛は、そのような観点か ら芽を出し、花を咲かせます。たとえば、メヴラーナとシェムスが、同じ視点からお互いを見たように。この点について、注意深くご覧になれば、もっとも良い 答えをご自身で見つけることができるでしょう。さて、違ったテーマについても、あなたにお話したいと思います。

  メヴラーナ・ジェラーレッディーン・ルーミーの神の御名を唱えるという意味でのセマーは、時がたつにつれて一定の形式をとるようになりました。明らかな外 観と基本に基づく集会の形になってきました。集会では、葦笛、クドゥム、それらに似た楽器が奏でられて、唱えられるズィクル、儀式が整った形で行われ始め ました。短期間に広範囲に広がり、民衆、特にその時代を輝かせる人々の間で、多くの関心を呼び起こし、これらの集会に参加する者の数は増加していきまし た。イラン、アラビアそしてアナトリアのさまざまな土地からやってきて集会に加わる者たち、加わりたいと望む者たちは、聖メヴラーナに対して、愛と敬意を 感じていました。時がたつにつれて、この独特の集会は限られてくるようになり、明確なきまりや、儀式に基づくようになっていきました。

  聖メヴラーナの死後、息子のスルターン・ヴェレドは、同じ道を進みましたが、父親が整えた集会やそこで行われるセマーやズィクルやそれに類似した儀式など を統一し、タリーカの形としました。儀式への参加の仕方やと集会の仕方と、セマーとズィクルを始め方など、当時、メヴレヴィーたちの間でひろく広まってい たやり方を統一し、一定の規則を設けました。公的資質も備えるようになりました。聖メヴラーナが座られた場所を、広げさせました。これらの集会は、主に初 めのころは、コンヤで行われていましたが、聖メヴラーナの見方、考え方を身につけたいと思う人々が増すと、中心となるコンヤの修行場の許可を得て、ほかの 地域にも修行場やメヴレヴィーの館が作られるようになりました。許可が必要となってきたわけです。アナトリアで起こったことが、次第に周囲のイスラーム諸 国の各地域でも起こり、メヴレヴィーの館が開館されました。聖メヴラーナとその子供たちが健在の時に友となった幾人かの近しい方々が、埋葬されているコン ヤのメヴレヴィーの館、緑のクッベは、そのタリーカの中心的な聖なる地位を獲得し、愛情と尊敬を受け続けて来ました」

「メヴレヴィーの真髄と意味を、もう少し教えてくださいませんか」

「メヴレヴィーリクすなわちメヴレヴィー性は、アッラーとそれ以外の存在するすべてのもの(万 物)が合一するという考え方に支えられています。アッラーが創造された万有の中でのご自身の顕現を意味します。万有に存在するとは、アッラーが顕現するこ とです。真に存在するものは、アッラーのみです。すべてのものは、かのお方から齎されます、そして再びかのお方に戻されます。アッラーは、万有を一塊とし て包み込みます。メヴレヴィー性をみにつけることやメヴラーナの作品の中で語られたこの捉え方は、決して新しい考え方ではありません。存在の単一性(ワァ フデティ・ウジュド)という考え方に基づきます。人間にも、ルーフと呼ばれる神に関わる魂が存在します。万有を創造された後、人間の存在が明らかになり、 人間の本質である魂は、それぞれの肉体へ入りました。魂は彼らの故郷から離れ、つまり神の国から離れました。さて、故郷へ戻りたい、懐かしくさびしいとい う気持ちを抱き、心を焦がします。魂は、人間存在の最も基盤となる本質です。人間に人間としての価値を得させる輝く宝石です。人間を真実へ導き、神とのか かわりの中で、人間の本質へ到達させるのは、知性ではなく熱く燃える心です。熱く燃える心は、人間の本質に関わるものです。アッラーに関して抱く最も深く 強い恋焦がれる気持ちです。熱く燃える心の本質について、よく話されることは直観です。熱く燃える心と直観は、お互いに補いあう2つの精神的力です。それ らはお互いに離れることはなく、お互いが必要とする関係にあります。直観と熱く燃える心とは、人間の魂が理解し考える力です。学び知りたいという意欲の元 です。人間は、ただ熱く燃える心、すなわち情熱溢れる愛によってのみ成熟します。真実と神の秘密を理解できる成熟さ(ケマール)に到達します。すべての被 造物は、天の階層を、この熱く燃える心によって旋回(セマー)しています。自分たちのそれぞれの言葉で、アッラーを想い、アッラーの御名を唱えます。それ は、アッラーの創造する常なる営み、すべてが存在する万有を全体的に取り囲む純粋な営み、純粋な愛、光です。説明し理解できる事柄すべてを超えたもので す。その存在は、人間の知性の領域、理解力の限界を超えるものです。人間の心を、アッラーヘの愛と情熱溢れる愛で満たすことができれば、アッラーを心で感 じ、心の言葉で話すことができるようになります」

「それは、少し前に尋ねあなたがお話して下さった心の絆のようなものですか」

「すばらしい、その通りです。忠俊さん、まったくその通りです。よくお分かりになりましたね」

「すみません、名前について知りたいのですが」

「メヴラーナ・ジェラーレッディーン・ルーミーは有名な名前です。当時、アナトリアはルーム地域と呼ばれていました。ルーミーはルームの(人) という意味になります。本名はフセイン・ハーティブ・オウル・ムハンマド・オウル・ムハンマドです。ルーミーとしてよく知られた原因は、長い間コンヤに定 住し「ルーム・エフェンディ」という呼び名で有名になったからです。彼に与えられた称号メヴラーナは「民の偉大な方」、メヴラーという単語から起こり、そ の単語にアラビア語の一人称複数の人称語尾のナーをつけて合成させ、メヴラーナーとなりました」

「ありがとうございます。どうか続けてください」

「アッ ラーヘの情熱溢れる愛が、人間の心の中で満たされると、人間は、アッラー以外に何も見えなくなります。絶えずアッラーの高さまで、自分自身を高めるように 努め、どの瞬間も、どの場所でも、アッラーによって満されていると感じます。心で感じるのです。人間は、アッラーについて沈黙を破り、言葉と声によって、 アッラーを顕現させる存在です。神の御言葉を話す者、カラームッラー・ナートゥクです。アッラーは、さまざまな形の中に違った資質によって顕現されます。 人間がこの宇宙で見るさまざまな存在の種類、色、音、協調、調和、秩序、美のような資質は、アッラーの顕現にほかなりません。人間は情熱溢れる愛によっ て、一段一段アッラーに近づいていきます。そして、明らかに完全さの段階に到達します。到達した段階ごとにアッラーの異なった資質を感じることができま す。この点から熱く燃える心、つまり情熱溢れる愛によって高まること、成熟さと知識力を備えることが、アッラーに近づくことの意味になります。すべての人 間たちが、地上で手にする知識、すなわち情熱溢れる愛によって手にする知識は、その段階に応じて、アッラーを映し出す存在であるので、人間を愛すること は、つまりアッラーを愛することなのです。

メ ヴレヴィーとしての愛に支えられた人間の捉え方は、人間にさまざまな種類が存在する中で、それぞれの異なった価値を大切にすることから始まります。人間と は、万有の本質、存在のすべてを言い伝える言葉、見えるものを見せる目です。メヴレヴィーの教えによると、全宇宙と人間は土、火、空気そして水のような4 つの基礎となる物質から成り立ちます。天においても、人間の本質、構造の基礎は一つで同じです。ただ天命を司るきまりが違うだけです。なぜなら、それらは ある種の精神的段階を意味するからです。

  被造物の中で、最も高貴なのは人間です。人間の高貴さは、アッラーヘの近さや、神に関わる心の姿と神の顕現に関する部分があるために生じます。アッラー は、人間を、神のさまざまな特徴と共に、高い資質と能力によって一体として飾られました。創造物の中でも、かれらをいと高く創られました。そして、これを 意味し、この高さの概念を表す知をイルファン(霊 知)といいます。知識は、情熱溢れる愛と熱き愛によって得られま す。心に、情熱溢れる愛の炎を、そして魂にアッラーへの愛を見出さぬものは、この深い意味を理解することはできません。人間の本質の中に秘められた「神の 秘密」には到達することはできません。この秘密の到達する道は、情熱溢れる愛によって燃え、熱き愛によって熟すことです。聖メヴラーナの精神的旅が、完成 に近づいたことは、『我は未熟なりき、我は熟し、燃え焦がれけり』という言葉に集約されています。聖メヴラーナの成熟は、学者たちの王(称号)であるバ ハーエッディーン・ヴェレド(バハーウッディーン・ワラド)とセイイド・ブルハーネッディーン(サイイド・ブルハーヌッディーン)の歓喜の息吹によって、 そしてまた、燃焼はシェムスの光り輝く鏡に映し出された自らの美しさ、情熱溢れる愛の炎によって、成し遂げられました」

 「メヴラーナに影響を与えた方々についても知りたいのですが」

「メヴレヴィーについてお話した後、彼らのことも説明いたします」

「ありがとうございます。メヴレヴィーにおける情熱溢れる愛についてお話ししていましたね」

「メ ヴレヴィーによって理解される熱き愛とは、人間が人間に対して抱く無常の人間的愛ではありません。アッラーに対して感じる限りのない深い見返りのない絆が 必要とされる愛です。永遠に続く熱烈な燃える心です。メヴレヴィーの考え方、捉え方が、ネオプラトンの哲学の流れに影響を受け、さらにメヴラーナもまたメ ヴラーナの継承者たちの作品に見られるスーフィズムの概念を示す諸作品において、たとえばメヴラーナの『メスネヴィー』や『偉大は詩作集』、スルターン・ ヴェレドやウル・アーリフ・チェレビーの作品などに見られるスーフィズムの概念は、プラトン主義が発展したもの、つまりプラトンの哲学の流れを汲む哲学書 に多大な影響を受けているという見方があります。しかし、もし私にお尋ねるなら、『聖メヴラーナに影響を与え彼の心を満たしたものは、ただただ最後の預言 者ムハンマド・ムスタファー(彼に祝福と平安あれ)のスンナとアッラーへの情熱溢れる愛だけである』と答えるでしょう」

「私にとっては、聖メヴラーナがほかの誰からも影響を受けることのない独自の思想を持つ偉大な哲学者です」

「哲学者という言葉の代わりに、「神の親しき友(ワリー)」と呼ぶほうがよりふさわしいでしょう。よくお調べになり、理解なされば、自らこのように呼ぶようになられるでしょう。今のところは哲学者と言ってもよろしいかと思います」

「ワリーとは哲学者よりももっと優れていることですね、それが分かりました。ともかくこのことについての詳細は、後ほど学ぶことができますね。今説明の残っている部分をお続けください」

「イスラーム世界で宗教と音楽の狭き道を結びつけ、崇拝行為として音楽を位置づけた最初のタリ-カがメヴレヴィーといえます。葦笛、クドゥム、ヌスフィヤェ(短 い葦笛)レバプ(3弦の弦楽器)、さらに時代が下ってタンブルやさまざまなサズなどが付け加えられ、宗教的儀式として整えられ、ズィクルしながら、セマー の場に入り、イラーヒ(神をたたえる詩歌)をうたいながら、シャリーアに対して柔軟な姿勢を見せたのがメヴレヴィーです。このため、幾つかの点が論争の的 になっています。しかし、多くの国々の学識者や王たちが、メヴレヴィーとなり、修行場に通った事などにより、メヴレヴィーへの圧力は取り除かれる結果とな りました」

  忠俊は、ある部分を完全には理解することができなかったが、それらのことがらについても、できる限り集中して聴いていた。ガイドの頭を混乱させないため に、静かに聴いていた。ガイドは、忠俊が日本人であることをすっかり忘れてしまっていた。ただ目の前には、メヴラーナについて知りたいとのぞむ信仰者の一 人がいるかのように、懸命に説明していた。忠俊が、どの部分で理解していないかも、頭の隅に書き込むことを忘れてはいなかった。後に、この部分について調 べようと思っていたからだ。

  忠俊は、自分自身に向かって、私にとって重要と思われる質問をしたなら、彼の集中力を乱してしまうだろうかと躊躇いながらも、「すみません。あなたがお話 してくださってことはとてもすばらしいです、大変感謝しています。本来、私が知りたかったことなのですが、よいメヴレヴィーとはなんですか。何について注 意しなければいけませんか。これらのことについて、もう少しお話していただけませんか」

「もちろん、よろこんで、忠俊さん」といってガイドは再び話を続けた。

「メ ヴレヴィーの基本中の基本は、一般に12の項目に集約できます。1、人々に奉仕すること。2、他人に対していつでも丁寧に美しく振舞うよう手本になるこ と。3、『メスネヴィー』を読み修行者として身を捧げること。4、知性を上手に使うこと、英知を備えること。5、敬虔であること。6、心の中をいつも清ら かに保つこと。7、メヴラーナを指導者とすること。8、メヴラーナの道から外れないこと。9、アッラー、聖ムハンマドの後、メヴラーナに結びつき、彼を心 から信じること。10、知識を得て、知識人となること。11、謙虚で忍耐強く笑顔でやさしくふるまうこと。12、物質的にも、精神的にも清浄であること。

これらはメヴレヴィーの不変の規則です。メヴレヴィーのタリーカの門をくぐる者、修行を終えたものたちはみな、これに従わなければなりません」

「メヴレヴィーのきまりは、大変気高くで、美しいですね。大変感嘆しました」

「メヴレヴィーであることは、イスラームの教えとアッラーヘの熱愛の表れでもあります、忠俊さん」

「よくわかりました。メーセージもよく伝わりました。私も、もっとよく調べなければなりません」

忠俊が、希望の光を見出したと知ると、ガイドの喜びもひとしおであった。

「あなたにも称讃がふさわしいです。あなたを誇りに思います」

「私たちが見たセマーの儀式は、やり方はひとつだけですか?それとも他にも違った形がありますか」

「いつも同じですか、それともいろいろな形がありますか、とお尋ねですね」

「はいそうです。そのことを質問しています」

「このような質問は初めてです。ほとんどの人は思いつかないでしょう。実は以前私もあなたのような考えが浮かび、調べてみました。お話しましょう」

「メ ヴレヴィーに「アイン・ジェミー・メヴレヴィー」といわれる儀式がありました。夜によく、語り合いの形で行われたこの儀式はデデたちの他、タリーカに入っ たメヴラーナを愛する者たちも参加していました。この儀式はメイダンジュ・デデが取り仕切っていました。扉のそばに、シェイフの赤い敷物を敷きます。その 後ほかの敷物も順々に並べられます。18の蝋燭立てが9ずつ2列に並べられます。就寝前にする礼拝をした後、メイダンジュ・デデが儀式へ招待する呼びかけ をします。そして式は始まります。葦笛が奏でられセマーが始まります。後に、修行場と関連施設が閉鎖される法律が出され、この集いは終結しました。しか し、メヴレヴィーの保護下に支部の形で残されました」

 観光バスは休憩のために止まった。運転手の、「休憩です」という言葉で、ガイドを取りまく喜びに満ちた単独の話も中断された。ガイドは、その場から立ち上がり、旅行者たちに運転手の言葉を訳して伝えた。何人かはそのまま眠り続けていたが、他の何人かはバスから降りた。

 

忠俊を情熱溢れる愛が取り巻く

忠 俊の頭にあった過去は、すべて新生された。一生懸命ガイドの言うことに耳を傾け、録音もした。夜中の寒さが顔を撫ぜたため、かなり疲れていることに気がつ いた。広い山の頂から、そよそよ吹きながら、山々の斜面の松の木の香りも加えて運んでくる冷たい12月の風を感じ、脳は冴え、より聡明に分析を始めるきっ かけとなった。

尋 常ではないすばらしい旅となった。見たもの、聞いたもの、感じたもの、確信したものがすべて魔法にかけられたかのように変わって、「宇宙のすべてが限りあ るのに、今日私が過ごした彼の思索に含まれる情熱溢れる愛には限界がない。境界を乗り越え、水平線の隙間をさらに潜り抜け、無限へと続く。満月の夜にふさ わしく、かの気高き人間も、また魂たちや心たちと共に生きつづけている」とつぶやき、目を空の月に向けた。真っ黒い雲がアンブルの馬のように、いなないて いた。月は、雲の後ろに見え隠れしていた。見え隠れする月の中へ、心が空気のように上っていくようであった。月も、その心に強い力で働きかけ潮(うしお) を送っていた。まるで天空に向かって飛び立つようであり、情熱溢れる愛という弦楽器を奏でる撥の旋律に合わせて回っていた。地球、月、諸星、人間などこの 世界に存在するすべてのものは回っている。すべてのものは回り、回って、さらに回り続ける。遥かかなたの的、聖メヴラーナに向かって、魔法の矢を放ってい た。サズ(弦楽器の一種)の不協和音のように、道を見出すことができずにさまよい憐れみの気持ちにも似たどこかしっくりしない音を、聖メヴラーナの心の聖 なる精神の息吹によって調律し、快音としたのである。

休 憩時間が終わり、再び旅路へと向かった。忠俊の目は、ガイドに注がれていた。彼のそばを通るガイドに、「もしお疲れでなければ、もう少しお話していただけ ませんか、お願いします」といった。もともとこの申し出を待ち構えていたガイドは、もう一度忠俊の隣の座り、「聖メヴラーナのどのような考えを伝えればよ ろしいですか」と尋ねながら、一方で、彼の脳裏に浮かんださまざまなメヴラーナについての情報を整理していた。

「どうか、ご存知のことはすべて教えてください、おねがいします」と言った。

ガイドは語り始めた。

「聖 メヴラーナは、タウヒード(アッラーの他に神はなし)の神秘によって、限りない寛容さを、生き方そのものでより分かりやすく示してきました。もともと、聖 メヴラーナの中のはっきりとした個性には、成熟さと美しさが備わっていました。彼が語ったとおり生きたこと、考えたことを行動で示したことはその現われで す。個性に関してあるお話を思い出しました。セマーの場で、聖メヴラーナは神の慈悲による歓喜の中で、セマーをしていました。突然、酒に酔ったキリスト教 徒がセマーの場に入ってきました。そして、酔ったまま、興奮状態で旋回し始めました。旋回しているときに、聖メヴラーナにぶつかってしまいました。このた め、聖メヴラーナの腹心の友たちは、その酔っ払いをなじり始めました。聖メヴラーナは、酔っ払いをなじる者たちにこのように説きました。

『酒 を彼は飲んでいるようだ。だが酔っているのは、あなた方のようだね』と。腹心の友たちは、その酔っ払いがどのような人かを知らせようとして、『彼はテルサ (キリスト教徒)です』といいました。すると、聖メヴラーナはテルサのもうひとつの意味の「恐がりや」をほのめかして、『彼が恐がりやならば、あなた方も そうですよ』と言い、友人たちの犯した過ちを、彼に謝ったそうです。聖メヴラーナの目には、誰であろうと、人間に映ります。彼にとって一番大切なのは、人 間であるということです。平の階層の人々も、高いランクの階層の人々も、みな人間です。彼はそのこと意外、全く気にかけません。逆に、民衆には特に大変慈 悲深く、孤独な人々にいつも心からやさしく接していました。

聖 メヴラーナは、ある日、温泉に行きました。息子のエミール・アーリム・チェレビーは、彼らより少し先に出発し浴場に着きました。聖メヴラーナと友たちがよ り快適に過ごせるようにと、お湯に入っていた人々をみんな外に出しました。そして湯船に赤や白のりんごをたくさん浮かべました。聖メヴラーナが中に入る と、浴場の脱衣場では、人々が急いで服を着替えていました。

『や あ、エミール・アーリムよ、この人々の命は、りんごよりも軽いものなのかね。だから、彼らを外へ追いやり、りんごで湯船を満たしたのかね。一人の命は、そ れらの三十倍以上もの価値があるのだよ。りんごだけでなく、世界のすべて、そしてその中に存在するものは、人間のためにあるのではないのかね。もしあなた が私のことをいとしく思うなら、みんなを全員、湯船に戻しなさい。貧しい人々も、裕福な人々も、力強い人々も、誰も外に放っておいてはなりません。そうす れば、私も知られざる客としてほっとして、お湯に入ることができようというものです。少しは休むことができようというものです』とおっしゃったそうです。 周りの者達や彼自身と共に立ち座りたい者たちが、王や司令官、裕福な人、著名人などであったにもかかわらず、聖メヴラーナは、より多くの時間を貧しい人々 や悲惨な状態にある人々と共に過ごし、彼らと深く親交を結んでいました。もともと弟子たちのほとんどが、一般には見下され軽視されるような人々だったそう です。弟子たちを批判する者たちに対して、聖メヴラーナの答えといえば、『私は弟子がすばらしい人間たちであったなら、私が彼らの弟子となったでしょう。 品性をより良くし、善い人間になり、善い行いをする者たちとなる手伝いをするために、彼らを弟子として受け入れたのです。アッラーの慈悲が現れた者たち は、救われました。しかし、神の慈悲から遠ざかった者、のろわれた者は治療を必要とする病人達です。このように私達はこれらの慈悲から遠ざかったもの達 に、慈悲をもたらす手伝いをするために、この世にやってきたのです』と語ったそうです。

『慈しみ深い心の高鳴りによって、人間すべてに、

絶望の館へ向かうことのないように、希望は存在する、

暗黒へ向かうことのないように、太陽は存在する』

と叫んだそうです。

  このような限りない愛情を備えた東洋の哲学と神秘主義の熟達者について、民衆に伝わった伝説の中で、『愛という言葉をきいたとたんに、私は私の命、私の 心、私の目を、この道で使い果たそうと考えた』とおっしゃったそうですが、それがすべてを物語っています。メヴラーナの作品を詳しく調べていくと、トル コ・イスラーム世界に見られる文化芸術、神秘主義が根強く見られます。歴史的分野でのメヴレヴィーの研究を、幅広く包括的に分析するならば、他の修行者た ちと同様メヴラーナも、その神秘を経験の中で追求していく方法をとったことがわかるでしょう。人間の欲望をひとつずつ消滅させ、最後に、ただ神を熱望する よう彼の魂を浄化させていきました。考えてみますれば、メヴラーナに見られる心的な真理とは、完全に神のためにのみ真実を探求することだけではなく、安心 と平安を失った魂に、安らかさを取り戻させ、その後で、情熱溢れる愛を見出させるというものです。神秘主義のきまりに従って、包括的に認識するのではな く、人生を生き抜く一個人としてメヴラーナを捉え、認め、理解する必要があります。このことも、情熱溢れる愛によってのみ、なしえることですね」

 

忠俊はメヴラーナの人生に興味を持ち始める

「聖メヴラーナの子供時代にもきっと思いもかけないことが起こったのでしょうね」

「このように高価な宝石は、その子供時代も、尋常ではなかったでしょう。彼の作品の中に時々出ていますが、アッタールが、そばのものに、彼の父親の後ろから歩く小さなジェラーレッディーンをさして、次のように語ったそうです。

『ひとつの大洋が、ひとつの海に従って、その後から歩いていきよる』と。アッタールのこの有名な言葉を、『一つの海が、一つの川の後ろを、歩いていきよる』という形で伝える者たちもいます」

「聖メヴラーナのお父上はどのような方でしたか」と忠俊はたずねた。

聖メヴラーナのお父上は、2、3歳のころ、彼の母親が彼の手を取り、もう既に亡くなっていた彼の父親(メ ヴラーナの祖父)の図書室へ連れて行き、『これらの本を読み、知識人(学者)になるために、あなたのお父さんには私が与えられました。あなたも、これらを 読まなければなりませんよ』といったそうです。このように、知識の連鎖は継承されていきました。聖メヴラーナの父は「学者達の王」の地位を得たことで有名 なバハーエッディーン・ヴェレド・ビン・フセイン・ビン・ハーティブであり、バルフで生まれ、そこに祖先を持つ家系の方です。

バ ハーエッディーンは、バルフの街では知識のある高徳な人として知られていました。その当時、バルフの街はイスラーム、キリスト教、ゾロアスター教、仏教、 さらにギリシャ思想なども入り混じり活気を帯びていました。当時の最先端の知識、芸術が栄え、タリーカの中心地のひとつでもありました。

イスラームに反する信仰、捉え方であるムータズィラ派についての議論がなされていました。ギリシャ哲学者たちの作品を愛読する一部のイスラーム学者たちは、イスラームの信仰とイスラームに反する信仰の意見の一致を試みていました。

誠 実で敬虔なムスリムであるセルジューク朝の統治者たちは、スンナ派の知識人たちを大変優遇し、目前で宗教の解説の講義を行わせていましたが、バルフではハ リズム・シャーフラルが、彼の国で西洋での信仰について討論をしていました。ハリズム・シャーフラルはこの哲学の流れに心を奪われ、彼らのように考えない 人々を気に入りませんでした。聖メヴラーナの父バハーエッディーン・ヴェレドはこの考え方、捉え方と信条に対し、強く反対していました。ギリシャ哲学を取 り入れたファフリ・ラーズィーと彼に従うハリズム・シャーフラルの考えを否定しました。『教育』という作品の中で、『預言者の道より正しい道を、私は知ら ない』とおっしゃっています。

人 々に宗教の真実の教えを簡単な言葉で伝え、哲学的論争を極力避けていました。弟子たちに対しても、友人のように振る舞いっていました。メヴラーナ・ジェ ラーレッディーンが5歳になったころ、父親はバルフから移動しなければならなくなりました。この移動の理由として、バハーエッディーンがハリズム・シャー フラルによって、ムハンマド・テキシュとの関係を悪化させられたことがあげられます。バハーエッディーンは、哲学者たちを厳しく諭し、彼らは、イスラーム の教えから逸脱したビドアであると断定し、それは罪であると説きました。その当時の哲学者で宗教学者の一人でもあったファフレッディーン・ラーズィーはこ の振る舞いに怒りを表しました。統治者に強い影響力を持ち、彼の尊敬を得て、尊重されていたので、彼をバハーエッディーンにはむかうように仕向け、彼を遠 ざけました。このため、バハーエッディーンは、母国を去らなければならなくなりました。移動の理由として示されるこの出来事は、歴史的には正しくないとも 言われています。『ファフレッディーン・ラーズィーが、その時バレフで生きていたという明確な資料が見当たらない』といわれ、ラーズィーは移動する3年前 に亡くなっていたとも、言われています。移動を余儀なくさせた本当の理由は、モンゴルの侵入であったという説もあります。また、私にとって興味深いと思う 出来事も伝えられています。それはこのようです。バルフに住んでいた学者たちがある夜、夢の中で別々に聖預言者の夢を見たそうです。聖預言者は彼らに、 『バハーエッディーン・ヴェレドをスルタヌルウレマー(学者たちの王)と呼ぶように』と、おっしゃられました。次の日の朝みんながバハーエッディーン・ ヴェレドの家にやってきて、見た夢のことを伝えました。するとお互いが知らないうちに同じ夢をそれぞれが見たことがわかりました。バハーエッディーン・ ヴェレドも実は同じ夢を見ていました。その日以後、バハーエッディーン・ヴェレドはスルタヌルウレマーと呼ばれるようになりました。このことによって、バ ルフでもいごこちが悪くなってため移動をしたと伝えられています」

事 実、スルターン・ヴェレドの『初歩』(アブティダーナーメ)の中にも、祖父が移動した時、バルフはモンゴルによって占領されたという情報が残されていま す。バハーエッディーン・ヴェレドは1212年又は1213年にバルフから家族たちと共に離れました。巡礼に行くと意思表示をしたため、バグダードに向 かって出かけました。モッラ・ジャーミィの『友たちの講義』(ネファアトウルウンス)の叙述に従えば、ニーシャープールの街に到着したとき、彼らの民族が 何で、どこから来てどこへ行くのか尋ねた護衛の者に、『アッラーから来て、アッラーに向かっています。アッラーの他に権能も力も所有するものはおられませ ん』と意味深長な答えをなさったそうです。この言葉がシェイフ・シェハベッティーン・スフレヴェルディーにと届くと、『この言葉をバルフのバハーエッ ディーンのほか語るものはおるまい』といい、彼のそばに駆け寄っていきました。出会うと、すぐ馬から下りて、丁寧にバハーエッディーン・ヴェレドのひざに 口づけし、心からの敬意を表しました。そして修行場に招待しました。しかし、バハーエッディーン・ヴェレドは、『知識人たちが、そのメドレセにはふさわし い』とおっしゃり、その招待を受け入れませんでした。カリフの贈り物として贈られた3千エジプトディナールも『非合法のうたがいがある』といって受け取ら なかったこと言われています。

  バハーエッディーンの名を聞いたシェイフ・ファリドゥッディーン・アッタールも、彼に会いに来ました。メヴラーナは、その時まだ子供でした。アッタールは メヴラーナの額(額には運命が記されていると伝えられる)に完璧さを発見し、彼に『エスラールナーメ』という本を贈り、父親のバハーエッディーンに、『近 い将来、あなたの息子は世界中の心に火を燈すことであろう。彼らは身も心も焼き尽くすであろう』と語りました。メヴラーナは、それからというもの『エス ラールナーメ』という本を、肌身離さず持ち歩きました。その本の幾つかのお話は、『メスネヴィー』にも引用されています」

「思い出しましたか、忠俊さん、少し前にお話しましたね。ええと、『ひとつの大洋が、ひとつの海に従って、その後から歩いていきよる』とおっしゃられた方です」

「もちろんです、とても注意して聞いていました。あなたがお話になると、本当に驚きが増してきます。どうかお続けください」

「巡礼の義務を果たした後、その帰りにダマスカスに立ち寄りました。そこで、シェイフ・エクベル・ムフィッディーン・イブン・アラビーと出会いました。

ダマスカスに立ち寄って後、そこからエルズィンジャンに、エルジンジャンからアクシェヒルに行きました。アクシェヒルの後でカラマン(ラレンデ)へ行きました。ラデンデで七年間すみました。

こ の時18歳になったメヴラーナ・ジェラーレッディーンは、街の名士、サマルカンド出身のホジャ・ラーラ・シェラフェッティーンの娘ゲヴへル・ハートゥンと 結婚しました。この結婚によってスルターン・ヴェレドで思い出されるメフメド・バハーエッディーンとアラエディーン・メフメドが生まれました」

「メヴラーナには2二人息子さんがいらっしゃるのですか」

「メ ヴラーナの最初の妻であるゲヴヘル・ハートゥンが亡くなると、コンヤで、二番目の妻となったゲッラ・ハートゥンと結婚しました。彼女からムザッフェレッ ディーン・アーリム・チェレビーという名の息子とファトゥマ・メリケ・ハートゥンという娘が生まれました。メヴラーナの血を継ぐチェレビーたちは、通常 は、スルターン・ヴェレドの息子フェリドゥン・ウル・アーリフ・チェレビーの子孫たちです。メリケ・ハートゥンの子孫たちはメヴレヴィーの間ではイナス・ チェレビーとして思い起こされます」

「そうですか、メヴラーナはコンヤへどのようにやってきたのでしょうか」

「メ ヴラーナがコンヤにやってきたのは、当時の統治者アラーエッディーン・ケイクバートが、バハーエッディーンの名声を聞いて彼をコンヤに招待したことにより ます。彼は途中の道まで出迎えにいき、大いなる敬意を払い街へおつれしました。アルツナパ・メドレセの客人としました。コンヤの人々はバハーエッディー ン・ヴェレドを愛情満ちた歓声によって出迎えました。説教にも注意深く耳を傾けました。統治者も彼を議会に招待し尊敬を表しました。

宮殿の役人たち、軍人の名士たちはみなバハーエッディーン・ヴェレドに堅く結びつき、従いました。つまり、弟子となりました。聖メヴラーナのコンヤに定住することに関して面白い解釈があります。

『い と高き真の主は、アナトリアの民へ大いなる恵みを与え給いました。そしてまた、誠実なるアブー・バクルのドゥアーによって、この民は、共同体の中で最も慈 悲を受けるのにふさわしい者たちの一員となりました。最もよい国は、アナトリアの国です。しかしこの国の人々は、真の所有者アッラーの愛の世界と心の喜び を知りません。全ての根源であられる真の創造者は、すばらしい恵みをお与え下さいました。原因のない世界に、原因を創り、私たちをホラサーンの国からアナ トリアの地域に連れてこられました。私たちの任命地をこの清らかな土に、そしてここに住む場所をお与えくださいました。神の神秘によって、金を作ることの できる薬を、彼らの銅のような体にふりかけましょう。そして彼らを完璧に変化させ、彼らが知識の世界のくすりとなり、この世の知識人たちの腹心の友とりま すように』と語ったそうです。

バ ハーエッディーンがコンヤに引っ越した時に関しては、いろいろな説があります。この間は、2年から10年差があります。亡くなったのは1231年です。葬 儀にはコンヤすべての人々、国の名士たちが参加しました。統治者は、1週間王座に付かず、さまざまなモスクでは貧しい人々に食事が配られました。バハー エッディーン・ヴェレドが亡くなったとき、メヴラーナ・ジェラーレッディーンは24歳でした。弟子たちの懇願を受け入れました。幾つかの資料を父親の遺言 とみなし、さらにスルターン・アラーエッディーンの強い望みによって、彼の役目を継承しました。

 

メヴラーナのセルジューク朝社会への影響

「聖 メヴラーナが生きた時代には、モンゴル人たちから逃走した数多くのトルコ人たちが安全な場所とみなしてアナトリアへ続々と入ってきました。アナトリアの重 要な町々には、モンゴルの侵略から逃げた知識人たち、神秘主義者達、イランの詩人たちまでが避難していました。この時代にペルシア語とその文化が、アナト リアに力強い威力をもち浸透していった理由は、知識人たち、統治者たち、商人たち、芸術家達、イランから来た数多くの者たちが、母国に抵抗し、アナトリア へ移動するときに多くのペルシア語の作品をも運んできたことによります。そして民衆たちと仲良くし親交を深めたこと、セルジューク朝のスルターンたちが、 ペルシア語を国の公用語として承認したことが、アナトリアでのペルシア文化の浸透の深さの理由です。

  聖メヴラーナは、家族と共にセルジューク朝の首都にやってきた時は、まだコンヤが知識、学問、そして芸術の中心地でした。知識人の集中した地域として世界 にもその名を馳せていました。アナトリア・セルジューク朝の長は、イクバール時代のスルターンであるアラーエッディーン・ケイクバート・1 世でした。スルターンであった時代は、非常に短かったのも関わらず、宗教、知識、芸術、学者達に大変敬意を払い、重要視した偉大なトルコの統治者の一人で した。その後、十字軍の侵略によって、破壊され、崩壊し、人々には刀が向けられました。略奪されたイスラームの国々は、今度はモンゴルの襲撃によって破壊 され崩壊しました。一方、セルジューク朝の統治者たちの間では、皇位継承問題による内戦、反乱、王子たちの争いによって、その権威を失いつつありました。 このようにメヴラーナは、セルジューク朝のもっとも混乱した不穏な時代である13世紀に生きた方でした。困難な時代の人々の生活にとって、メヴラーナは癒 しの源となったのです。信仰とアッラーヘの情熱溢れる愛によって、信仰者たちの恐怖と不安から救い出しました。コンヤの人々は、メヴラーナによって、生き ぬいたといっても過言ではありません。メヴラーナは、政治的にも、思想においても、宗教的にも最も混乱した時期に、ムハンマド(s)の道を完璧に歩みなが ら、有言実行しました。信仰に関しても、信じたことを実践しながら生き、魂には神の喜び、心には居心地のよい平安を与える意味深長な数々の詩を語り始めま した。政治的混乱、社会的不安にもかかわらず、これらを詩の中では、語りませんでした。

メ ヴラーナの深い寛容さと平和を望む態度は、モンゴル人たちと親交を持っていると疑われることもあるほどでした。このようにふさわしからざることを述べる者 たちへ、最後のメスネヴィーの館のシェイフ、シェフィク・ジャンは、『聖メヴラーナは、神の近しき友(ワリー)でありました。神の近しき友たちは、国が占 領され荒廃する事を大変悲しく思いましたが、彼らは神への熱き愛で心が満たされていました。クルアーンでも、『神の友たちは何事も恐れない、何事とも親密 にはならない』と言及されています。モンゴル人たちと親交を結んでいたという事実は、歴史的資料にはみあたりません。ですから、それは想像の域を出ませ ん。メヴラーナは、このことに一切関係がありません。メヴラーナも、『私はあれやこれやについてしらぬ。ただ神への情熱溢れる愛の酒杯によって酔いしれる ものである』と語ったそうです。神の近しき友は、どのようなできごとも神の顕現であり、真の主の意図なく、一匹のハエの羽をばたばたと動かすこともできな いことを知っていました。このため、何が起こってもすべて、『神に誓って、これは真の主の顕現である』といい、その意図を肯定的に捉え、不平を言うことは ありませんでした。

同 時に、中央アジアとデデシュティ、クプチャクのウイグルやカスピ海の国々を支配下におさめ、シャーマニズム、仏教、マニ教、キリスト教、ユダヤ教、イス ラームの集団が共存し和平を保ちながら過ごさせる事のできたトルコ人たちは、新たに勝利し得たアナトリアにおいても、さまざまな宗教宗派に属する人々を、 平等に、寛大に、安全を保障しながら統治しました。メヴラーナのような偉大な神秘主義思想家たちによって、宗教的寛大さと人間の高貴な品性が生まれたこ と、さまざまな宗教、宗派に属する人々でも呼び招きいれたこと、アナトリア・セルジュ-ク・トルコの独特な社会文化の雰囲気が生まれたことは当然の結果 だったともいえます。ムフイッディーン・イブン・アラビーが、深遠で広大であるけれども、閉鎖的考え方のためにほとんどの国で不信仰としてみなされたにも かかわらず、コンヤではもっとも高い評価が与えられ、その考え方や捉え方は神秘主義思想の修行者たちに多大な影響を与えました。

ア ナトリアに庇護を求めてやってきた学者たちや神秘主義思想家たちは、戦争の音を間近に聞きながら、その影響を強く受けながらも、沈黙を守り生活していまし た。同世紀、イスラーム世界は、イブン・アラビーのような学識者たち、イベリア半島から東へ移動し、十字軍の弾圧とその影響下で、戦争中を生きて抜いてい ました。このため、彼らの考え方の多くには、復讐という気持ちが色濃く現れていました。東からやってきた者たちには、この考え方や感じ方はありませんでし た。

ア ナトリアの東方からやってきた学者たち、いえ神秘主義の思想家たちは、静かさと平安を保つために、民衆に適合し、彼らとよい関係を保つように薦めました。 メヴラーナに定着したと思われる熟考は、このような関係の結果生まれたもので、修行者ルミーズィーラ・ウルケンが、『トルコ人の熟考の歴史』という著作の 中で、『もしメヴラーナがバルフにのこっていたなら、彼は今日の名声は得ることはなかったであろう』と述べています。

結 論として、少し前にお話したように、メヴラーナのアナトリア・セルジューク朝の人々への肯定的影響は多大でした。戦争や反乱やモンゴル人たちの弾圧と破壊 による大混乱の状況の中で、人々はみな人生に嫌気がさし、生きることにもあきあきしてしまうほど悲惨な時代に、メヴラーナは、かの世界から得た永遠の力と 霊感によって語り続け、神の力を顕現したさまざまな詩によって、希望を失った者たちに希望を齎しました。困難に陥った、悲惨な人々の癒しの源となりまし た。情熱溢れる愛と信仰によって、信仰者たちをおそれと不安から救いました。物質的混乱の中にうめいている魂たちが、陥った精神的沈下に対して心を癒す医 師として、優れた方法を示しました。この希望という知や情報によって、セルジューク朝の首都コンヤとその周辺に光を放ち、非常に高知識を持つ人々を育てま した。知識的にも、精神的にもセルジューク朝の国への影響は、次第に強力なり、大きな支えとなりました。

神 秘主義の歴史において、もっとも有名な名であり、真の主へ情熱溢れる愛を捧げたもっともよい模範としての聖メヴラーナは、2つの世界(この世とあの世)で も、その偉大さを示しました。オスマン時代が6百年間続いた基礎を築き上げました。『メスネヴィー』を読み、又は読ませることが、オスマン文化の一部とな りました。

『メ スネヴィー』を読むことは「メスネヴィーの館」の役割を受け持つ者たちによって、代々受け継がれてきました。説教者たちは以前、クルアーンの節とハディー スを繰り返してから、『メスネヴィー』の一節を読み上げました。これが、通常のやり方でした。共同体の人々は、説教者がこのように読むことを望んでいまし た。この思想は、集団の基礎から政府の役人にいたるまで広がりを見せました。

 

勉学を続けるためアレッポとダマスカスに行く

忠俊は、「彼の人生について、説明してくださっていました。彼の父親の地位についた後、どうなりましたか、教えてくださいますか」

「一 年間、父親の跡をついで、父と同じように解説や説教をしていました。以前から父の弟子であったティルミズィー・セイイド・ブルハーネッディーン・ムハッキ クと出会うまで、完全にシャリーア(イスラーム法)の伝達者として、シャリーアの法に従うよう努めていました。シェイフがコンヤにいらっしゃることを知っ たブルハーネッディーンは、彼にお会いするためのコンヤへやってきました。しかし到着した後で、シェイフはもう既にこの世の人ではなく、その役目を息子が 継いでいるのを知りました。スルターン・ヴェレドの『初歩』という著作の中で、ブルハーネッディーンは、メヴラーナをさまざまな知識によって試したことが 描かれています。知識の面は、父親と同レベルまで高まったことを知りました。

こ れに対して、『知識において、あなたに比類するものはおらぬ、選りすぐりのお方であられる。しかし、父上は心的状態(ハール)を獲得した方であられた。あ なたも言葉(カール)を捨て置き、心的境地を得る人になられるように。このために努め、その相続者となられるように。そして太陽のように世界を明るく輝か すように』と述べたと記しています。このため、ジェラーレッディーンはセイイド・ブルハーネッディーンの弟子となり、9年間つまりセイイドが亡くなる 1241年まで、彼の導きによって、彼の道に従い、学び続けました。

メ ヴラーナの心的境地の変化を描いたアフメド・エフラーキーは、この9年間、中途半端になっていた学問を習得し完璧なものとするため、メヴラーナがアレッポ とダマスカスに行き、ハァラヴィヤェ・メドレセでイスラーム法と解説と方法論に関する知識をその道の一人者である学者アディムオウル・ケマレッディーンか ら学んだと記しています。メヴラーナは、アレッポでの学習を終えた後、ダマスカスに行きました。そこで、知識をより詳細に探求するために、4年間過ごしま した。この期間中、ダマスカスの学者たちと知り合いになり、彼らと話し合うこともしばしばありました。

 

シェムス・テブリーズィーとの初めての出会い

エ フラーキーによれば、メヴラーナはダマスカスでシェムセッディーン・テブリーズィー(シャムスッディーン・タブリーズィー)と会ったことになっています。 この出会いは非常に短時間であり、次のように伝えられています。シェムセッディーン・テブリーズィーは、ある日人々の渦巻く中でメヴラーナの手をつかみ口 付けし、彼に、「この世の宝石商よ、汝を知れ」といい、姿を消しました。この一瞬の出会いの8年後、シェムスはコンヤを訪れ、思う存分話しあうことと相成 りました」

「メヴラーナはダマスカスから、いつコンヤに戻りましたか」

「失 礼いたしました、忠俊さん。もしあなたが思い出させてくださらなかったら、彼の生涯を途中までしかお話していなかったことを忘れて、二度目のシェムスとの 出会いに話が飛んでしまうところでした。とてもあなたは注意深いですね、ありがとうございます。さて、メヴラーナはコンヤに立ち寄り、カイセリへ行きまし た。カイセリでは、数多くの学者たちや知識人たちと会いました。イスファハーン出身のサーヒプ・シェムセッディーンはメヴラーナに自分のところで宿泊して いただきたかったようですが、『父上バハーエッディーンに倣って、メドレセに留まります』といって、申し出を断りました。言い伝えるところによれば、この ころ、セイイド・ブルハーネッディーンの教えに従い、自我消滅の訓練をはじめました。次々に3つの修行があります。つまり3回40日ずつ、食事を控え、眠 りを控え、時のすべてを崇拝行為に費やしながら、自我を消滅させます。3回目の修行の最後に、セイイド・ブルハーネッディーンは、メヴラーナを抱き、口付 けしました。称讃して、『あらゆる知識において比類なき人よ、預言者たち神の近しき友たちが、指し示す人間となりましたね。「アッラーの御名によって」歩 みなさい、人間たちの魂に新たな人生を、そして無限の慈悲で満たしなさい、この方法で世界中の死人たちを自分自身の精神と情熱溢れる愛によって生き返らせ なさい』といい、彼に伝道の役目を与えました。

この後、メヴラーナは「アッラーの道を示し、そして教えるという位階」へのぼりました。

言い伝えによると、400人の生徒と12000人の弟子がいたそうです。

  ある伝承によれば、その後しばらくして、セイイド・ブルハーネッディーンが、メヴラーナにカイセルに行きたいと申し出たのですが、彼は許可しませんでし た。しかし、ブルハーネッディーンは、メヴラーナに事の次第を告げずに出かけました。道中、馬の足が滑ったため、落馬し足を怪我してしまいました。そのた め、コンヤに戻ってきました。メヴラーナになぜ許可をくれなかったのかを問いました。すると、彼もまたなぜ行きたがっているのかを尋ね返しました。これに 対して、ブルハーネッディーンは、『ここで、一匹の力強いライオンが向かってきました。私も宗教においてライオンの一匹です。私たちは一緒にすごすことは できませんよ』と言いました。このため、メヴラーナは師に許しを与えました。そしてブルハーネッディーンは、カイセルに去っていきました。しばらくして、 イスファハーン出身のサーヒプ・シェムセッディーンは、セイイド・ブルハーネッディーンがカイセルで亡くなったと告げました。カイセルに向かったメヴラー ナは、セイイドの本を何冊かと書簡集を手にしました。これらの何冊かをサーヒプ・シェムセッディーンに贈りました。メヴラーナはセイイドを忘れることはあ りませんでした。後に、時折『メスネヴィー』の中で、彼の思い出を語っていますし、『ルーミー語録』(フィーヒ・マーフィーヒ)という作品でも、彼につい て叙述しています。

セイイドの死(1244年)後、5年間、彼は孤独に過ごしました。この間、ずっと彼は説教や伝道のために働きました。そして、イスラーム法や宗教的知識などをメドレセで教えました。

す べての時間を宗教の授業や知識の教授に費やす一方で、夜となく昼となくこの世の願望や欲望を捨て、任意の礼拝や斎戒などの崇拝行為に専心しました。心の中 は燃えつづけ、アッラーの御前で、ひそかに神に近づき、乞い願いながら過ごしました。毎夜、自らを完成の域に達せさせ、アッラーのみ専心するか、偉大な神 の友たちの一人と話し合いの機会を得られるように願い祈りました。さて、このような祈りの結果として、いと高きアッラーは、彼に、『すべての事には定まっ た時がある』と言う条件の下、約束し給いました。いと高きアッラーは、シェムスという太陽のような光と寛大さが大洪水のようにメヴラーナに押し寄せ、彼の 心に彼が存することを許し給い、よどんだ海を大嵐によって、満ち溢れる大海へと変え給いました。完成された、アッラーに到達した人間に会うために、数々の 旅を続けたことによって、「飛び回る太陽」と言う異名があるシェムセッディーン・ムハンマド・テブリーズィーは、本来到達したかった場所がコンヤであると 知らずに、旅をし続けたのでした。メヴラーナのモスクとメドレセの間を行き来する規則正しい生活は、砂糖商人たちの宿に泊まった旅人生を送る修行者(スー フィー)の到来によって崩されました。

こ の修行者とは、まさにテブリーズィー出身のシェムスという名で知られたシェムセッディーン・ムハンマド・テブリーズィーでした。メヴラーナのように、シェ ムスも自分自身が到達した精神的位階に満足していなかったため、完成された師を捜し求めて旅に出ました。何年間も、それこそ、力が尽きるまでいたるところ をさまよい歩きました。そして、当時の知識人たちの多くの方に、出会いました。これらの知識人たちは、精神世界を飛び回るシェムスを示唆するように「飛び 回る太陽」と彼を呼びました。シェムスは、子供時代から思考や精神から自由に開放された修行者であり、自分自身を乗り越え、神を熱愛することに命をかけ生 きていた人でした。シェムスは己の魂を安らかにさせる真の主の友を見出すことができずにいました。いつも自分と同位階で話し合える友を捜し求める完成され た神の友の一人でした。

心 を燃え焦がすような自分と対話できる友、対話に耐えきれる友を探すシェムスの手探りの作業は、ある夜、突然消え去りました。彼は興奮していました。アッ ラーに向かい、われを忘れるほど専心して祈りに祈りました。『わがアッラーよ、ご自身を隠されたあなたが、愛で給うものの一人を私にお示しくださるよう懇 願いたします』と、祈りました。アッラーが望まれたものとは、アナトリア地方に住むバルフ出身のスルタヌルウレマーの息子であることを、霊感によって知り ました。この霊感に基づき、シェムスはコンヤに1244年11月29日土曜日の朝やってきたのです。

こ の話の元はアブーバクル・サラバフなのか、ネジュムッディーンなのか、さもなければルクヌッディーン・サジャスなのか、どの修行者によるものかは、明らか ではありません。ともかく、コンヤ人やってきたシェムスは先ほど記した宿に泊まりました。宿の前には、多くの偉大な人々が座る美しく装飾された長いすが あったので、そこに座りました。聖メヴラーナには神の友が放つ光によって、シェムスがやってきたことがわかりました。聖なる宿から出て、その光に導かれて 高原の方向へ歩き始めました。道の途中では、民たちが彼の手に口づけするために、集まってきて周りを取り囲みました。彼はみんなの頭を一人一撫ぜ、彼らの 心を満たしました。その時、突然視界に現れたシェムス・テブリーズィーの姿は、聖メヴラーナを驚かせました。夢で自分自身に知らされた聖なる方が、この方 であると理解したからです。何も語ることはしませんでした。シェムスの向かい側の長いすに座りました。一瞬沈黙し、その後で、かの有名な対話が始まりまし た。メヴラーナがシェムスとであった状況に関しては、さまざまな聖者伝説があります。それらの幾つかは、メヴラーナがシェムスと街で出会ったと言い伝えて おり、また他のものによれば、シェムスがメヴラーナの演説集会の場所にやってきて、そこで出会ったと伝えています。このことについて、そのほかの知識人の 調べたところによれば、シェムスは『マラカート』と言う著作の中で、『わが主よ、私を真の友と会わせてください』と祈りました。その夜、夢で彼自身に、 『あなたに完成した者の一人を話し相手として与えましょう』といわれたそうです。シェムスは、『その方はどこにいらっしゃいますか』と尋ねると、次の夜、 再び夢でルームの国にいると知らされたそうです。彼は長期間探し求め、調べた後、コンヤへやってきて、とうとうメヴラーナを見出し、出会うことができたそ うです。メヴラーナとシェムスが初めて出会った時、交わされた会話は大変有名です。アフメド・エフラーキーの伝承によれば、メヴラーナがイプリクチェ・メ ドレセから戻る途中、偶然道で出会ったシェムスが、馬の手綱を持ったまま、『知識人の中の知識人よ、ムハンマドが偉大であるか、それともバヤーズィード・ バスターミーか』と尋ねたそうです。メヴラーナは、『これはいかなる問いであることよ、聖ムハンマドは、最後の預言者であられる。さて、バヤーズィードと いう言葉を、貴殿はどのように思いつかれたのであろうか』と言いました。これに対して、シェムスは、『よろしい、最後の預言者であられる聖ムハンマド (s)が、「私の心はさび付いてしまう。このため主に私は1日70回許しを請う」とおっしゃられたのに対し、バヤーズィードは、「われは完璧であり、罪か らは程遠い、わが遺体にはアッラーのみが存在する」とおおせられた。これはいかに』とたずねまた。この問いに対して、メヴラーナは次のように答えました。 『聖預言者ムハンマド(s)は1日に70回もの位階を超えられました。各々の段階で、それぞれの位階に到達するたびごとに、一つ前の段階、位階で得た(未 熟な)知識のため、彼は神に許しを請うたのです。バヤーズィードに関しては、彼が到達した一つの位階のすばらしさ、偉大さを知ったために、われを忘れて、 かの言葉をおっしゃられたのです』

この問答の後、二人の神の友たちは、深く抱き合いました。知識人たちは、この出会いの場所へ「二つの海が出会った場所」と言う意味のメレジェエル・バハレインという名をつけました。このときシェムスは60歳、メヴラーナは38歳であったと言われています。

メ ヴラーナとシェムスはそこから、ひととき共に住むことになったサラーハッディーン・ゼルクーブの小房へと行きました。二人の神に愛で給われた者たちは、し ばらくの間、それぞれ一人になり部屋の隅へ退き、自分自身を完全にアッラーに向け、彼らの心に宿った霊感によって対話を始めました。

  スルターン・ヴェレドが語るには、『突然シェムスがやってきて、彼をとらえました。愛(め)でられた状態とは何かを教えました。このように神秘的偉大さの 中で、偉大さのその頂点にたどり着きました。シェムスはメヴラーナを驚くべき世界へと呼び招きました。なんともいえないすばらしい世界に達したのです。そ こは、トルコ人もアラブ人も見たこともない世界で、神に愛で給われる者たちの終着駅といえます。世界には、この神の愛を得た者たちの終着駅について、何も 情報を持っていない方々がいます。この終着駅に存在する人々の状態を見ることも知ることもできません。テブリーズィー・シェムセッディーンが現れ、メヴ ラーナ・ジェラーレッディーンを情熱溢れる愛と人間としての完成した段階から、これまでメヴラーナが感じたことのない神の愛(め)で給う人々の終着駅へと さらに上らせたのです。実際のところ、メヴラーナは、以前から神に愛で給われた者たちの住む海の輝く真珠でありました。『すべては回り、その本質は回帰で ある』と言い伝えられています。他の方々が、周囲を外側から見るのに対して、メヴラーナは中側から見始めました。情熱溢れる愛の中で、さらに頂点に位置す る愛を見出したのでした。シェムスとコンヤで出会ったとき、すでに完璧に完成された人格を備えておりました。愛する者を思慕する気持ちと共に、シェムスと いう閃光によって、火を付けられたメヴラーナは、思索の大海を燃え上がらせました。燃え上がった大海の炎、煙、叫び声、旋回、音楽を何世紀後の今でも見る ことができます。メヴラーナはこう語ります、『心を奪い持ち去る精神的美しさを備えた者たちは、恋焦がれる者たちを、命を懸けて一心に捜し求める。愛され る者たちはみな、愛する者たちを虜にする。誰か愛する者を見出したなら、彼は愛される者であると知れ、なぜなら、彼は愛する者でありながら、同時に愛され る者によって愛されるという点で、愛される者となるから。喉の渇いた者たちは、この世界で水を探し回るが、しかし、水もまたのどの渇いたものを探してい る』と。

資 料に基づくと、シェムスとメヴラーナの二人だけの隠遁生活は、40日から60日間であったといわれています。この会見後、メヴラーナの人生の中で、大変化 が起こりました。もうメドレセで授業をすることもなく、モスクで説教することもなくなりました。弟子たちも完全に遠ざけました。シェムス以外誰とも会わな くなりました。シェムスがやってくるまで、よく読んでいた父の『知識の書』(マーリフ)と言う名の本さえ手にしなくなりました。メヴラーナの妻ゲッラ・ ハートゥンは、シェムスが来る前、メヴラーナは人の背丈ほどあるろうそくの下で、明け方まで父の書いた『知識の書』という本を読んでいたと伝えています。 実のところ、シェムスはメヴラーナに父の本に限らず、さまざまな本を読ませていなかったようです。なぜなら、シェムスは、忘れ去られ、人間に重荷となり、 人間の自我をさらに増長させてしまう知識ではなく、「心の知」つまり神を感じる喜びとアッラーを想い、アッラーの愛によって自我を消滅させた状態に至るこ とを重視していました。「心の知」は、諸本からは学ぶことができません。人間は6千年生きたとしても、何10万年も学び続けたとしても、アッラーと共にい る一瞬から感じえる喜びを学ぶことはできません。『それらは同一ではない』(マラカート、初版P141)と考えていました。この様に、シェムスはメヴラー ナが大変好んだことから離れさせ、もともとアッラーに近しかった彼を、よりアッラーの近づけさせようと望んだのです。このようなわけで、読書をほとんど禁 止していました。それだけでなく、誰とも会わせませんでした。メドレセの扉のところに座り、メヴラーナに会いたいと望む者たちに、

『お願いするために、そして感謝を表すために、あなたは何を持参なさいましたか、それを教えてください。そうすれば、メヴラーナも現れましょう』と言ったそうです。

ある日、その中の一人が、この風変わりな男に怒りをあらわにし、『あなたは、何を持ってきたのですか。われわれから何を望んでいるのですか』と尋ねると、シェムスは、『私は、私自身を持参いたしました。私のすべてを彼の道に捧げました』と答えたそうです。

シェムスが、メヴラーナにこれほど近しく彼を虜にしたことは、民衆と彼の親友たちを悲しませました。ほとんどの者が、彼らの愛と絆の強さを妬みました。弟子たちの間にも、不満の声が上がりました。

  スルターン・ヴェレドの『イブティダナーメ』の中に記されているとおり、この修行者がどこからやってきたのか素性も分からぬことから、この何者とも分から ぬ輩よりも彼ら自身はより価値があると思いました。師との絆が完全に切れてしまったと、その時彼らは考えていたようです。さらに過激な者たちの中には、 シェムスの死を望んでいた者もいます。このことに心を痛めたシェムスは、ある日メヴラーナに、『これが、なんじとわれの別れなり』と言う意味のクルアーン の一節を読み、突然消え去ったそうです。(1245年)しかし、この別れは、みんなが待ち望んでいた結果を齎しませんでした。メヴラーナは、よりシェムス に対し熱狂的になり、彼との別れによって意気消沈してしまいました。彼を追慕し、情熱溢れる愛のこもった抒情詩を書いたり、熱き愛に埋没し、セマーをした りしていました。

し ばらく後で、シェムスがダマスカスにいると言う情報をえました。エフラーキーの伝えるところによると、メヴラーナはシェムスが戻ってくることを確信したい がために、彼に四行詩を贈りました。この間にも、メヴラーナと接触をもてなかった弟子たちは、この状況を悲しく残念に思い、赦しを乞いました。このため シェムスを連れ戻すために、メヴラーナの息子スルターン・ヴェレドをダマスカスへ送りました。メヴラーナの手紙とスルターン・ヴェレドの言葉による望みに 対して、『ムハンマド(s)のようなお振る舞いと高徳を備えたメヴラーナが願うだけでじゅうぶんである。彼の言葉と暗示から如何に逃れることができよう か』と言い、コンヤへ戻ることを受け入れました」

 

シェムス、再びコンヤへ

「シェ ムスは1246年にスルターン・ヴェレドと共に出発しました。スルターン・ヴェレドは旅の間ずっとシェムスの後ろから歩いていきました。コンヤに近づく と、父に吉報を伝える者を送りました。メヴラーナは、吉報を齎した者に、着ていた長い衣服とか巻いていたターバンを贈り物として与えました。シェムスがコ ンヤに到着すると、彼の後ろに集まった者たちは、みな彼に謝り、彼から赦しを乞いました。シェムスは、みんなを赦しました。シェムスの誉れを讃えるための 宴会が催されました。再びセマーの集会場を整え、メヴラーナとシェムスの隠遁生活が以前と同じように始まりましたが、この状態は長くは続きませんでした。 修行者たちは、シェムスをメヴラーナからまた遠ざけようとし始めました。メヴラーナが『メスネヴィー』の中で、明らかに『敬意も道徳も持たぬ者たちが、ま たその品性を失いつつある。不信仰、嫉妬の種を捲いたようだ』と語っています。弟子たちとコンヤの民衆が陰口を言い始め、不満足をあらわにし始めました。 シェムスを性悪と呼び、メヴラーナを狂人と呼ぶようになりました。人々がメヴラーナに対し怒りを増幅していった原因は、シェムスがやってきてからというも の、彼が授業も説教もしなくなったこと、旋回と踊りを始めたこと、法学者にふさわしい服装を脱ぎすて、インド風の雑色のヒルカ(おおい)と蜂蜜色のとんが り帽を身に付け始めたことなどさまざまです。この時シェムスに反対し集まった者の中には、メヴラーナの次男のアラーエッディーン・チェレビーがいました。 シェムスはこのことを大変悲しみ、彼の忍耐も尽き果てました。シェムスは、不幸にも集まって陰口を言う人々が再び恨みを抱き、彼らの心から愛が飛び去って しまった人々が、自我に打ち負かされてしまったことを理解し、自らが再び去る時がきたことを知ったのでした。スルターン・ヴェレドが『イブティダナーメ』 の中で記したところによれば、シェムスは自分自身に向かって『さあご覧の通り、追いはぎたちが、また集まり始めたようじゃのう。比類なき知識を備え、愛す る者たちを真実へ至らせるかのお方の御前から、われをまた引き裂きたがっておるわい。今度こそは、完全に消え失せよう。いずこへ去ったかは誰も知ることは あるまい。われを探し出すことはできまい。おそらく、みなはわれが殺されたと言うであろう』と語ったそうです。それから、しばらくして彼は彼が語ったよう に消え果ました。(1247年)いずこに彼がいるのかは誰も知りません。ある資料によれば、シェムスはまさしく突然消え去ったそうです。エフラーキーは彼 が消えた理由は、メヴラーナの次男アラーエッディーンが属する一党によって殺されたとからだと伝えています。

シェ ムスが消え去った後、又は殺された後、スルターン・ヴェレドの語るところによれば、彼の父は狂人にもどってしまったと言うことです。以前にファトワーを出 していたシェイフは、既に情け容赦のない愛によって、思索することもできなくなってしまいました。知恵の豊かなお方が、酒場の主人に成り果ててしまいまし た。しかし、ぶどうで作られた酒を飲むスルターンのそれではありません。光に属する命は、命の酒以外には何も飲まないからです。聖メヴラーナは、みんなに 彼について何でもいいから知らせてくれるように言いました。彼について、うその知らせをよこしたとしても、シェムスがどこかにいたと言うものには誰でも、 身に付けていたターバンとジュッペ(長い衣服)を与え感謝の気持ちを表したそうです。ある日一人の男がシェムスをダマスカスで見たという知らせを伝えまし た。メヴラーナは、この知らせに言葉ではいい表せないほど喜んで、その男に身に付けているもの着ているものすべてを与えました。すると腹心の友たちの一人 が、『この男の伝えた知らせはうそ偽りです。シェムスなどまったく見てはいません』と言ったのに対して、彼は、『さよう、彼の与えてくれた偽りの知らせの ために、私は身ぐるみすべてを与えました。もし真の知らせを齎したのであったなら、私は彼に私の命を与えたでしょう』と言ったそうです。シェムスとの別離 によって、心を燃え焦がし、心をうずかせるようなすばらしい詩を彼は書いています。彼の思慕の気持ちがあふれ出た詩の中からひとつ読み上げましょうか、い かがですか、忠俊さん」と尋ねました。忠俊は、

「ぜひ読んでください、とても楽しみです」と答えました。

「私のよく暗誦する一節があります。それは『偉大な詩作集』の中からです。

『朋友達の集いからあなたは離れ、あなたと親交を結ぶ者たちから去っていった。土の下へ、アリたちや蛇たちの中に入っていった。

かの絶妙な言葉、かのすばらしい語りはいずこに、神の真実を知るかの理性はいずこに、われらの手をとる聖なるその手はいずこに、小川の流れる園に、バラの園に、歩むその足はいずこに。

あなたは優しく情愛細やかなお方だった。人々の心を勝ち得、人々を愛することを教えてくれた。今、あなたは人々の好まぬ、人々を食い滅ぼす土の中へと消えた。

なんとしたことよ、いかなる考えに包まれ、枝のように長くでこぼこの道にあなたは落ちてしまったのか。

あなたが泣きながら、その道に落ちると、天空も涙を流し、月もその顔をかき、裂けてしまった。

わが心は引き裂かれ、血を流し、何も知らず、何も問えず・・・あなたが語りなされ、あなたは目覚め、去られたのか

そもそも、われらをおいて去ってしまった、真理を愛する者たち、完成した者たちとの対話を望まれたのか。さもなくば、愛が枯れ果ててしまったのか、

受け入れることなく去られたのか、問うた問いに、応えた見事なあの甘美な数々の応答は如何に。あなたは既に沈黙し、語ることをあきらめたのであろうか。

これはなんと見事な炎だろう。これはなんと深い思慕の念だろう。旅立つ客人のように、何も言わずに出発なさった。いずこへ旅立たれたのだろう。跡には塵ひとつ残さず、この旅は血の流れる道』」

「大変効果的で、心が痛むことばです・・・」

「そ の通りです、多大な影響を受けます。メヴラーナは彼を捜し求めて、2度ほどダマスカスへ行きました。しかし、またもやシェムスを見つけることはできません でした。最後の2回のダマスカスへの旅の確実な日時は知られてはいませんが、推定するなら1248年から1250年の間に行われたと考えられます。

ス ルターン・ヴェレドは、聖メヴラーナがダマスカスで姿形としてテブリーズィー出身のシェムスを見出すことはなかったけれども、精神的な意味で、彼を彼自身 の中に見出したと伝えています。かれ自身の存在の中に、太陽(シェムス)を明らかに示す月として、太陽(シェムス)を自分自身として感知し、次のように語 りました。

『肉体は、彼から離れている、されど肉体も命もない世界では、われらは一つの光となる。

おお捜し求めるものよ。彼を見ても、われを見ても同じこと、

われは彼であり、彼はわれである』と。

つ いに、メヴラーナはシェムスが生きているという望みを捨て、再び説教と伝道に打ち込み始めました。消え去ったシェムスを自分自身の中に見出したメヴラーナ は、自分自身をシェムスと合一した形で捉え、その結果として、ある抒情詩のタチュベイト(作者自身の名を記した文のある二行連句)の中では、彼自身の名前 の代わりにシェムスの名を使いました。

  さて、シェムスの後継者も見出せます。彼は弟子たちの一人、宝石商のサラーハッディーン・ゼルクーブです。その人の中にも、メヴラーナはシェムスを見まし た。サラーハッディーンはセイイド・バハーエッディーン・ムハッキクの弟子でした。彼の死後、メヴラーナに弟子入りしました。ヤウルバサンの息子で、コン ヤ人のゼルクーブ(宝石商)として知られたサラーハッディーンの家族は、コンヤ周辺にある池のほとりで漁業を営み、生計を立てていました。読み書きの知ら ない方でした。メドレセ教育を一度もうけたことはありませんでした。伝承によれば、文学的単語や用語を正しく発話することはできなかったそうです。クフル (かぎ)をクルフと読み、ムプテラ(熱中している)をムフテラと発音したそうです。メヴラーナは、生来清らかな、親しみやすく、従順な性質を持つこの宝石 商を、弟子たちの長に任命しました

聖 メヴラーナとシェムスが語り合っていた6ヶ月間、二人は彼の小房で過ごされたのです。彼らに仕える誉れと話し合いに参加できたことに幸せを感じたこの方こ そ、シェイフ・サラーハッディーンです。彼は宝石商店で金箔を作り合法的に金を稼ぐ一方で、精神教育を強化しようと努めていました。メヴラーナを知るきっ かけは、セイイド・ブルハーネッディーンの精神教育を受けようと彼の元にきた事でした。ところが、愛する者たちから完璧に離れていた聖メヴラーナに精神的 に結びつく原因となった出来事はこのようです。

  聖メヴラーナはある日シェイフ・サラーハッディーンの宝石商のある商店街の前を通り過ぎました。中で金箔を作るために金槌で金をたたいていた宝石商のシェ イフ・サラーハッディーンと見習いたちが、一打、一打たたく金槌の音を聞いた聖メヴラーナは、その心地よい調和の取れた音に、我を忘れ、アッラーに引きよ せられ、自我を消滅させ、沸き起こる愛によって、セマーし始めました。外でメヴラーナがセマーをし始めるのを見たシェイフ・サラーハッディーンは、彼が金 槌をたたく一打の調和の取れた旋律に従ってセマーしているのが分かると、金が台無しになることをも気にかけずに、見習いたちに打ち続けるよう命じました。 自らも外へ飛び出し、聖メヴラーナと共に、彼の足もとへ消え去りました。

 メヴラーナは、シェムスに感じた情愛と心の絆を同様に、サラーハッディーンにも示し、彼と共にいるとことで平穏を見出しました。

  メヴラーナは、アッラーの美しさを顕現する中で、精神と魂の世界で生きていたため、自ら到達できずにいる弟子たちに、正しい導きを示す導き手であり、高徳 を備えた、卓越した腹心の友の一人を、後継者として任命しました。この様にシェイフ・サラーハッディーンはこの役割をはじめて任命された腹心の友でした。

しばらく後、弟子たちの間で、サラーハッディーンの背後でなされていたある行動が、あきらかにされました。

シェイフ サラーハッディーンが文盲であるとして、高い指導者の地位にふさわしくないと考えました。シェムスにしたように、横柄な態度をとりはじめました。さらには、スルターン・ヴェレドまでが父にサラーハッディーンが長であることを反対し、ためらいを示しました。

 彼自身を悪意にみちた目で見ている不幸で哀れな者たちに、シェイフ・サラーハッディーンは、

『メヴラーナが、私を誰よりも優遇したので、あなた方は心が痛むのですね。

あ なた方はご存じないでしょうが、私自身には明らかな形、姿と言うものはありません。私は鏡です。メヴラーナは、私の中にご自身をご覧になられたのです。そ うであるなら、どうしてご自身を選ばずにいられましょうや。彼自身の美しさを、彼は愛されたのです。この他の考えに陥ることは、悪しきことです』と言いな がら、成熟さと謙虚さを示しました。メヴラーナとサラーハッディーンは、背後に作られた思わしくない雰囲気など、あまり気に留めませんでした。それどころ か、彼らの間の絆はサラーハッディーンの娘ファトマ・ハートゥンとスルターン・ヴェレドの婚儀が成立したことにより、強まりました。一時、敵対していた弟 子たちは、サラーハッディーンを殺そうと望みましたが、後に過ちを彼らは認め、許しを乞うたそうです。

 

シェイフ・サラーハッディーンの逝去

メ ヴラーナとシェイフ・サラーハッディーンは10年間絶え間なくお互いに、陶酔し、時を共に過ごし語り合いました。別離のつらさを感じることなく、愛する者 たちと巡り会う世界で、喜びを感じ続けていました。ところがサラーハッディーンの具合が突然悪くなりました。病気は長く続きました。スルターン・ヴェレド の伝えるところによれば、サラーハッディーンは亡くなる3日前、肉体という牢獄から救われるように、メヴラーナに許しを請いました。メヴラーナは、病気の 見舞いを終わりにしました。しかし、回復を願う手紙を、2通送りました。1256年12月のある日曜日にサラーハッディーンは亡くなりました。葬儀に関す る遺言に従って、泣きながらではなく、楽しく、喜びのうちに大太鼓やデフやクドゥムを奏でながら、そしてセマーをしながら、喜びながら運ばれました。望ま れたことはすべて執り行われました。

  サラーハッディーンの死後、メヴラーナは、代理者の地位はウルミヤェリ・チェレビー・フサーメッディーン・ビン・アリー・トゥルクに与えられました。メヴ ラーナは、フサーメッディーン・チェレビーについて、『メスネヴィー』の序文で『愛の宝庫の鍵、地上の秘宝の守護者、時のバヤーズィードやジュネイドの再 来』と説明しています。フサーメッディーンの祖先は、ウルミヤェから移住し、コンヤとその周辺に住み着いたアヒール人たちの長であるため、フサーメッ ディーン アヒー・トゥルクオウルという名で知られています。父親の死後、メヴラーナに使え始めました。財産のすべてを彼と彼の弟子達のために使いました。メヴラー ナもフサーメッディーン・チェレビーと、この上なく強い絆で結ばれました。彼を彼の親友たちは親戚たちよりも優遇し始めました。仕事の管理をすべて任せま した。チェレビーは、メヴラーナの代理者であると同時に、宰相タジェッディーン・ムーテズの紹介によって、ズィヤーエッディーンの修行場のシェイフにもな りました。シェイフの地位についた日、ある者たちは反対しようとしましたが、成功はしませんでした。フサーメッディーン・チェレビーは、この様に2つの高 い地位をえました。

 聖メヴラーナは、シェイフ・サラーハッディーンの後、かれを腹心の友とし、さらに、彼の代理者としてチェレビーの位を授け、チェレビー・フサーメッディーンを指し示し、友人たちへ、

『彼に頭を垂れ、彼の前で不肖のおのれを見つめ、広げた翼を低め地に付けよ。

彼の命令すべてに従え、彼の愛を汝の命に植えつけよ。

彼は恵みの鉱物であり、アッラーの光である』といわれました。

 聖メヴラーナの命に従い、親友たちすべてが彼に従いました。

スルターン・ヴェレドは、

『すべての親友たちが、その恵みの水で壺を満たされた。シェムスとシェイフ・サラーハッディーンの時のような、下劣な行いから救われ、品性のある行動をとることができた。嫉妬せずにチェレビー・フサーメッディーンに従った』と、伝えています。

  聖メヴラーナはチェレビー・フサーメッディーンの参加する集会では、快適さと平安を得ました。彼は歓喜に満ち、意味ある光を放ち、真の知識から語るのでし た。聖メヴラーナによると、真実は乳房から、意味である乳を吸い出すのはチェレビー・フサーメッディーンであることが、『メスネヴィー』の中でこの意味が 暗示として語られています。

『この言葉は、命の乳房から産みだされる乳である。吸う者がいなければ、よく出ない。聞く者が、のどの渇きと捜し求め、意欲があるなら、死人でさえ説教し始める。

聞く者が新参者で、飽き飽きしていないなら、おしでさえ言葉でナイチンゲールさえを黙らせる。

扉から入ってくるものが、覆いなしであってはならない人であれば、おおいのないものはカーテンの後ろに入り隠れる。

害のない覆いなしで会うことができるものが入ってくると、自分自身を覆う者たちが、顔の覆いを開く。

すべて美しく、心地よい、ふさわしいものが、見る目のために作られる。

踊り子の最も高く細い声と最も厚い天井に響く声を、どのようにすれば、聞こえぬ耳に上手に伝えられようか。

アッラーは、麝香をよい香りを嗅ぐものに創り、意味ない場所には創り給わなかった。

香りを、嗅ぐ者たちのために作り給うた。香りを感じぬ者たちのためではない』と。

チェ レビー・フサーメッディーンは、イスラーム神秘主義文学の中でも、最も教訓的な優れた作品である『メスネヴィー』を、メヴラーナの尽きることのない大洋と 喩えられる魂から吸い出すように取り出しました。チェレビー・フサーメッディーンは、この点においても大変重要な役割を果たしました。

スィペーフサラール(メヴラーナに仕えた方)は、書簡の中で、チェレビーについて、

『真 に正しい導きをなさる導師の中の導師に最もふさわしいお方は、チェレビー・フサーメッディーンであった。すべての誉れ高き『メスネヴィー』は、彼の懇願の もと書かれた。タウヒードのすべてと真実を備えた者は、彼ら自身に精神的満足を授けられた。『メスネヴィー』を一人で記したことに対し、審判の日までずっ と、チェレビー・フサーメッディーンに感謝を捧げる。そしていくら感謝してもしきれない。その借りが払えないであろう』と言ったそうです。

フ サーメッディーン・チェレビーがメヴラーナの死までの15年間、メヴラーナの誉れある講義に加わりながら、いつも彼のそばを離れませんでした。この間に行 われた以前、私も申し上げたとおり、イスラームへの偉大な奉仕はイスラーム神秘主義の最高峰の作品の中のひとつである『メスネヴィー』が記される最初の一 歩を踏み出したことにあります。ある者たちはメヴレヴィーが記されたきっかけは、次のような形で起こったと伝えています。ある日メヴラーナがフサーメッ ディーンと2人で座っていました。フサーメッディーン・チェレビーは弟子たちとタリーカの者たちに暇な時をみては、セナーイの『庭』(ハディーカ)」や偉 大アなアッタールの『神の書』(イラーヒナーメ)『鳥の言葉』(マントク・ウッタイル)などを読んでいましたが、そのとき、『これだけでは心が満たされな い。もし数多くの抒情詩のほかにメスネヴィーの形の本が書かれていたなら、みんなその作品を読んで益を得たであろうに』と付け加えました。するとフサー メッディーン・チェレビーの言葉が終えるか終わらないうちに、メヴラーナはターバンの間から『メスネヴィー』の最初の18ベイト(二行連句)の書かれた紙 を取り出し、フサーメッディーン・チェレビーに渡しました。『チェレビーよ、のこりの部分を、もしあなたが書き記されるなら、私は語ろう』と言いました。 フサーメッディーン・チェレビーは大変喜び、もちろん承諾しました。世界文学の著名なひとつ、『メスネヴィー』はこうして誕生しました。

エフラーキーによると、

『聖 メヴラーナは品性の高い方々の中の王でもあるフサーメッディーン・チェレビーは魅惑的で、高揚しながらセマーするときも、浴場で座っているときも、立って いるときも、休んでいるときも、動いているときも、絶えずメスネヴィーを語り続けていました。時には、このようなこともありました。夕方から始まって、日 が明るくなるまで語り続け、それらは記されていきました。フサーメッディーン・チェレビーも、この方法に則って記し続けました。書きあがった後、すべてを 大きな声でメヴラーナに読み上げました。本が完成すると、フサーメッディーン・チェレビーはベイト(二行連句)を始めから目を通し、必要ならば書き直しも う、一度読みあげました。

  このようにして、細心の注意を払い、1259年から1261年に書き始められた『メスネヴィー』は、1264年から1268年の間に書き終わりました。6 巻であり、全25618ベイト(二行連句)で書かれました。イスラーム文学で、それぞれの二行連句は、別々の韻が踏まれる韻文の形をとるメスネヴィーとい う形式で語られたために、この名で知られています」

 

メヴラーナ、永遠の世界へ移住する

『メスネヴィー』を書き終わった後、メヴラーナは急に年をとり疲れ果てた様子でした。肝臓も悪いようでした。さらに、医師たちが病気の診断を下せない病もありました。絶えずのどが渇き、高熱にうなされ、快癒は困難のように見えました。

 そろそろ最後の時を迎え、思慕している永遠の美しい世界へ飛びたつのだと、彼には分かりました。

 病気のときに、弟子たちと共にお見舞いにやってきて、彼の様子を見て大変悲しく思ったシェイフ・サドレッディーンは完治を望んで、

『アッラーが直ぐに治癒してくださいますように、病気は来世での地位を高めるためにあたえられたのです。あなたは私たちの命です、インシャアッラー、もう直ぐ完治するでしょう』と願いました。この願いに対して聖メヴラーナは、

『治 癒は、あなた方のものになるように、愛する者と愛される者の間には、薄いおおいの衣のみが残された。情熱溢れる愛に燃える者が、燃えさせる者と合間見える こと、光が光に到達するのを望まぬのかね』と語り、死を、愛する者と合間見えるときに感じる募る思いとして、次のような抒情詩を詠まれました。

『あなた方は、何を知っていると言うのだろう、私は内なる世界で、なんともすばらしい王と共にある、私の青白い顔を見なさるな、私には丈夫な足があるのだから。

  私を創り給うたその王に、完全に私の顔をむけたのだ、私を創り給うたことに、どれほど感謝を捧げても、多すぎると言うことはない。私は、時に太陽、時には 真珠の満ち溢れた海のよう。私の外身は土から創られ、価値のない存在のように見えても、私の中身は、かけがえのない最も誉れ高き存在である』

 シェイフ・サドレッディーンはこの詩を聞いた後、そばの者たちと共に泣きながら立ち去りました。

 メヴラーナは、親友たちや家族の者たちに、この世から旅立つことを悲しまないように伝えたのですが、そうは言っても彼らはたとえ肉体だけとの別れであっても、その別れ受け入れることは難しく嘆き悲しみました。

メヴラーナの妻は、

『ああ、この世の光よ、おお人々の命よ。私たちを残してどこへ行くというのですか。正しい導きを齎すものよ、この世を真実と意味で満たすためには、3百歳いえ4百歳まで長生きしていただかなければなりません』と言いながら泣いていました。

 聖メヴラーナの答えは、

『如 何にか、如何にか、われらはフィルアウンでもネムルードでもない、われらの土の世界には何もない、この土の世界で平安と安定は得られない、人々に役立つよ うにと、われはこの世の真っ暗な世界に閉じ込められた。さもあろう、監獄のあるところに、われもある。どなたの物を盗んで、われは監獄に入れられたのか。 もう直ぐアッラーの最愛のお方、聖ムハンマド(s)のおそばに戻れるという希望に輝いているというのに』と言いました。

聖メヴラーナはかけがえない彼の生涯は、終わりに近づいたと感じ、時折、悲しい死について詩を詠みました、それらの幾つかは、次のようです。

『お おわが命よ、この土の覆いのかなたには、秘められた喜びと秘められた幸せな生活が待っている。すべてを隠す覆いの許に、何百万もの美しいユースフたちがす んでいる。この肌、この目に見える肉体が消え去り、本来の存在であるルーフ(魂)は残る。おお、永遠なるルーフよ、ああはかなき肌よ。

 これがいかなる状態かを知りたいなら、毎夜、ご自分をよく御覧なされ、

眠り始めると肌は死んだようになり、あなたのルーフは楽園で翼を羽ばたかせる』

 聖メヴラーナは病気になり床につくと、7昼夜ひどい震えにうなされました。とうとう七日目には、人々は恐ろしさと恐怖にみまわれ、聖メヴラーナを見舞い祈りをささげたいと望みました。聖メヴラーナは、彼らに微笑みかけながら、

『怖がらぬように、哀れな土は腹をすかしているようだ、脂ののった食べ物を欲しがっておる、そうであるから、それを与えねばならぬ』とおっしゃり、周囲の者たちにこの様に遺言を残しました。

『秘 められし時も、現われし時も、アッラーを恐れ、身を守れとあなた方に忠告申し上げる。わずかばかり食べ、わずかばかり眠り、わずかばかり語り、罪から遠ざ かり、斎戒と礼拝を継続的に行い、すべての人に齎される苦痛や責め苦に耐え、無知な人々や楽しみにふける放蕩者たちと共に行動することをさけ、欲から遠ざ かり、高貴な方々や正しき善き人々と語り合うようにと遺言申上げる。故に、人間の中で最も善き者とは、人々に役立つ者のことである。そして最も善き言葉と は、数少なく、核心を得た言葉のことである』

 聖メヴラーナは、死の床にありました。何年も前にバルフの街では、このつかのまの世に敬意を表すために産声をあげ、コンヤで、最後に息を引き取るつもりでした。

  喜び、情熱溢れる愛、信仰と共に途絶えようとしている弱々しい息は、まさに止まる寸前でしたが、彼の脳はしっかりと働き、記憶も確かでした。預かり物(彼 の命)が、愛し、愛されたアッラーに引き渡される瞬間でさえ、彼は韻文や音韻の踏んだ意味深長な感銘深いベイト(二行連句)を語り続けました。

病気は日ごとに悪くなり、1273年12月のある日曜日の夕方、医師たちの懸命な努力にもかかわらず、彼は旅立ちました。

 葬儀は盛大で、葬式にはコンヤの民衆や政府の要人たち、キリスト教徒たちやユダヤ教徒たちも参加しました。ムスリムの人々は剣や棒を持って、ムスリムではない人々を追い出そうとして、

『この故人は、あなた方と何の関係があるのかね。イスラームのスルターンともいえるメヴラーナは我々と共にあり、我々の導師であるのだ』と言った時、彼らは、

『私 たちは、ムーサー、イーサー、そしてすべての預言者たちの真実の姿を彼の言葉から理解し学びことができました。私たち自身の聖典で読んだ完璧な預言者の性 質と振る舞いを、彼の中に見ました。あなた方が彼をこよなく愛し、彼に従うもの達であられるなら、私たちもまた彼を愛する者たちです。

 聖メヴラーナという方は人々の上に輝き、かれらに善行と寛大さを示す真実の太陽です。太陽はあらゆる人が好みます。すべての家はその光で明るく輝くのですから。

  メヴラーナはパンのようです。パンを必要としないものはありません。パンから逃げる空腹のものを見たことがありますか』と答えました。シェイフ・サドレッ ディーンが先導し葬儀の礼拝をしました。一説によれば法官スィラージェッディーンが先導したとも言われています。なぜなら、シェイフ・サドレッディーンは 棺の前にやってきて、「アッラーは偉大なり」とタクビールを唱え始めるやいなや、気を失い、地に倒れてしまいました。

スィ ペーフサラールが記すところによれば、シェイフ・サドレッディーンのしばらくして意識が戻ると、なぜ気を失ってしまったかを彼に尋ねたそうです。『私が礼 拝しようと棺の前に来たとき、天使たちが列を成して棺の前で留まっていたのを見たので、その壮大さの余り恐ろしくなり、思考が停止してしまったのです」と 答えたそうです。

コ ンヤの人々は、40日間、彼の死を嘆き悲しみなきました。このとき家族の者たちの間では、さらに嘆かせ、愛する者たちを悲しませるある事件が起こりまし た。聖メヴラーナのかわいがっていたねこが、彼の死後何も食べず、何も飲まず、7日後に死んだのです。娘のメリケ・ハートゥンは死んでしまった猫を白い布 で覆い、墓の周りに埋めてやりました。

聖メヴラーナのなくなるちょっと前に、この猫は聖メヴラーナの前にやってきて、ニャーニャーと悲しげになきました。メヴラーナは微笑みながら、

『この猫が今なんと言ったか分かるかね」とおっしゃられました。周りにいた人々が、『いいえ』とこたえました。

聖メヴラーナは、これに対して、『ねこは、まもなくあなたは安らかに、高貴な人々のもとへ、本来の祖国へいってしまうのですね。私は一匹さびしく取り残されて、どうすればよろしいのですか、といった』とおっしゃったそうです」

 忠俊は泣きそうになりながら、

「その大きな痛み、悲しい別離はよく分かります」

「そ うです、忠俊さん、聖メヴラーナは死を「ヴスラート」(愛するものとの出会い)つまり、アッラーとお会いすること、愛するお方にあいまみえ、彼に戻る事と 考え、彼にお会いするのを待ち望んでいたので「ヴスラート」を「婚礼の夜」と形容しました。メヴレヴィーたちは、その夜を、「シェブィ・アルース」と呼び ます」

  「死という出来事を婚礼の夜として捉らえることは、私には考えられません。けれども、彼の人生について伺ったので、彼が神に如何に近づくことができたか、 近づけるほど高貴な人間であり、そのような方々がそのように考えることができることだけはわかります。なぜなら、すべてのこの世の悪から肉体も魂も浄化さ れ、死の恐怖となる原因が彼には残っていないからです。そのようであれば、確かに不安もなく自分自身のあり様、行き先を確信できるのでしょうね。本当に驚 きました」

 「忠俊さん、お疲れでなければ、メヴラーナが死について詠まれた幾つかベイトを読みあげましょうか」

「ええ、とてもうれしいです。ぜひ、お読みください。とても関心があります」

「死は私には甘美なもの、この地からの移住は、鳥かごから放たれた鳥のよう。

庭に置かれたかごの中の鳥はバラ園を見、木を見る。鳥は緑の美しさを見るが、何も食べることはできない、がまんも尽きる、

もしや足の紐が解けるかもと、金網の間から出ようと試みる、

鳥の心は外の世界を望み、命もまた(望む)、もしそのかごをあけたなら、鳥はどうするだろう」

「死は、聖メヴラーナの考え方によれば、恐怖を超越し、まったく違った意味を指し示します。死をすばらしいものへと変えています。愛する人々と出会うと言うことがどのようなことかお分かりですね、忠俊さん」

「はい、一番のしあわせであり、わくわくもします」

「そうです、聖ヴラーナは、その愛する人間に出あった時に感ずる幸福と感激の何倍も何千倍も深い、神と出会うときに感ずる幸福と感激を得ることができたのです。魂が肉体という籠に捕らえられた鳥は、ただ死によってのみ、美しく解放されるとおっしゃっています」

「あなたに、聖メヴラーナのある抒情詩を詠みましょうか、聖メヴラーナの棺の上に彫られている文ですが、

『私の死ぬ日に、私の棺が歩み進み始めたとき、しもべとしてこの世での悲しみはなくなる、この世から去ることを私が嘆いていると思わぬように、そのような疑惑に落ちいらぬように。

哀れよ、哀れなことよ、とおっしゃらぬように、悪魔のわなに落ちたときこそ、悲しみのときである。

私の遺体を見て、お別れ、お別れだ、おっしゃらぬように、彼(か)の時とは、私にはめぐりあい、出会いのときである。

私を墓に埋め、立ち去るとき、永遠の別れ、とおっしゃらぬように、なぜなら墓は楽園の住人たちの帳(とばり)であるから。

沈むのをごらんになったのだから、昇るのもごらんになるように、太陽と月が沈む前、何の害がおこるというのであろうか。

彼方には沈むように見えるが、それは昇ることである。墓は監獄のように見えるが、それは命の救出である。

どのような種が土に蒔いても、芽を出さないであろうか、されば何ゆえ人間という種に疑いを持つのだろうか。

どのような桶が井戸に垂らされて、桶が満たされずに吊りあげられることがあろうか。

こちら側では口を閉じ、あちら側では腹をすかす。なぜなら、あなたの無駄彫りは、無階梯の世界の天空にあるのだから』と、おっしゃりながら、彼の訪ねて来る者達へ、

『兄弟よ、私の墓にはデフ(楽器)をもたずに、やってこぬように、なぜならアッラーの集会には、苦しみは似つかわしくないからである。

真の主は、私を情熱溢れる愛の酒で創り給うた。死すとも、朽ち果てようとも、私は、なおその愛である』とおっしゃったそうです」

ほとんど哲学者は、死が存在するかしないかについて論争し、死と言うものは非常に恐ろしいものとして捉えますが、聖メヴラーナは死について大変異なった見解を示しています。平安に満ちた、喜び溢れるものと捉えています。それは人々を落ち着かせますね」

「そ うです、その通りです。ソクラテスによると、死は永遠の無、あるいは新しい生活の始まりであると言います。特に第2点目の可能性が高いと見ていますが、確 実であるとは言い切っていません。メヴラーナのように、神の友として、神に近づくことができなかったからです。ニーチェは、死を考えることも拒否していま す。A・ジャムスは、死とは抑圧であり無であると明示しています。イブンスィーナーによれば、肉体は消滅し、ルーフ(アッラーからの息吹、魂)は残るといいました」

  忠俊は、その瞬間日本には体系的な哲学の伝統がないだけでなく、ただ「今」と「ここで」を重要視する文化である捉えたが、と同時に、「過去」と「未来」の 現象として語られることのなかった日本の哲学を目の前に思い浮かべたとき、聖メヴラーナの過去そして未来をもかんがみて今を捉える考え方に、彼はさらに感 動を覚えたのであった。

「死 は無であったとしても、永遠であったとしても、すべての人間がその恐れから逃れられない将来起こる現実です。聖メヴラーナは羨望の気持ちでいっぱいです。 聖メヴラーナは死を「初夜」と形容し、美しくすばらしいものに仕上げました。悪夢として私が捉えていた死は、審美的で好ましいものとなりました。私の心の 中の死、悪夢の黒い雲が、聖メヴラーナと彼の思索によって取り払われると確信しはじめ、心は喜びに溢れています」

「さて、忠俊さん、彼方がこれほどまでに関心をお持ちになっているのですから、聖メヴラーナのほかの考え方も、あなたにお話しいたしましょう。このことについては、いたるとことに記されていますので、その中からひとつだけお話いたしましょう」

「すべてのことを、確実に私は知りたいのです、どんな方法を探しても、それらを学ぶつもりです。自分自身と約束しました。ですから、どうぞお話を。しっかり耳を傾けていますよ」

「聖メヴラーナがおっしゃるには、『おなかの中の胎児にある者が次のように言ったとしたらどうであろうか、外にはきちんとした大変心地よい世界がある。

木々、海、砂漠、野菜畑、ブドウ畑、庭園、草原、牧草地がある。

とても高くて光に満ちた明るい空、太陽、月、諸星、スハ(大熊座の星のひとつ)がある。南から、北から、東から、西から、風が吹いている。ブドウ畑や庭園は花嫁のように飾られ、まるで結婚式をあげているかのようである。

世界で驚くほどの美しさ、まれで違う状態を言葉では伝えることはできない。あなたは子宮の中、その真っ暗な場所で、窮屈な苦しみの中にいるのだ。

ああ胎児よ、あなたはその狭く抑圧された場所で、十字架に掛けられた血を吸っている。監獄にいる。汚れという苦痛を味わっている。

子供は自分の状態を見てみるが、その状態に何の不満もないので、今言われた言葉を拒否する。このような知らせを信じることはない。

「語 られたことは決して起こらない、あなた方は子供をだましている」というであろう。なぜなら、目の見えない者は、この世がどれほど美しく装飾されているかを 知らないのだから。目の見えない者や又は子宮の中にいる胎児の理解力は、知らされたことと似ているものを実際見たことがないので、拒否の道へと反れる。子 宮の中の胎児は、その悪臭の漂う不快な場所で、欲張って血を飲む。そのむさぼりが、彼をこの世に関する言葉に目を向けさせない。この世に関する言葉に対し て、彼を覆いの背後に留まらせる。

嗚呼、そなたもあわれな人間よ、この世の美しさを貪っている。その貪りが、あの永遠の世界、精神世界の美しさの覆いとなっている』

こ のように、忠俊さん、聖メヴラーナはこの世界へやってきたことを一番目の誕生、そして、死は第二の誕生として捉えています。私たちは見知らぬ世界へ出かけ る不安を抱えていますが、その世界に目を開いて、この目で、美しいもの、好ましいもの、そしてすべての中で、最も愛すべきすばらしいお方をそこで目の当た りにしたとき、この世が罵倒や苦しみの渦巻く流刑地であり、困窮した場所であると考えることでしょう」

「愛する者達の中の愛する者とおっしゃいましたね。よくわかりません。実は、聖メヴラーナの生涯についてお話を伺っている時も、理解できない部分がありましので、それらをすべて書き留めてあります。いつか時間があれば、なんとかしてそれらを解こうと思っています」

「忠俊さん、愛する者達の中の愛する者とは、私たちの預言者であり、長であるムハンマド・ムスタファ(彼 に祝福と平安あれ)を示します。なぜなら、至高なるアッラーは彼に、『もしそなたがおらぬなら、この世を我は創らなかったであろう』と仰せになりました。 聖メヴラーナは、彼の道の跡をたどり従って生きました。愛すべき私たちの預言者(s)の喜びと愛によって、彼は完成に近づきました。恵みの鉱物のような聖 メヴラーナは、

『命ある限り、私はクルアーンのしもべである、

私は長ムハンマド(s)の歩む道の土である』とおっしゃったそうです」

ガ イドと忠俊は、あまりに熱中していたので、運転手の『お疲れ様でした』という声でわれに返った様子だった。忠俊の顔は喜びに満ち溢れているのは明らかで あった。終わって欲しくない旅が終わった。どうすればいいのかとまどっていた。後ろ髪を惹かれる思いであった。そして腕にはめていた高価でしかも思い出深 い時計を彼ははずして、ガイドに差し出した。

「あ なたにどれほど感謝しても、感謝しきれません。あなたは、私に大変善いことをしてくださいました。私の人生を変えたのです。どうかこれを受けとってくださ い。そして時々私を思い出してください」といった。だが、ガイドはこのような高価な贈り物を受け取るわけにはいかなかった。ガイドが贈り物を受け取らな かったことに忠俊は驚きの色を示し、忠俊を戸惑わせたようだった。日本人にとって、贈り物を受け取らないことは非礼とされていた。ガイドは忠俊の顔色か ら、そのことを感じ取ってので、説明する必要があると考えた。

「忠俊さん、誤解なさらないでください。大変高価なのでうけとれません。あなたが私にくださった最もよい贈り物は、あなたが聖メヴラーナを強い心の絆によって愛したことです。この愛をあなたは永遠のものとなさるでしょう」と言った。

だが、一度のこの振る舞いが忠俊をいっそう考えさせた。「もしかしたら、このふるまいはイスラームの教えから来るのか」と、彼は考えた。そして、ガイドをよりすばらしいと感じたのであった。

「あなたの電話番号とご住所を教えてくださいますか。後ほどご連絡してもよろしいですか」

「もちろんどうぞ、私も大変うれしいです」と言いながら、電話番号と住所を彼に教えた。

「私たちは、明日旅たちます。今、ホテルへ行って休みます。もしご迷惑でなかったら、夕方お会いして、お話の続きをお聞かせいただけませんか」

と言いながら懇願するようなまなざしでガイドを見た。

大変疲れていたガイドは、一瞬考えていた様子だったが、メヴラーナをとても知りたがっている日本の人をがっかりさせたくなかった。心の中で、「誰が知ろうか、もしかしたら後にムスリムになるかもしれない」と思いながら、

「よろしいですよ、忠俊さん、場所と時間は?」とたずねた。ガイドが忠俊の提案を受け入れてくれたので忠俊はとてもうれしくなった。頭の中で、一番静かにが話できる場所を探しながら、一番ふさわしいのはホテルだと考え、それをガイドに伝えた。

 

イスタンブールでの最終日

日 本人の一団は、ホテルについた。それぞれの部屋に休息するために退いた。忠俊はホテルのバルコニーに座りながら、ひと時、イスタンブール海峡、真珠の首飾 り、海峡に架かる橋を眺めていた。太陽の光が、海に当たると飛び拡がる輝きは、まるで歌を歌っているかのようであった。まるで海の心臓が黄金色の光の熱さ で、蒸発しとけてしまうかのようであった。まるで聖メヴラーナが、アッラー愛によって気化し、とけてしまったように、そして周りのものも溶かししてしまっ たように・・・

彼は心の中をうごめく、秘められた震える声から自分自身を解き放つことができなかった。情熱溢れる愛を認識する地において、心の文化を構築するための最初のレンガが置かれたのだと彼は感じた。静かに胸に溢れ始めた心の文化。忠俊は、彼自身の中で魂(アッ ラーの息吹)の旅をしながら、初めて自分自身を知り始めたようであった。自分自身を知るということは、その主(神)を知ることであるということを意味し た。神秘主義文化体系の世界では、「自分自身を知るものはその主(神)を知る」と説明される。ハディース・クドゥスィー(神の言葉として伝えられるハ ディース)でも、アッラーの使徒はアッラーの御言葉を、「我は汝の頚動脈よりも汝により近い」と伝えている。

忠 俊は「なんとすばらしい偉大なお方だろう、あなたは私の中にある真の私に、私を到達させ、私を目覚めさせた、あなたを知ることによって、私自身を知った。 私の心の中を春風のように満たした。ただ美しく飾られたこの世の残忍さから、私の目を開かせ、私の心を明るく輝かせた。幸福の輝きを放った。限りなく感謝 している」と呟きながら、手のひらをあわせた。敬意を表して私たちの指導者(ピール)の前でお辞儀をしたように、今もう一度お辞儀をした。

既に、彼の体は限界に達していて、まぶたが重くなり強い眠気が彼を襲った。彼はベッドに倒れこみ、平安と幸福な感じに包まれ手深い眠りについた。

 携帯電話のしつこい音で彼は目を覚ました。一瞬、彼はどこに今自分がいるのかを考えたが、自分を取り戻すと電話を取った。電話の主はガイドだった。

「忠 俊さん、おくつろぎになられましたか。あなたとお別れした後で、ある講演があることを知りました。数時間早くお伺いしたいのですが。お話した後で、この講 演に一緒に行きませんか」と言った。時計を見て自分が7時間、眠ったと気づいた。「はい、大丈夫です。とてもうれしいです。あなたをお待ちしています」と いって電話を切った。

彼はよく休んだ。快い感じがしていた。今までこれほど安らかに目覚めたことはなかったようにも感じた。彼はそのわけを今はよく知っていた。おなかの虫がなったので、彼は下へ降り、食事を取った。そして、ロビーに座りガイドを待ち始めた。するとアザーン(礼 拝に呼び招く声)の声が聞こえてきた。トルコへ来てからずっと、決まった時刻にこの音を聴いてきた。ガイドに以前尋ねてきた時、彼は「ムスリムは決まった 時間にアッラーの御前に向かい、彼のみを考え、祈りや崇拝行為をします。実は、すべての生き物が祈りを捧げ始めます」と言っていた。アザーンが終わると、 「万有がそれぞれの言葉で彼らの主を称えながら創造主に向かうことは、神聖な愛、比類ない意義、精神の高揚を奏でるシンフォニーに似ている。幸福、愛、喜 びそして高揚に包まれること、アッラーの愛によって合一すること、この合一によって、真の主にのみ頭を垂れつつ自由になることの出来る神聖なシンフォ ニー・・・」といって、噛み締めるように、アザーンという花々を最後まで聴いた。この感覚は、まるで七色の虹の一つ一つの色が生まれるときの感じに似てい た。

ガイドが大きなかばんをもって、ドアから入ってくるのを彼は見た。忠俊は立ち上がって、襟をただし、お辞儀をして挨拶した。ガイドが

「ご機嫌いかがですか、忠俊さん。よくお休みになられましたか。」

忠俊が、

「はい、これほどよく安らかに目覚めたことは今まで一度もありません。それでは上へ行きましょうか。バルコニーからの景色は大変美しく、それに静かなところです」というと、ガイドは、

「よろしいです。お望みのままに」と言って一緒に上に上がり、バルコニーに座った。

「あ なたとお別れした後で、少し調べてみましたら、これらの本を見つけました。お気に召すかと思いまして」と言いながら、手にしていた聖メヴラーナの『メスネ ヴィー』、『偉大な詩作集』、『ルーミー語録』の英語に翻訳された本を、写真やパンフレットと一緒に彼に差し出した。

  忠俊の目は宝物を発見した喜びで、きらきら輝いた。「あなたは大変私を喜ばせてくださいました。宝庫を与えてくださいました。けれどもこれらの本のお題を お支払いしなければ受け取れません」と言いながら、代金をガイドに無理やり手渡し深々とお辞儀をし、何度も何度もお礼を言った。

「私にお礼を言わないでください。あなたが聖メヴウラーナに関心を示してくださったことにこそ、私は感謝の気持ちでいっぱいなのですから。こちらこそ、ありがとうございます」と言うと、持ってきた本について説明し始めた。

『メスネヴィー』の英語版を手にとって「忠俊さん、『メスネヴィー』については、旅行中ずっと説明してきましたが、もう少しお話したいと思います。実のところ『メスネヴィー』はいくら説明しても説明しつくされることのない作品のひとつです」

 

メヴラーナの作品

『メスネヴィー』

「聖メヴラーナは『メスネヴィー』の最初の18ベイト(2 行連句)を、ご自身の手で記されました。ほかの部分は以前にももうしあげたとおり、チェレビー・フサーメッディーンが書き取りました。各々の巻が終わる と、彼は聖メヴラーナの前で読みあげ、必要とあれば文を校正しました。その後でもう一度、本はチェレビーによって清書されました。

『メ スネヴィー』はただ教訓的な作品とういだけのものではありません。その中には『偉大な詩作集』の情熱溢れる詩を思い起こさせるような、人間を興奮させた り、さらには泣かせたりする部分もあります。聖なる神の友の手が筆を握ることなく、また韻律や脚韻を考えることもなく、自分自身を疲れされることもなく心 に浮かんだベイトには、時には意味深長な精妙な感覚を伝えていますので、人々は驚くばかりです。一枚の紙にも書き出したこともなく、長く考えたこともなく 語られたベイトですが、韻律や脚韻があやまっているところはまれです。このことは、すべての詩人が持ち合わせている能力ではありません。人を驚かせるこの ような状態は、聖メヴラーナにアッラーからの恩恵、恵みとして与えられたのです

『メスネヴィー』の中でさまざまな問題、発見、見解に出会います。メヴラーナの見解、比ゆ、喜び、高揚は人々を虜にします。彼の無限に近い知力、非常に繊細な魂、高揚、愛、そして信仰が、人々を異なった一つの世界へと誘います。

『メ スネヴィー』の中の物語は、今日の物語(ヒキャーエ)の技法とはあまりにていません。ある事柄を伝える時、それにふさわしい物語からはじめます。その後、 そのお話を途中で止めて、神秘、真意について伝え始めます。なんともすばらしいベイトを語り始めるので、人々は虜になります。高揚した心で語られた数々の ベイトが、彼にほかの物語を思い出させます。そして、その時にまた違う思い出したお話を語り始めます。その後で、最初に話していた物語を最後まで語りま す。この様に、物語の中で幾つかの物語が追いかける形をとっているのです。

  これらの物語、その中に包み込まれた深い意味を理解する能力を持つものは、私たちの住むこの物質的世界から飛び出し、精神世界へと羽ばたく原動力を見出す のです。これらのお話は、道徳面でも、感覚面でも、そして思考面でも人間を高めます。もっと正しく言うなら、人間を真の人間となすのです。これは真実であ ります。今日の生活条件は人間を過度に闘争に駆り立てます。人間をロボット化してしまいました。精神的感覚は消えてなくなり、精神的道も死滅へと向かって います」

「そうです、まったくその通りです。同感です。と同時に大変残念にも思いますが」

「この様に忠俊さん、メヴラーナの『メスネヴィー』の中の物語は、この物質的世界の苦悩と悪意を持つ人間を精神世界まで高め、美しさを知らせ、疲れや痛みを取り除きます。アッラーの恵みによって、幽玄の天国をこの世においても実感することができるのです。

『メ スネヴィー』を読む者は誰でも、自分自身の脳力とめぐり合わせによって、『メスネヴィー』の意味深長な真実の数々と機智に溢れた微妙な言葉使いから、精神 的喜びやさまざまな示唆を得ることができます。この聖なる本を読む時、彼の伝えた感覚を感じることができますし、彼の光から光を得ることができるでしょ う。精神的な病や悪い性質や逸脱した信仰から救われるでしょう。メヴラーナは、真実を求める旅人を『メスネヴィー』によって真実(神)へ至らしめます。

彼がおっしゃるには、

『われらの後、『メスネヴィー』があなた方の指導者としての役割を果たすであろう。真実の望む者たちの良き師となるであろう。本来の目的に導き到達させるであろう』(スィパーフラールの訳)

またある者たちは関心を持ち、この様に語ります。

『メヴラーナは、誉れ高き『メスネヴィー』の中の物語を、どなたからそしてどこからきいたのでありましょうや』と。

聖 預言者(彼に祝福と平安あれ)も、『英知は信仰者たちの失ってしまったものである。英知を見出すことができるならどこでもそれを手に入れるべきである』と おっしゃっています。そのため聖メヴラーナは信仰者たちが真実を知るようにと、適切と思われる場所から物語を取りました。確かに、聖メヴラーナはこれらの 物語を父のセイイド・ブルハーネッディーンとシェムスから聴いたと思われます。そして一部は、当時読んでいた諸本の中から、また一部は頭の中に記憶として 残っていたものを取り入れたと思われます。ただこれらは少し前にも申し上げたように、ひとつの物語としてではなく彼が伝えたかった神、又は神に関する数々 の真実を伝えるため喩えとして選び出されました。そして選ばれた物語の局面からは、機智に富む微妙な言葉使いによって、真実を導き出しています。ある物語 が、ときに聖メヴラーナにさまざまな真実、機智溢れる言葉を思い起こす時には、真実をより分かりやすく説明するためにたとえとして用いられたのです。

こ れらの物語の中には、笑いを誘うお話や開放的なお話もあります。『メスネヴィー』に取り入れられた物語の源泉は、インド、ローマ、ギリシャの文学にも及び ます。これらの物語はケリレとディムネから動物の伝承を引用し、ラテンの詩人、アポッラからも一匹のロバに心を奪われた女性の物語なども引用しています。 これらの物語は笑いを誘い、楽しませるためにではなく、ある英知、助言を伝えるために引用されました。

同じように、メヴラーナが『メスネヴィー』の中で用いた開放的な物語を意図して、『私のベイトは連句ではなく(魂を揺り動かす太陽や風のような)自然の気である。私の冗談は冗談ではなく、何かを学ぶための指針として語られた』と。

 『メスネヴィー』の中の物語は、ただ物語としてではなく、これらの背後に隠された真実の音色を聞きわけ、神(真 理)への熱き愛の秘密にいたるために、私たちは読むべきです。『メスネヴィー』は、イスラームの真髄の真髄です。アッラーの最も偉大な則(のり)を示し、 真実へ至る光り輝く道です。たとえば、『メスネヴィー』の本の表紙には、『私は『メスネヴィー』を暗誦させるために語ったのではない。神(真理)へ近づく ための精神的階段として、神へ熱き思いを寄せる者達を天の頂まで昇らせるために語ったのである。『メスネヴィー』は真のミィーラージュ(昇天)のための階 段である。階段が重荷となり、街から街を徘徊するためにではない。なぜなら、その種の階段では、天まで昇ることは不可能であるから。心に抱かれた熱望はか なえられぬ。」

聖 メヴラーナは、『メスネヴィー』で神秘主義的探索にあたり、「熱き愛」の重要性を前面に打ち出したのです。いたるところで心熱き者たちに呼びかけていま す。そしてそれらは、預言者の物語が大部分を占めています。思考世界において、はるかかなたまで広げられた壮大な地平線、内容豊かなメッセージは人々を熟 考させました。そして人々はその考えを好み、称賛したのでした。

忠俊さん、『メスネヴィー』を読めば読むほど、あなたご自身のことがよく理解できるようになりますよ。さて、よろしかったら、他の本についてもお話いたしましょう」

「はい、お願いいたします」

 

『偉大な詩作集』(ディヴァーン・ケビール)

『偉 大な詩作集』という意味である、聖メヴラーナの詩を収集したディヴァーン・ケビールには、メヴラーナの頌詩、テルジイ(哲学宗教を主題とする韻文、詩)、 ムレンマ、4行詩が収められています。『偉大なる詩作集』の別名は『シェムス集』又は『シェムスの詩作集』です。聖メヴラーナは、抒情詩の最後に他の詩人 たちと同様に、自分自身の名又は通称を語ることはありませんでした。シェムス・テブリーズィーの名を語ります。どの詩にも彼の名前ジェラーレッディー・ ルーミーの名は見当たりません。ある抒情詩にはサラーハッディーン・ゼルクービーやフサーメッディーン・チェレビーの名が綴られています。これらを収集す ると、全部で100位以上はありません。ある抒情詩では、ハムーシュとかハムーシュコンと言うあだ名が、まれに使われています。メヴラーナはシェムスを心 の友として愛したため、詩の中で彼の名を使ったことを知らない者たちは、メヴラーナの詩を、シェムスの詩と勘違いしています。実のところ、シェムスはひと つも詩を書いてはいません。

  コンヤ・メヴラーナ博物館に存在する『偉大な詩作集』の最古のもので信頼における版から、故アブドゥル・ギョルプナルルが、メヴラーナのすべての詩をトル コ語に訳しました。2073の抒情詩、そして、それらの抒情詩には、21366のベイトが含まれます。数は正確には知られていませんが、何千もの4行詩が あります。

偉大な著作家であるシェフィク・ジャンは1964年以来、コンヤの図書館をはじめとしてイスタンブール、イラン、アフガニスタン、インドで出版されたメヴラーナの詩作集を収集しました。その数が2217の4行詩になる4行詩集を編纂しました。

『偉 大な詩作集』に見られる詩は、抒情詩です。熱き愛と心の高揚を感じることができます。メヴラーナは時に我を忘れ、恍惚状態となり、心に浮かんだことを語っ た聖なる神に関する詩は、弟子たちや朋友たちによって書き留められました。時には、セマーをしている時、時にはメラムの園を散策している時、語りました。 考えることもなく、韻も脚韻にも悩まされることなく、感じるままに語られたこれらの詩は、人々の心を焦がし、高揚させます。熱き愛が、みなぎっています。 精神世界からの霊感、幸福の香りを漂わせています。

  ある詩作集に見られる詩は、メヴラーナの感受性によって記されたものではありません。メヴラーナの方法と感性をよく知る者たちにはすぐに理解できます。と 言うのは、メヴラーナの数々の詩は、聖なる神の友の心からあふれ出たものなので、大変影響力があるからです。人々を虜にし、我を忘れさせます。読む者や聴 く者に、説明できないほどの喜びを齎し、高揚させます。それらの詩の中にメヴラーナが存在し、熱き愛も存在します。詩の中で、秋の描写においては、葉が落 ち、風が木の葉を震わせ、寂寞とした雰囲気の中、季節が枯れていくのを、偉大な神の友は感じさせます。まったくペルシア語を知らない方でも感受性の鋭い方 々は、調和の取れた詩と精神的雰囲気から、メヴラーナが何を語ろうとしていたのか理解します。これらの詩は時に人に涙を流させ、時には喜びを味あわせ、時 には人間を別の世界に連れていってくれます。『ディヴァーン・ケビール』(フルザンフェル版)の序文には、メヴラーナご自身が、彼の詩について次のような 文で神(真理)への熱き愛を表現しています。

『これは魂の神秘、神(真 理)へ心を捧げる者達にとってのヌーフの箱舟である。聖なる息吹である。魂に心地よい涼風である。神性な感応(ひらめき)である。黎明の時の恵み、心の目 を開かせるさまざまな発見である。完全無欠なアッラーから、心に直接齎される意味深いものである。比類なき諸標である。驚くべき文、言葉の顕現である。神 の唯一性を顕現する海の光である。幽玄の海に棲む大きな真珠である。この詩作集は、愛に熱く燃える者達の詩作集である。精神的喜びの源である。心の灯火で ある』と。また別の場所では、高揚と熱狂の中で、次のようにも語っています。『私はこれらの言葉を熱き愛によって語る。なぜなら、学びを熱き愛から得るか らである。私の命を、愛の前に差し出し、命を愛に贈り物として捧げる。なぜなら、愛はまれに受け入れられるから。すべてを受け入れるわけではない』

  熱く愛に燃える者達、知識人達にふさわしい真実の言葉です。心安らぐ者たちの鍵です。幽玄界を自由に飛び回る者たちの場です。心ある者たちの、その心の中 心です。多くの心の園に咲く花です。この詩作集の言葉は、純粋なしもべたちが集う場にて、霊知を感じる喜び、精神的喜びを齎す川の流れです。神の友を想 い、また思い起こさせる知らせです。完成された者達へ、幸せを齎す愛です。確信に到達した者への説教です。アッラーを敬愛し、悪行から遠ざかるつわもの達 の首にかけられた首飾りです。これらの言葉は偽善者たちへの神(真理)の顎鬚です。大いなる、善なる者達の魂へのくすりです。神(真理)への道、旅へ出発する者達への贈り物です。偉大な鳥たちの言葉です。天使の世界で、天使たちが神を讃える声です。

 

『ルーミー語録』(フィーヒ・マーフィーヒ)

聖 メヴラーナのさまざまな主題についての講話を集めて編纂された作品です。これらの講話は、メヴラーナご自身が準備し記したものではありません。息子、スル ターン・ヴェレドか、彼の弟子たちが書きとめたものをノートの形に集めたのです。ある部分は、ムイヌッディーン・ペルヴァーネへのメッセージです。またあ る部分は、『メスネヴィー』の物語に見られる形式や説明があります。さらに別の部分には、『メスネヴィー』の解説らしきものもあります。人が読めば、これ らのことに気づきます。シェムス・テブリーズィーやブルハーネッディーン・ティルミーズィーやサラーハッディーン・ゼルクーブの言動にも機会があれば触れ ています。

『ルーミー語録』は、はじめにアフメット・アヴニ・コヌクによって、トルコ語に訳されましたが、これは出版されませんでした。この原文は、コンヤ・メヴラーナ博物館の図書館に存在します。後にメリハ・ウルケェル婦人によって、トルコ語に訳され発行されました。

 

7つの講話』(メジャーリスィ・セブア

名前からもお分かりのように、聖メヴラーナの7 つの講話を書き取り、本の形にしてできた作品です。エフラーキーによると、メヴラーナはシェムス・テブリーズィーが消え去った後、年長者の方々の望みと宝 石商サラーハッディーン(1258年死す)の切なる願いによって実現しました。それらの講和は7冊の本になりました。翻訳は、書店経営者のスルフィー・エ フェンディによってなされました。また同作品は、1965年にアブドゥルバーキー・ギョルプナルルによって訳された新訳は、コンヤで行われたそうです。

 

『書簡』(メクトゥーバト)

聖メヴラーナのさまざまな理由から、特に年長者の方々に各々の苦しみを癒すために書かれた手紙を集めて作品にしたものです。もともと、すべての作品は彼自身の手で記されることはなかったのですが、これらの手紙も同様です。他の人々が書き留めました。147の手紙が収集されたこの作品は、フェリドゥン・ナーフィズ・ウズルク博士が1937年にイスタンブールで出版しました。手紙は、アブドゥルバーキー・ギョルプナルルによってトルコ語に訳されました。

さて忠俊さん、聖メヴラーナの作品は今まで説明してきたものです」

「日本で一冊ずつ丁寧に読み考えてみようと思います。ところで、私たちが手にいれた絵葉書の絵は写真ですか。それとも画家が描いた絵ですか」

「この半球型天井に心地よい音色を残す聖メヴラーナのお姿とご様子を短くご説明いたしましょう」

「聖メヴラーナの創造的な数多くの絵や写真や細密画が作られました。さらに、その当時に、これらの絵を描いた画家によっても説明がなされました。エフラーキーのように外見を伝えるものもあります。

それによると、聖メヴラーナが絶えず斎戒をなさっていたため、青白い顔色で、やせていて、ほっそりとした体型であったそうです。

伝承によれば、

ある日、大衆浴場に入りました。そこに鏡に映ったご自身をご覧になり、大変やせていることに気づきました。ご自身を哀れに思い『生涯どなたをも恥ずかしく感じたことはなかったのだが、鏡で自分のやせた体を見ると私自身を恥ずかしく思った』とおっしゃられたそうです」

「なぜ斎戒をするのですか」とたずねると、

「彼が一度に食する量は10口以下でありました。『私の中にまるで竜のような得体の知れぬものが存在しておるので、食べるのを我慢するのは難儀なことよ。されど、私の主から糧が私の魂に届き、私は霊的に満たされたのじゃ』とおっしゃったそうです。

シェムス・テブリーズィーと初めて出会った時、ちょうど6ヶ月間、共に斎戒をして過ごしました。そのように、2人とも食べ物や飲み物そして人間の欲望から遠ざかりました。斎戒明けの食事の時も、一品の料理で足りました。聖メヴラーナの青ざめた顔色にもかかわらず、光に満ち、威厳に満ちていました。

聖 なる神の友の瞳は、非常に魅力的で鋭く、活気に満ちていました。光り輝くまなざしは大変な影響力を備えていました。彼のまなざしの影響力はつよく、知らず 知らずのうちにどなたでも、彼の光溢れる目に視線を注ぐようになり、そして彼のまなざしによって、瞬く間に力強く感化され、まっすぐ見つめることにも耐え られなくなるほどでした。

聖メヴラーナは次のように語っています。

『我 は命(ジャン)の形を見たいと望んだ。我が内なるもようは如何にかと自らに尋ねた。鏡は何ゆえ発見されたのであろうか、何の役にたつのであろうか。あらゆ る人が、鏡を眺めながら、彼ら自身が誰か、そして、如何様に在るかを見知るために、みいだされたのであろう。されど、周知の鏡は、人間の外観、形を示すた めに作られた。命の顔を映す鏡は如何様か、何処に在るか。命を映し出す鏡は、この上なく高価で貴重である。命の鏡とは、ただただ愛するお方の御顔のみ映し 出す。我らの内なる顔、命の顔を映しだす愛されるお方は、この世界には存在せぬ、それは霊的世界に在る』

「学 者達の王」と呼ばれた父の知識と高貴な品性によって、彼は育まれました。愛の坩堝で、燃え、焦がれたこの神の友を正しく理解すること、また伝えることは、 どなたにもできないでしょう。神への熱き愛の影響の下、彼は恨み、嫌悪、害悪、うぬぼれ、名声そして人間のあらゆる欲望を消し去った高貴な存在でした。善 と完璧さを備え、愛と霊知(イルファーン)も持っていました。彼は、熱き愛と霊知の海へ放たれ、対立という考えを溶かし、相互対立という捉え方から救われ ました。善悪という対立の束縛を心から消滅させました。

『メスネヴィー』に記されているところによれば、

『太古(はじめなきはじめ)に、あなたが存在したように、色のない世界に到達すると、そこにはムーサーとフィルアウンの仲睦まじく過ごしているのが見いだせるであろう』

実 際に、波立つこと、泡立つこと、青と緑に見えることは、海の表面上のことです。海を深く潜っていくと波もさまざまな色も存在しません。海の底では、波もな く、たった一色の色がみられるのみです。貴重な著作家シェフィク・ジャンは『メスネヴィー』の訳中でこのように語っています。

『こ の見方には確かな理由が存在します。メヴラーナは、彼の生涯において、あらゆる民族、あらゆる宗派に対して同等な捉え方をしていました。すべての人々に対 して、彼の振る舞い方は同じでした。彼の眼には、イスラーム教徒も、キリスト教徒も、ユダヤ教徒も、拝火教徒もみな同じに見えました。ですから、彼はムス リムでない方々を見下さず、彼らの宗教、信仰に敬意を表す必要が大であることを、みなさんに伝えたかったのです。イスラームの国々では、モスクの隣に教会 やユダヤ教の礼拝堂などが見られます。ムスリムは、これらすべての宗教に対して、敬意を示しています。メヴラーナの完全にイスラーム的なこの考え方を誤解 すべきではありません。イスラームが最後に齎された神の教え(宗教)であること、イスラームの到来によって、すべての神の教えが包括されため、聖ムハンマ ドの伝道した神の教えは、どの宗教よりも優れていると言えます。メヴラーナが唯一性という眼によって、すべての教えを唯一と見ることは、イスラームが、さ まざまな神の教えと同等であると言う意味ではありません。神の教えとして、それぞれの教えは、お互いに同等ですが、齎された統べ方が違っています。イス ラームは最後に齎された神の教えとして、あらゆる教えを包含するわけです。しかし、真実はひとつです。それらすべての宗教、宗派、民族は唯一性という海で は、よせては返す波のごときものです。クルアーン第2 章285節で、『使徒は、主から下されたものを信じる、信者 たちもまた同じである。(かれらは)皆、アッラーと天使たち、諸啓典と使徒たちを信じる。わたしたちは、使徒たちの誰にも差別をつけない(と言 う)。・・・」真の主は、すべての預言者たちを同様にごらんになられました。一方、第2章253節で、『われは、これらの使徒のある者を外の者より以上に 遇した。かれらの中である者には、アッラーが親しく御言葉をかけられるし、またある者は位階を高められた。・・・』と記されています。このように、神の教 えとして、あらゆる教え(宗教)、あらゆる宗派は、唯一であるにもかかわらず、齎された統べ方に違いが起こったわけです。そしてイスラームは最後に齎され た神の教えと言う点で、あらゆる神の教えを包み込みます。

聖 メヴラーナは辛抱強く、柔軟な性質を備えていましたので、すべての人が感嘆しました。心の目が覆われた敵対する者たち、彼に陰口を言うものたちや不適切な 態度を示す者たちに対しても、手厳しい返答をすることなく、彼の高貴な品性によって、寛大な態度で彼らに道を示され、彼らを導きました。

ある伝承によれば、メヴラーナはある日、

72の宗派と、われは共にある』と語りました。

コンヤ出身のスィラージュッディーンは、悪意を持つ人間でした。メヴラーナを傷つけるため、彼の価値を下げるために、彼の近親のものから、一人の学者を選び、聖メヴラーナが、『72 の宗派と、われは共にある』と言ったかどうか確かめるために、彼のもとに送りました。その者にもしメヴラーナが語ったと受け入れたならば、彼をののしり、 侮辱するようにと伝えました。その男はメヴラーナのところへやってきました。そしてメヴラーナに、『あなたは72宗派と共にあるとおっしゃいましたか』と 訪ねました。それに対しメヴラーナは言ったことを否定しませんでした。そして、『いかにも』とこたえました。その男は口をあけると同時にののしり始め、下 品な言葉を発しました。それに対しメヴラーナは、『あなたがおっしゃったことにもかかわらず、私はあなたと共にあります』とおっしゃられました。聖メヴ ラーナは偉大な学者であり、かけがえのない友でありましたが、大変謙虚なお方でした。大人にも、小人にも、地位の高い方にも、一般の民衆にも、誰にでも同 じように振る舞いました。一生涯、うぬぼれや傲慢さは彼自身には一切見られませんでした。彼は若者、年寄り、信仰者、不信仰者などで人を差別することはあ りませんでした。

伝 承によれば、当時ビザンツ帝国の首都であったコンスタンチノープル(イスタンブール)から有名な修道士が聖メヴラーナの偉大さを耳にし、コンヤまでやって きました。コンヤに滞在していたローマの司祭達は、この修道士を出迎え、もてなしました。客である修道士は、聖メヴラーナを訪問したかったのですが、偶然 道でメヴラーナに出遇いました。修道士は敬意を払うため頭を深々とさげました。顔を上げると、メヴラーナの頭を下げている様子を眼にしました。再び頭を下 げ、そして上げました。30回ほど繰り返したのですが、頭を上げる度にそこで、メヴラーナの頭を見ることと相成 り ました。修道士は叫びながら衣服を引き裂きました。そして、『宗教の王者よ、なんと謙虚でへり下ったお方よ、私のような哀れな修道士にこれほどの敬意をお 示しなさるとは』といいました。メヴラーナも、『このような者たちは、なんと幸せであることよ、アッラーは彼を財産、美、誉、尊敬心によってより優れたも のとなし給うた。その者とは、財産を惜しみなく分け与え、美しさと高潔さを保ち、誉れと尊敬心を備え、かつ謙譲さを持つ者である』と言うハディースを、我 らが長、聖ムハンマド(彼に祝福と平安あれ)がおっしゃられた。彼こそが、我らの王であられる。このような預言者に従う共同体の一員であるので、アッラー のしもべたちに、如何せん、謙虚に接せねばなるまい。如何せん、自らの卑小さをあらわさずにいられようか。このようなせぬなら、何に、そして誰になるとい うのだろうか』とおっしゃったそうです」

こ のため、直ぐにこの修道士は友人たちと共に、イスラームに入信し、メヴラーナの弟子となり、修道士の衣服を脱ぎ捨てました。そしてジュッペ(長い衣服)を 身に付けました。そして、聖メヴラーナはメドレセにやってくると、息子のスルターン・ヴェレドにこのようにおっしゃられました。『バハーエッディーンよ、 今日、哀れな修道士は我らの謙虚さを我らから取り去ろうと努めた。されど、アッラーに讃えあれ、アッラーの御恵みと我らの預言者のご援助によって、我々は 彼に我らの謙虚さを奪われずに済んだ。というのは、謙虚さは、信仰者達に遺産として聖ムハンマド(彼に祝福と平安あれ)から残されたものであるから』

聖メヴラーナは、完全にムハンマド(彼に祝福と平安あれ)の道に従い、ムハンマド(彼に祝福と平安あれ)の高潔さを受け継いだため、絶えず自らを小さくご覧になられ、驕りや傲慢さからは程遠い方でした。

  聖メヴラーナが、ある日独居房で専心し礼拝をしておりました。そこへある男が入ってきました。そして、『私は大変貧しいです、何も持っていません』と話し かけました。しかし、その後直ぐメヴラーナが余りにも専心して礼拝をしているのを知ると、礼拝用絨毯を持ち去りました。ホジャ・メチュデッディーン・メレ ウは、この状況を知るや否や、そのものを探しに鳥のように外へ飛び出しました。市場で彼がまさに絨毯を売ろうとした時、取り押さえました。彼を無理やり 引っ張っていき、聖メヴラーナの前へ連れてきました。聖メヴラーナは、『貧しさゆえになしたこと、彼を赦せよ。この絨毯を彼から買い戻せねばならぬのう』 とおっしゃられたそうです。

聖 メヴラーナは、統治者たち、宰相たち、裕福な者達から喜捨され送られてきた物をすべて貧しい人達、必要としている人達に分け、配りました。ご自身は、ファ トワー代やメドレセの教授代によって、生計を立て、過ごされました。ほかの誰からも援助を受けることはありませんでした。4行詩の中で、このように語っています。

『我がアイラン(ヨーグルトの飲み物)の器が目前に在る限り、神に誓って、他人の蜂蜜に関心なぞ持たぬ、困窮が我を死に追いやろうとも、自由を隷属に売ることなぞできぬ』

聖 メヴラーナはこの世とこの世の出来事から退いたのです。修行者としての人生を続けました。忠俊さん、修行者(スーフィー)たちは、物欲からは自由の身であ りました。聖メヴラーナは家に何もないときには喜び、『アッラーに感謝申上げる、今日の我が家は、預言者の家のようである』とおっしゃられました。裕福で はなかったにもかかわらず、まず貧しい者達に援助なさいました。助けを必要としている人々に為した善行、手助けは秘密にし、誰にも知られたいと望みません でした。

 メヴラーナの善い性質、慈悲深さ、丁寧さは、何日お伝えしても伝えきることはできません。彼は700年前、イスラームの国々のみならず、すべての世界で、奴隷達、女奴隷達が動物のように売買され、この哀れな人間達は、家々で、庭々で、田畑でさまざまな仕事に従事させられていた時代に生きていたにもかかわらず、

「奴隷を創り給わぬ神への信仰が我にはある」と言う信条に到達しました。また明白なるクルアーンのルクマーン章の28節で、『あなたがた(無数)の創造もまた復活も,まるで一個の魂を扱うようなものに過ぎない。・・・』

彼 の眼には、奴隷も、女奴隷も、主人も存在しないのです。ある日、聖メヴラーナの娘メリケ・ハートゥンが、彼女の女奴隷を攻め立てていたとき、聖メヴラーナ が戸から入ってきて、厳しく彼女を見つめました。『女奴隷を、何故殴るのか、何の権利があって彼女を傷つけるのか、彼女が主人で、あなたが彼女の女奴隷で あったらなんとする。そのようなことをそなたは望むであろうか。万有においてアッラーのほか、奴隷、女奴隷を持つものは誰もいないと申し伝えよう、そもそ も、奴隷、女奴隷は我々の兄弟である」と、娘をとがめたそうです。娘は過ちを知り、赦しを乞い、彼女を解放し、さらに、持っているすべての衣服を彼女に着 せたそうです。彼は一生涯、奴隷、女奴隷を傷つけることなく、預言者の道に従いました。

聖メヴラーナは人間たちだけでなく動物たちをも助けようと奔走していました。スィヴァス出身のシャイフ・ネフィスッディーンの伝えるところによれば、

『ある朝、聖メヴラーナは、2 ディルヘム(貨幣の単位)分のドーナツ型のパンを買ってくるようにとおっしゃられました。当時パン1つは、1ディルヘムでした。直ぐに、買いに行きまし た。パンを私から受け取られ、ハンカチに包み、立ち去りました。私は、彼の後からゆっくりついていきました。聖メヴラーナは、やっと空き家につきました。 そこには子犬を産んだばかりの野犬一匹がいました。持ってきたパンをすべてその野犬に与えました。この偉大な神の友のこの上ない慈悲深さに感嘆しました。 聖メヴラーナは、『この哀れな野犬は、七昼七夜何も食しておらぬ。生まれたばかりの子犬たちのために、そこから離れるわけにはいかぬのだ』とおっしゃられ ました。

聖メヴラーナは、知識(イリム) についてこのようにおっしゃられました。『まさに40年間、昼となく夜となく果てしのない戦いをして参った。数多く斎戒もし、知識人という病から逃れ、そ の覆いから外へ出ようと願ったのだが、しかし、われはまだそれに捕われておる。心の標識が純粋であればあるほど、真の主への近づくことも、近くなるという もの』

世界で「学者達の王」と呼ばれた父バハーエッディーン・ヴェレドは絶えず、『もし私に、この学びによって手に入れられる知識がなかったなら、霊的知識がより深くなったものを』と語っていました。

我々を真の主に到達させぬもの、我らに真の主を知らしめぬ知識は、知識にあらず。かのユーヌス・エムレも、

『知識とは知そのものを知ること、

知とは自分自身を知ること、

人が自分自身を知らぬのなら、

何ゆえ、人は学ぶのだろうか』

と 詠み、私たちを真の主に到達させない知識は、知ではないと考えていました。知識の持ち主を利己主義へ、傲慢さへと連れ去り、私たちを真の主から遠ざけ、さ らに私たちを疑念と躊躇へと連れ去るのです。ある別の詩人も、このことについて、次のように語っています。『信仰の魅力に取り付かれ、真の主をその心に見 出す文盲な者は、疑惑と躊躇の中でうめく知識人よりも、より価値がある』ということです。

「ユーヌス・エムレとおっしゃいましたか。そのお方はどなたですか」

「ユーヌス・エムレは、私たちがこよなく愛する偉大な詩人の一人です。数々のイラーヒ(神 を讃える詩歌)は、何百年もの間、読み続けられ、何百万人もの信仰を持つ人々に、精神的喜び、高揚を与えました。聖メヴラーナと同時代の方です。この偉大 な二方の共通する顕著な特徴とは、神への熱き愛によって、神との合一を体得したことにあります。二方ともトルコ歴史の中で非常に稀少な存在であり、心と熱 き愛を持つ信仰の人であります。共に同じ道を歩む同行者でもあり、お二方とも、純粋無垢な心に映る神に関する諸真実を、一方は、ペルシア語で、もう一方 は、トルコ語で語りました。異なった言語であっても、ほとばしる血、命、心はひとつです。神への愛の影響により、一方は大海のように活気付き、あふれ出 し、器から飛び出してしまうほどであり、もう一方は深い川のように、滾々(こんこん)と、流れ落ち、流れに流れ、留まることなく流れ続け、真に愛するお方 から離れるつらさ、苦しみを表し続けました。

聖 メヴラーナは、『その葦笛が何を語っているかをよくお聞きくだされ、葦笛は別れの哀訴を奏でている。葦笛は心の言葉で、「私は葦から切り離されてからずっ と、叫び続けている。それを感じ取る男達、女達もまたうめき悲しみ、涙を流す」と語りかける』とおっしゃって、葦笛の叫び、別離のつらさを説明しました。 同様にユーヌス・エムレは、苦痛に喘ぐ戸棚(ドラプ)のうめく姿によって、この別離のつらさを伝えています。

 

とだなよ、なぜうめき悲しむのか、
私には苦しみがある、私はうめく。

 

私をある山でみつけた、

私の枝、私の翼を引きむしった、

とだなにふさわしいと考えて、

そのために私はうめき悲しんでいる。

 

ま た聖メヴラーナは、『我は未熟なりき、我は熟し、燃え焦がれけり』と語り、ユーヌス・エムレもまた、『ユーヌスは粗野で未熟ものなり、されど、熟し候、ア ルハムドリッラー(アッラーに讃えあれ)』と語りました。メヴラーナもユーヌスも、人間本質の真奥に到達し、このように、彼ら自身の中に真の存在を見出す ために、精根を尽くしたのです。

お 二方も政治的、社会的にアナトリアが混乱状態であった時代に生きていたのも関わらず、時代の劣悪さについてはまったく語っていません。というのは、彼らの 眼は、そして心は、内的世界の深い部分へと向けられていました。ですから、これらの完成された方々は、その生涯を通じて、影の存在が生活している祖国では なく、真の祖国、私たちがうまれ出た真の故郷のことを想い続けました。肉体的、物質的不安や困難から解放され、真に愛するお方(神)へ到達したいと言う思慕を抱きながら、生き続けたのです。彼のお方へのつのる思いを詩に託し、高鳴る感情を語ったのです」

「なぜ言語が異なるとおっしゃったのですか」

「この質問をなさるのは当然です、忠俊さん。聖メヴラーナが、昔バルフからやってきたことをあなたにお話ししたことを覚えていらっしゃいますか」

「はい、覚えています。もちろん詩は母語によって書かれたほうが、より優れた形になるでしょうね」

「このお二方、真の主(神) に恋焦がれた方々の言語が同一であったなら、メヴラーナもユーヌスのように、トルコ語で語っていただろう、なんとすばらしいことだったであろう』と言う者 たちが現れました。もちろん、さまざまな考えや望みを、いろいろな方々がおっしゃることは可能です。けれども、ここには重要なポイントが隠されています。 もしメヴラーナが数々の詩をトルコ語で語ったなら、メヴラーナとはならなかったという点です。『スルターン・ヴェレドがトルコ語で語った時のように、生彩 が欠けていると感じたでしょう。さらに申上げれば、メヴラーナは、その生涯を、メドレセではアラビア語とペルシア語で書かれた書物に埋もれて過されたので すし、ご自身はバルフで使われていた東方トルコ語を話されていましたので、トルコ民衆出身の、トルクメンの詩人、ユーヌス・エムレの言葉のようには親しみ が、私たちにはわかなかったでしょう。ユーヌスほどの詩人とはならなかったでしょう』というわけです。

さらに、13 世紀のトルコ語は、16世紀のフズーリーたちやバーキーたちが使っていたトルコ語ほどアラビア語やペルシア語の単語の語彙が豊富ではなく、活気ある言語で はありませんでした。『意味の宝庫、精神の大海』とも異名をとるメヴラーナの深遠な思想や豊かに高鳴る感情を13世紀のトルコ語によって説明することは不 可能でした。ユーヌスのトルコ語のように私たちに呼びかけることはできなかったでしょう。なぜなら、申し上げたようにメヴラーナのトルコ語は東方トルコ語 だったからです。そもそもユーヌスのトルコ語は、アナトリアに定住したとトルコ人達のトルコ語、オウズ方言の純トルコ語でした。後にトルコ語とよばれるこ の方言がアナトリアに広がりました。イスラームの知識人たち、詩人たちは作品をアラビア語かペルシア語で書いていました。

  ユーヌス・エムレに対し、彼が文盲であったと言う者たちがいます。しかしこれは間違いです。ユーヌス・エムレはシェイフ・サアディーの作品の中で、神の美 名の顕現に関する10ベイトからなる抒情詩を、韻文の形でしっかり訳しました。文盲であるなら、どうやって訳すことができたでしょう。ユーヌス、メヴラー ナ、サアディー、アッタール、セナーイのような偉大なイスラームの思索者達の作品を読むことなく、ユーヌス・エムレになることはありえません。このことは フラト・キョプルル博士も、『ユーヌスの修行者(神秘主義者)としての認識は、アナトリアの当時のほかの思索家であるさまざまな神秘主義の大家達の見解と同様に、まさしくジェラーレッディーン・ルーミーから得たものである』と述べています。この真実をユーヌス自身も、

『長メヴラーナが、我らをひと目見たその一瞥から、

一瞬の堂々たるまなざしは、われらの心の鏡となる

メヴラーナは、朋友たちの集いにて神の美酒(愛)と化す』

と 語り、メヴラーナに会うたびに、大いなる精神的喜びに包まれ、心の眼が開かれたことを表しました。ユーヌス・エムレは、聖メヴラーナよりも47年後に、こ の世を去りました。と言うことは、メヴラーナとユーヌスの出会いは、ユーヌス・エムレの若かりし頃と考えられますし、またそうであるべきです。ユーヌス・ エムレは詩作集のある部分を、メヴラーナから引用したと記していますし、聖メヴラーナを、神の友の枢軸と形容しました。お二方ともトルコ人であり、(訳者 注:トルコの人々はメヴラーナが長くアナトリアの地に住んでいたので彼をトルコ人とも捉えています)お二方ともさまざまな霊感をクルアーンとハディースに よって培いました。お二方もアナトリアに住まれ、お互いに心から慕い合いました。お二方もアッラーの御美しさを求め、アッラーの愛によって燃え焦がれまし た。

 神に恋焦がれたユーヌスは、

『われが我の内にあるとおっしゃるな、われは我の内に在らず、

わ れは在る、内なるわれは真のわれなり』と語っています。つまり、修行者達の言う「神とあいま見える期間」と言う段階の愛は、あらゆる微粒子の中に、真の主 を見出すことができます。ユーヌスも、あらゆる苦しみや困難さを「真のわれなるわれ」によって乗り越えました。この「われ」が到達したいと望むただ一つの 的、たった一つの願いは「熱き愛」です。「さあ、ごらんあれ、熱き愛が私を如何に変えたか」と語ったユーヌス、神の恋焦がれるユーヌス、苦悩に満ちたユー ヌス、惨めなユーヌス、無感動なユーヌス、スーフィーのユーヌスが、私達のユーヌスなのです。思索家ユーヌスの資格を有するにもかかわらず、すべての人々 が関心を持つ彼の秘密は隠されたままです。

『恐るべき解き明かせぬ苦悩が私にはあった、

アッラーに讃えあれ、その苦しみを治す薬を私は見出した、

ムハンマド・ムスタファについに私は辿り着いた、

アッラーに讃えあれ、涙を流す代わりに私は微笑んだ』

と語ったユーヌス・エムレに対し、聖メヴラーナは『メスネヴィー』のどの精神的位階に昇っても、そこにはトルクメニスタンの偉大なユーヌスがいらっしゃった」と、おっしゃったそうです。ユーヌスもメヴラーナの『メスネヴィー』に対し、

『肉と骨に包まれて

私はアーダムとなり、姿を現した』

と言ったそうです。メヴラーナに見られる差別なしの人間愛は、ユーヌスにとっても一番大切なものでありました。

『創 造されしものすべてを、われは愛する、ただ創造主の御為に』とは、大変意味深長なことばです。人間にさまざまなことを囁き、深い意味を漂わせています。 アッラーが創り給うたすべてのものを、彼が創り給うたがゆえに、分けへだてなく愛することは、この上なくすばらしい美徳でありましょう。そう思いません か、忠俊さん」

「よくわかりました!たいへん上手に説明してくださいましたね。ありがとうございます。メヴラーナの生きた時代に、ユーヌス・エムレのようなほかの詩人たちとも会ったのですね」

「は いそうです、ほとんどすべての方々と、お会いになったようです。イランで、最も偉大な詩人であり文学者であり、世界的に知られ親しまれているシーラーズの シェイフ、サアディーも、聖メヴラーナと同時代の方でした。彼の『菜園とバラ園』と言う名の作品は、誉れ高き『メスネヴィー』と同様、多くの国々の言語に 訳されたため、メヴラーナのように、サアディーも全世界で知られ、好んで読まれています。サアディーは、多くの国々を旅しました。ある時、アナトリアに やってきてメヴラーナと会ったそうです。

  エフラーキーの伝えるところによると、シーラーズの国の王であったシェムセッディーン・ヒンディーは、ある時シェイフ・サアディーに手紙を書き、彼のもの でも、どなたのものでもよいので彼の気に入った、魂を撫でいつくしむような詩を彼に送ってくれるように頼みました。シェイフ・サアディーは、聖メヴラーナ のものを選び、その当時コンヤから彼に贈られたこの詩を、王にも送りました。

『一瞬ごとに右から左から神への熱き思い、愛を語る声が聞こえてくる。

われらは天高く舞い上がる。

どなたが、我らを眺めたいと思われるか。

あ る時、われらは諸天に在り、天使たちを友とした。我らは瞬く間にかの地へもまた昇り行く。もともとそこは我らの街。実のところ、我らは天よりも高く昇る。 天使達よりも高きにあり。われらの住処、そこは偉大で気高い地なのであるから、我らが諸天をもそして天使達をも超え、舞い上がる。

純真無垢な神の真珠は何処に、土の世界は何処に。何ゆえ、いと高き位階から下り落ちるのか。荷物をまとめ、重荷を背負いなされ。ここは如何なる場所であろうか。

お若きお方よ、我らの土地、愛するお方に命を捧げるのはわれらの務め。我らの力、我らの隊長は、聖ムハンマド・ムスタファ(彼に祝福と平安あれ)であられる。彼の聖なる御顔を見るのに耐えられなかった月は2つに裂けた。月は、彼から光を求め、彼へ祈るただの一しもべであったのだが、そのお方に巡りあう。

 朝風のこの芳しい香りは、命の海から生まれ出た。その聖なるうねりの間から齎される。この幻想的な輝きは、午前の陽にも似て美しい。

我らの心を見つめなされ、さすれば、いつでも、月が2つの避けるのを眺められるであろう。あなたの目を彼のまなざしからそらせ、あなたは別のお方へ向きなさるのか。

 人々は、かの鳥達のように、命の海から生まれ出た。その海から生まれ来る鳥はこの地どのように住むのであろうか。どのように巣を作るのだろうか。

 もとより我らは皆、命の海の中に在り、真の主の御前に在る。かようでなくば、命の海から、次々と、波が押し寄せられるはずもない。われらが、この霊的喜びを感じられるはずもなかろう。

 エレスト(魂が創造され神を彼らの主と約束した時)の波は、「われは汝の主であるか」とさけび、この肉体という船は、魂のために準備された。いつか、時が満ち、船も壊れ、散り散りとなると、(時は)そろそろ巡りあいのころ、愛するお方とあいま見える時に入るのである。

巡りあい、出会いの時とは何か、それはハシュルのとき(集合、審判の日)、 永遠へ至る時である。真の主の恩寵と恩恵の時である。喜びの中の喜びのときである。あなたがごらんになったこの方、この絵、この姿はどなたであるか。この 王は、このお方はどなたであるか。この熟した知とは何か。これらすべては、さるお方(眼に見えない愛するお方)のお顔の覆いである。

覆 いを開き、愛するお方を見出す道は、さまざまな高鳴る感情、溢れ出る情熱、歓喜に満ちた驚きにある。この甘美な感覚、この精神の水のみ場は、あなたの頭と あなたの心の眼の中にある。あなたがたにとって、あなたがたの頭には、このようなものはまったく存在しない。されど、本来あなた方には2つの頭(かしら) がある。一方は足元からやってきた、眼に見える土の頭、もう一方は、天からやってきた眼に見えない清らかな霊的頭。あなたの眼に見える頭は、一方の霊的頭 から作られた。これをお分かりなさるようにと、気高き清き頭は、土の上にこぼれ、散り散りになり土と混ざったのである。真の頭は、隠れて、目には見えな い。それに従う頭は、まさにその真ん中に在る。その世界のかなたには永遠の、終わりのない世界があることを知りなされ』

シェイフ・サアディーは、この詩と共に送った手紙の最後に、このように記しました。

『ルー ムの地に聖なる精神のスルターンが現れました。この詩は彼の神秘なかぐわしい香りを漂わせています。これほどよい言葉は今まで語られたことがございませ ん。これからも語られることはないでしょう。私はこの王にお会いするため、ルームの地に行き、聖なる御み足の置かれた土に、私の頭をすりつけたいのでござ います。私のこの思いを、私たちの王、あなた様にもお分かりいただきたいと存じます』

 王シェムセッディーンはこの抒情詩を読み、大変感動し、はらはらと涙をこぼしました。後に大集会を催し、この抒情詩を読み上げながら、セマーをしたそうです。王は感謝の気持ちを表すために、彼に多くの贈り物をなさいました。

 この詩を語る偉大な神の友に感じたすばらしさゆえに、シェイフ・サアディーはコンヤを訪れ、聖メヴラーナの御手に口付けをする誉れをえることができました。

伝えられるところによると、メヴラーナに会いに行く途中、メヴラーナのために、メヴラーナの形式で抒情詩を詠もうと考えました。頭に次のような最初の行が浮かびました。

『あなたが無我の境地に至るやいなや、世界は互いに混ざり合う』

こ のように詠みましたが、2行目が浮かんできませんでした。そうこうしているうちに、修行場に到着し、セマーする大広間で彼に会いました。メヴラーナは、サ アディーを見るや否や、サアディーが道の途中、頭の中で考えていた抒情詩の最初の行を語りはじめ、最後まで詩を完結しました。目覚めた心を持つ、お互いに 心で語り合う二人。偉大な真の主の愛を共有する作品がこの抒情詩です。それは次のようです。

『あなたが無我の境地に至るやいなや、世界も互いに、混ざり合う。

私 たちの体の中の土は無の塵から創られる。あなたの御顔の光で、私たちの思い出の片隅に輝きを降り注ぐなら、頭(かしら)となる心には、喜びの声が、聖域か ら届く。あなたは希望のバラの花束を、神に恋焦がれる者達の手に渡すがよい、悲しみにひしがれて歩む者達の足にとげが刺さらぬよう』

 

『そなたは語る、「時が熟せば、一瞬にしてわれはそなたと共にあろう」と。されど死が訪れぬうちは、この望みもかなうまい。われは神に熱く燃え焦がれる者でなく、愛の玉座が悔悟の枝から作られるのを知る由もなかった。

 

朋友たちは「いつまで熱望し続けるのかね、そして、いつまで叫び続けるのかね」とわれに語りかける。

 

熱き愛が、熱い望みを作り出す。心、忍耐、知識これらすべては、われらを置き去りにし、消えてしまった、われらには命ひとつが残された。もし悲しみがそなたの悲しみならば、それもまたやってきて、われらと共にあろう。

サアディーは、心の火によって絶えずうめく。彼のうめきの火が、彼の筆に燃え移り、そこから煙が立ち昇る』

 この出来事の後で、メヴラーナが真の心の勇者であると理解したサアディーは、この偉大な神の友へ、限りない敬意と愛を示しました。

  文学者達の王と呼ばれるマラトゥヤ出身のサラーハッディーンの伝えるところによると、エレイリの街、ヌーレッディーン・ヴェファダールの家に、高貴な集団 と偉大なシェイフ達と私はいました。ムウヤェッディーン・ジェネディーは、修行者達の一群と共に、コンヤからやってきました。彼を出迎えできる限りのもて なしをしました。あいさつ、食事、そして雑談の後、聖シェイフ・ムウヤェッディーンに、『聖シェイフ・サドレッディーン・コネヴィーは、聖メヴラーナにつ いてどのようなことを語られましたか。独居中メヴラーナについて、何を感じていたでしょうか』と私は尋ねました。シェイフ・ムウヤェッディーンは、『アッ ラーに誓って申上げるが、ある日、シェイフ・サドレッディーンとマヴスル・シェイフ・サアド・フェルガーニーがいらっしゃいました。聖メヴラーナの人柄と 行動が話題に上りました。正しく深い理解力をもつ聖サドレッディーン・コネヴィーは、胸を高鳴らせながら、『もし聖バヤーズィードや聖ジュナイドが、この 時代に生きていらっしゃったら、アッラーの勇者としてメヴラーナに尊敬と愛を示されたことでありましょう。ムハンマドの宗教に役立つ知識を与え準備する者 は、彼です。私たちは、彼に頼り、彼から益を受けているわけです。私たちの感じるあらゆる熱い喜びは、メヴラーナの聖なる御足の豊かさによるものです』と おっしゃられました。そこに同席していたすべての修行者達は、良い心を取り戻したかのように感じ、口々に、明白な彼の言葉を褒めあいました』と話し終えた 後、『哀れな私も、その聖なる王を乞い求める者達のひとりです』と付け加えました。

聖 メヴラーナもシェイフ・サドレッディーン・コネヴィーも同じ街コンヤに、同時代に生きた偉大な神の友たちでした。お互いへ示しあった愛と尊敬には、感嘆せ ずに入られません。真の主を乞い求める者たちに道を示しながらも、お互いに嫉妬やねたみなどは、小さなシェイフ達に任せ一切持たず、人間として模範となり ました。ですから、彼らを思う時、敬意と感謝の気持ちを忘れてはいけません」

忠俊は、

「お話して下さればするほど、驚きが増してきます」

ガイドは、

「聖 メヴラーナの考えと行動、生き方はイスラームと聖ムハンマド(彼に祝福と平安あれ)の慣行に基づいています。彼の高徳さは、聖ムハンマド(彼に祝福と平安 あれ)のそれなのです。ある日、聖メヴラーナは貧しさ、怒り、謙遜について説教なさいました。おっしゃるには、『ホソヒバやポプラのように実らない木々の 頭は常に上に伸びていく。枝も上へ伸びている。実のなる木は、実がなり始めると、すべての枝は下へ垂れる。熟した人間も謙虚で、下へとむかう』と仰いまし た。聖ムハンマド(彼に祝福と平安あれ)は、まさしく限りなく謙虚でいらっしゃいました。どの預言者よりも、そしてすべての神の友たちよりも、謙虚で忍耐強いお方でした。聖ムハンマド(彼にアッラーの祝福と平安あれ)は、

『人々に対し謙虚であるように、そして善い性格によって振舞うように、私は命じられた。今まで、どの預言者も私ほど受難を受けなかった』とおっしゃったそうです。聖なる頭が傷つけられ、聖なる歯が折れてしまった時、限りなく寛大であったので、怪我をさせた人々のために、

『アッ ラーよ、民たちに正しい道をお示しください。彼らは知らないのです。真実が、わからないのです』と、真の主に心からお祈りしました。他のある預言者たちは 迫害された時、彼ら自身の民に呪いの祈りをしました。そのため、彼らの頭上からは石が降り、その他のもさまざまな災害が起こりました。聖ムハンマド(彼にアッラーの祝福と平安あれ)ほど、すべての人々の平安と安全を望まれた方はいません。メヴラーナも、彼と同じ道を歩む真の主を愛する者の一人です」

聖メヴラーナと同時に、詳しく学び探求し考えてみる必要のある方は、この先、聖ムハンマド(彼にアッラーの祝福と平安あれ)となるでしょう」

 「インシャアッラー(アッラーがお望みにならば)、忠俊さん」といい、ガイドは、時計を見た。もうこんな時間かと思いながら、

「もう、そろそろ行きましょうか、忠俊さん。もう少し遅くなると、席がみつからないかもしれませんから」と言った。

 

メヴラーナをこよなく愛する長髪の男

  ガイドと忠俊は講演場へ急ぎ、そして席に着きました。ガイドは、講演者がイスタンブール文化大学文理学部、トルコ文学科長であり、メヴラーナをこよなく愛 する教授で、名前はイスケンデル・パラ氏であることを短く伝えた。間もなくすると講演台に彼は立ち、聴衆にむかって挨拶をした。長髪の作家は珍しいいでた ちだった。

 ガイドはイスケンデル・パラの演説を、忠俊に声を落として訳し伝え始めた。

「こ れからお話しするテーマは、太古の昔(はじめなきはじめ)、私たちの魂が存在した時から、知られてきたことです。今、聖メヴラーナの愛の季候について、お 話しようとしています。ここへ来る前、本をいろいろと読みました。聖メヴラーナの『偉大な詩作集』『メスネヴィー』そしてその他の著作も。始めから最後ま で、愛が綴られていることを確信しました。愛、そして愛はどのようであるかを、聖メヴラーナが語ると、よりすばらしくきこえます。彼の愛は、繊細な愛であ り、それは、彼の語るすべての言葉の中に純化されました。すべての言葉が、50回以上考えた後で綴られました。『愛が存在しなければ、あらゆるものは、そ の場に氷のように凍りついたであろう』と語ったそうです。

  アッラーを愛し恋焦がれる者たちは、粉引をひく臼のように、昼も夜も回り続け、泣きうめきます。川のように、流れて行きます、あなた方は、川が留まること がないのをご覧になります。もし川の高鳴りを知ることができなければ、水車の所へ行って御覧なさい。目に見えない愛されるお方をそこに見出してください。 そこでも、見出せなければ、天空を御覧なさい。そこをよく見て下さい。

万有が創造される以前から、愛が存在しました。はじめに愛が在りました。聖ムハンマド(彼に祝福と平安あれ)に、私達の主は、『そなたが居ぬなら、われは何も創らなかったであろう』と、仰せになりました。アッラーの使徒(ラスールッラー)がいらっしゃらなかったなら、存在するものは何も創られなかったわけです。

聖メヴラーナの考えでは、創造を次のように伝えています。

世 界が存在する前に、クン・ムハンマダー(ムハンマドよ、あれ)と仰せになり、彼は光となりました。彼の輝く、壮大な、美しいまなざしに彼は汗し、汗は留ま ることはありませんでした。ただこの様に言葉を発しました。『アッラー以外に神はなし』と、アッラーは返答し給いました。『ムハンマドはアッラーの使徒な り』と。クルアーンの節にあるように、『われに一歩近づく者に、われは走り寄るであろう』と。それから、しばらく汗をかき続けました。クン(あれ)という 命を受けすべてのものが、彼の愛によって、存在し始めました。クンの命令に従って、すべてのものはあふれ出ました。7層の天空、銀河、星雲、ブラックホー ル、諸世界が創られました。そして4大要素である、土、空気、水、火ができ、これらが化合して、植物、無機物、動物、ヒトが生まれ、アーダムが創られたのです。アーダムの光が、変わることなく、私たちの長(彼に祝福と平安あれ)の額にまで、受け継がれました。

エ レストゥ・ベズィム(主が魂たちを創り給い、「われはあなた方の主ではないか」と尋ねたとき魂たちが「はいそうです」と答えた時をさす)に、人間の魂達 は、お互いを愛し合いました。この愛の軌跡により、この世で我々が愛し合うのです。その昔エレストゥ・ベズィムの時からずっと。今日、見知らぬ人にあった 時、まるで昔からの知り合いのように、お互いを愛し合っていたかのように感じることがありますが、その理由は、この魂たちが創造され、アッラーを神と認め た時に、われらの魂が、お互いを愛し合ったことによるためです。

 そして、愛によって、「回る動き」が始まりました。原子核の回転のように、そして細胞、血液が体の中を循環するように、脳で思考が回転するように、そうです、愛とは一種の回転(戻る)です。人間は、愛を知った位階へ戻るため、さまざまな道を見出してきました。聖メヴラーナも愛の名をこのように名づけました。天空の決まりは、愛によって、一切留まることも、休むことなく・・・心よ、あなたの中の循環も、この世のそれぞれの細胞の回転も、愛によるものです。

愛 の引力の他何もなく、それは一種の出会いです。エレストゥ・ベズィムで、至高なるアッラーは、『われはあなた方の主であるか』と尋ねた時、魂たちが、『は い、あなたは私たちの主です』と答えました。果たして、私たちはその言葉を守っているのでしょうか。私たちが守っているかどうかを試すために、私達の魂に 肉体を着せたのです。

『秘密は、ふさわしいもの以外には語られることはない、

天空に愛が存在しなければ、これほど輝かしくあったであろうか?

海に愛が存在しなかったら、これほど波が打ち寄せたであろうか?

愛によって眺めれば、あなたが創り給うた全ての有を称賛せずにはいられない、

心を開かぬものは、開かれた心を見出せぬ』

海が愛を知らなかったら、この様に波打ち寄せることができたでしょうか、凍ってしまったでしょう。凍った、止まったものを愛が始動させます。動きは状態のひとつです。

男 は女に糧を与えるために巡り続けます。天空も女に糧を与える男のように、地上の周りを回り続けます。地上は、女性としての役目を果たし、子供が生まれま す。育てるために、身を粉にして働き続けます。ということは、万有に存在する一つの愛が、結婚において、子供を誕生させるわけです。

 あらゆるものが、アッラーを称讃します。すべてのものにアッラーの息吹が存在します。大切なことは、存在の本質を見つめることです。

  聖メヴラーナの道に従って進む者たちは、口から発する言葉を、常に考えながら使う「明かりをつけて」とは言わずに、「明かりを目覚めさせよ」といいます。 「戸を閉めよ」と言わずに、「戸を秘めよ」と言います。「明かりを消しなさい」とは言わずに、「明かりを休ませなさい」といいます。

天 地には、ある愛が息づいています。愛は、ほかのものを目にしません。もし他のものを見ることがあれば、それは、愛ではなく、空しい熱望です。真の愛が育つ 心には、愛するお方しか見えません。他の者を見ません。愛とは、なんとも強い炎であり、愛するお方の他、すべてを焼き、消し去らせます。

もし、この世で真の愛するお方にあいまみえるために、私たちが生きていないなら、それは、愛ではありません。

聖メヴラーナも、『私はさるお方にこれほどまでも恋焦がれている。私のすべてが彼の虜となった』と語りました。また、『最も美しいものそれは、完全なる神の美である。最も美しいもの(神)が、すべての美しさの源である。水滴、一滴一滴が海の一部分であるように、美しいものすべては、彼の一部分である。すべての美しさとは、彼(神)である』とも語っています。

蟻のように小さく、そこで消えていくものもあります。しかし、善を意図する完全な美か ら映し出された美しさの一粒を得ることも可能です。開かれた戸から陽の光が差し込むと、光の中に凍りついた粒子を見出すでしょう。それぞれの粒子は、お互 いにぶつかり合います。どの粒も陽の光を受けることができる候補者です。太陽の光を受けると塵(粒子)は光り輝きます。愛によって、心を輝かせる人間のよ うに・・・彼の方(神)は美しいお方であり、美しいものを愛されます。

絵を見て、その絵を描いた画家に思いを馳せるでしょう。創られたものを見て、彼らを創り給うたお方を想うことが、創造者へ到達する道であり、それが愛です。

フズーリーも、『「エレストゥ・ベズィムで、私はこの上なく熱き愛を感じたが、未だに愛の美酒を私に送ってくださるのは、どなたかな?」と尋ねると、「私は、いにしえの美酒によって私自身を消し去った」』と語りました。

偉大な修行者のある大家達は、この世にいることをまるで異郷の地に捨てられたかのように捉えます。母の子宮の中で胎児は、すべてが整っていると感じるように、彼らは、天国にすべてが整っていると感じるのです。

異郷の地(こ の世)は、試される客室です。ある所にお客としていく時、あなた方は振る舞いに注意を払うでしょう。客として留まるのは一時的です。それにもかかわらず、 私たちはその異郷の地で主人としてふるまいます。客であることを忘れます。この世を永遠の住処と勘違いします。客として滞在する時、ずっと家にいる時のよ うに、振舞うことができますか。そのようになさるなら、その家のご主人は喜びません。

心 のまなざしで眺めると、子供は異郷の地に行くとなきます。死んだ人の眼に涙が見られると言われます。まるで誕生する時に泣いたように・・・生まれる時、 やってきた世界よりもより広く快適な世界に来たことを知らないので泣きます。同様に、死ぬときも、より快適な世界へ行くことを知らないため涙を流します」

忠俊は、ガイドの耳元に近づいて、

「このテーマはあなたもお話してくださいましたね」

ガイドは、

「そうです。聖メヴラーナは『メスネヴィー』で語っています」と言いながら、イスケンデル・パラの物静かな、同時にあふれ出るような、影響力の強い話を訳しながら、忠俊に小さな声で伝え続けていた。

「何 世紀もの間、多くの人々が死んでいきました。考えたことがありますか。周りにあるお墓を訪れて、そこで見出される名前を思い出し、考えて見て下さい。さま ざまな墓に横たわる者達のうち何百年後かに、まだなお記憶に留められ、思い起こされる者は誰か?彼らは誰か?思い起こされるのは、アーシュク、熱き愛に燃 え焦がれる者達です。

カ イスは、ある砂漠の狂人でした。この上なく夢中に神を愛したとのことです。知性を持つ者たちは、何世紀もの間、彼の愛の強さを語り続けています。なんとも ものすごい狂い方であったので、理性あるふるまいを自分自身の中で制御することが困難のようでありました。彼の父親は理性を取り戻させるために、修行場へ 連れて行きました。しかし、カイスは、修行場で、『アッラーよ、愛のための苦しさを一瞬たりとも取り除かないでください』と祈りました。

聖メヴラーナは、『メスネヴィー』の5巻で、

マジュヌーンの親戚の者達が彼に、『ライラーはそれほど美しくはあるまい。我々の町には彼女より美しい者たちがおる。そなたに一人、二人、いや十人お見せしよう。その中の一人を選べ。そなた自身も、我々もこの心配と苦しみから救われよう』といいました。

マジュヌーンは、彼らに、『私達の肉体、形、姿はそれぞれ壺のようなものです。美もまた神の美酒です。真の主が私にライラーの姿形によって美酒を送り給いました』と返答したそうです。

ある修行場で従事する者は、はじめに、自分自身の自我を消滅させます。人間は存在するために消滅するのです。(肉体的に消滅すること)

2種類の人間が存在します。

第一は、時を消費する者達、

第二は、時を生産する者達です。

私たちは時を生産する者達を訪問します。この時を生産する者達を、人間たちは何世紀立っても忘れず、よい祈りを彼らのために捧げます。

2、 3、5世代後、私達の名を思い出すでしょうか。忘れ去られるのでしょうか。200年後、私たちのためによい祈りをしてくれるでしょうか。このように考えて 見なければなりません。ハッラージュ・マンスールも、『私の死の中に、私にとっての生がある』と語ったそうです。『メスネヴィー』の5巻で、異郷からの故 郷への帰郷について綴られています。

  フズーリーも、『もし千もの命があったら、何度も何度もすべてをあなたに捧げることができたなら。砕け散った私の心の破片をひとつずつ、あなたにもう一度 捧げることができたなら』と、ペルシア語で読み続けました。愛するお方ただ一人を愛する、何千もの神を愛し焦がれる人々が存在します。これらの熱き愛に燃 える者達の一人一人が、愛するお方の名を聞くと、涙を流し始めます。たとえば、ワフシーがムスリムになった後、『アッラーの使徒(彼に祝福と平安あれ) は、彼がイスラームに入信したことを喜ばれ、祝福なさいましたが、彼の見えるところには現れないようにとおっしゃったため、ワフシーは、礼拝所に遅くやっ てきて、一団の後ろに隠れて、アッラーの預言者(彼に祝福と平安あれ)を見ました。そして、時々頭を伸ばして、ためらいながら、「お顔を拝見できるだろう か」と、いくばくかの期待も込めて見ていました。何千もの人々は、愛するお方ただ一人を眺めようとして、誰もがそのような見方をなさいます。『私をみな さった。あのよきまなざしは、私に微笑みかけた。いや私に微笑みかけたのだ』と言われるでしょう。しかしながら、彼のまなざしは、神を愛するものたちすべ ての人々へ注がれているのです。

愛する者がデートの約束が必要な時は、愛されるものがその日時を決定します。毎日5回の礼拝は、愛するお方が私たちへの約束をして下さった日時なのです。私達を受け入れるために。

愛する者達は、愛される者の為に何千回命を捧げながら、その愛を証明しようとします。

愛する者はすべて、愛される者に至るために、出発をするのです。道の途中には、数々の障害もあります。しかし、誰かを愛する者と見なす時、その者は、同時に愛される者であると知ってください。海と一滴は何の違いもありません。アッラー(偉 大さ、高貴さ、壮大さは彼にこそ相応しい)は、人間をご自身の形に似せて創り給いました。愛される者達の愛する者への愛は秘められたものです。もう一方 は、ダウルとズルナ(太鼓と木管楽器)のようであります。ライラーとマジュヌーンの愛に見るなら、マジュヌーンの愛は、ダウルとズルナです。ライラーの愛 は、秘められています。秘められた愛は、殉教をも約束します。ライラーに、愛について尋ねました。彼女は、「マヌジュヌーンなることは容易です」と語った そうです。つまり、愛する者と愛される者はまったく異なるのです。ろうそくと蛾の愛の関係のように、蝶(蛾)は光を求めます。光への愛によって、蛾は光の 周りを回り始めます。回りまわって、さらに回り続けます。回るごとに、さらに熱中していきます。回れる限り回るのです。そして回り続ける限り、その輪も広 がっていきます。そして、ある瞬間に到達すると、今度は愛するもの(光)に触れてみたくなります。ほんのちょっとでいいから、触りたくなり、羽の先を少し 触れさせます。すると、羽の先が燃え、燃えることで痛みや責め苦を感じます。同時に、この責め苦から蛾は、甘美さも感じます。ある詩にも、『苦しみを喜び とするもの、虜になった者は楽しみを感じるのに、何を捜し求めるのか』と語られているように、(カールバラーのとき、魂たちが主に「私はあなたの主ではな いか」と尋ねられたとき、愛はバラー(はい、苦しみの意味もある)を望んだではありませんか)蛾も背負わされた責め苦から甘美さを味わいます。そのように 燃えることが、蛾にとってはこの上ない喜びと感じられ、再び燃えたいと望み、非常に高揚した状態の中、ある瞬間が来ると、光を抱擁したいと望むのです。そ して、とうとう光を抱き、燃え焦げ、小さくなって地面に落ちていきます。このように、蛾が燃えたことなど、ろうそくの知る限りではありません。しかし、何 千回も蛾は命を捧げるのです。これが蛾の愛であり、命の捧げ方です。

 忠俊はこの蛾の旋回が、セマーの集会での旋回と呼応していることに直ぐに気がつきました。ガイドの耳元に近づいて、

「セマーの旋回の理由が、今よくわかりました」と言った。

ガイドは、

「あなたの連想は、見事に的中しています、忠俊さん」と、いいながら訳を続けた。

「ろうそくの愛は、まず火をつけることで燃えはじめます。燃えるのは、命の芯です(遺伝子の構造を探求した結果、生命の糸(芯) は、染色体であることが発見されました)。ろうそくは命の芯が燃えているのでそれを消すために、水を必要とします。この水が、涙です。ろうそくは一滴一 滴、涙を流します。自分の流した涙が溶け続けて、ついにその中で溺れて、消えてなくなります。生命の糸も燃えて消え去るのです。愛の中で溺れます。これが ろうそくの愛です。

 完璧なる美しさを備えたお方を愛することなく、これらの蛾は、どうして燃えに燃え尽きて、地面に落ちることがありましょうや」

愛は人間の病を明らかにするアストロラーベ、案内人、手引書でもあります。最後に私達をかの地へ連れて行ってくれる水先案内人です」

  愛の鎖のどの輪にも、それぞれ異なった狂気が与えられています。知性を取り戻すため、治療に連れて行かれたカイスが、『アッラーよ、愛の苦しみを、私から 取り除かないで下さい、私を、私に置き去りにしないで下さい』と祈ったために、私たちは今日でも、彼を敬愛し、思い起こすわけです。

  愛には、個人的利益は伴いません。利己的考えも伴いません。愛は賭けをすると、勝つと同時に負けます。愛とは、真の主から得たものを人々に与えること、勇 気を与えることです。核心を与えることです。すべてを惜しみなく与え、純化し、救われることです。このように与える時、個人的利益は伴いません。

ユーヌスも、

『天国、天国という者達、

諸々の宮殿、乙女達、

欲しがるものに与えよ、それらを、

私にはあなたが必要、あなたのみが、』と語ったのですが、個人的利益は一切かえりみられていません。

聖メヴラーナも、

『どのようなことも私は語ろう、

だが愛についてとなると、筆は真二つ割れてしまった』と語りながら、自己利益のない愛によって伝えようとしました。そして、『愛の道は、あらゆる作法に勝る』といい、礼節がいつでも大切であることを伝えました」

 「愛とは何か、今以前よりもよくわかったような気がします」

「そうですね、忠俊さん、最も善きお方に、私達は、愛によって到達できます」

 長髪の、メヴラーナをこよなく愛する者は、ガイドが伝えてきたことを証明したかのようであり、忠俊の心に深い軌跡を残しました。演説が終わったことが、忠俊を悲しくさせました。

「あなたに何かをもっと望んでいることを気づきました、ホテルまでご一緒していただけませんか」

ガイドは忠俊が話しを聞きたがっていることを知っていたので、申し出を受け入れた。

 

メヴラーナとイスラーム

忠 俊とガイドはホテル到着した。ホテルのスタッフに紅茶と軽食を持ってくるよう頼んだ。ガイドは忠俊にイスラームとメヴラーナについて、話す時がついにきた と思った。なぜなら、イスラームとメヴラーナは分かつことができない一体なものであったから。聖メヴラーナは、一生涯、アッラーと預言者(彼に祝福と平安 あれ)の慣行から逸れたことはなく、彼の光を人々に映し出す模範となる人間であった。

「忠俊さん、あなたにメヴラーナとイスラームについて、お話ししたいのですが、いかがですか」

「あなたは私の心を見抜くことができるようですね。このように非常に貴重な方が信じ、それに基づいて、生きぬいたイスラームの教えを学びたいと思っていました」

「忠 俊さん、シェフィク・ジャンが語っているように、聖メヴラーナは、文学的才能によって、イスラーム的人間的な考え方や感じ方を、すべての人々が理解できる 形、比喩、物語などを用いて、上手に、楽しく説明しました。信仰と愛の力によって、感受性が強く詩を理解する人は誰でも、彼の虜となりました。この理由は 彼の作品や詩は、他の宗教からイスラームに入ろうとする者達にとって魔法の架け橋となったのです。何世紀も前、イスラームの国々に侵入してきた十字軍を追 い払うために、クルチュ・アルスラーンやサラーハッディーン・エイユービーたちがライオンのように戦ったように、メヴラーナは誰にも信仰を強制せず、誰を も不信仰者と呼ばず、ただイスラームの基本条項に基づいて、彼らにムハンマド(彼に祝福と平安あれ)の道について知らせ、彼の作品や詩集や講話によって、 イスラームではない人々の信条とムハンマド(彼に祝福と平安あれ)にふさわしくない振る舞いと戦い続けた偉大な神の友、高貴な完成された人間です。『ムハ ンマド(彼に祝福と平安あれ)の道より、より正しい道を、私は知らない』と彼は述べました。何十年も過ぎてから、彼の父上が、バルフで語ったことを、コン ヤで四行詩として綴りました。それはこのようです。

『私 の命のある限り、私はクルアーンの虜となったしもべである。私は、長ムハンマドの道の土である。もし私の語る言葉から、これ以外の意味を取り出し伝えるの なら、私をそのように伝える者も、その言葉も、私は忌み嫌うであろう』とおっしゃって、他の意味を見出す者達がいたなら、審判の日に、彼らを訴えるとおっ しゃったそうです。

  ご存知のように、父上は「学者たちの王」であるバハーエッディーン・ヴェレドであり、聖メヴラーナは「賢者たちの王」であり、お二方とも、諸世界に慈悲と して送られたムハンマド(彼に祝福と平安あれ)の道を歩みました。お二方も、イスラーム以外の信仰によって、イスラームを中から崩したいと願っている逸脱 した考えと戦い続けました。そして、諸作品によって、信仰者たちに警告し、彼らに正しいムハンマド(彼に祝福と平安あれ)の道を示し続けました。彼らの残 した作品は、現在も尚その役目を果たし続けています。

聖 メヴラーナは、心の人であり、真にアッラーを愛するものでありました。彼の作品のすべての中でも、彼はイスラームの真髄、基本から微塵たりともはなれるこ とはありませんでした。機会があれば、クルアーンとハディースの解説をしています。彼の霊感(ひらめき)の源は、アッラーへの愛、クルアーンへの愛、預言 者への愛、そして人間への愛なのです。彼のすべての作品を深く読み調べるなら、イスラームと袂を分かつような、イスラームに相応しく考えが、まったく無い ことがお分かりになるでしょう。イスラームに相応しくない考え方を見出したら、それは彼の作品ではないと疑ってみてください。そして、お調べください。信 頼できる詩集を、ご覧になってください。頭の中に残ったその詩は、メヴラーナの作品ではないことがわかるでしょう。その詩は、メヴラーナの詩の中に混ざっ てしまったのです。何世紀もの間に、ペルシア語から翻訳されたものもありますが、それらも信頼すべきではありません。なぜならメヴラーナのイスラーム的捉 え方を、イスラームとは違う間違った逸脱した考えだと偽って伝え、異なった信仰へ引っ張ろうとする輩が存在するからです。聖メヴラーナは、作品の中で、イ スラームと関連しない話や宗派や信条や見解や考え方等々と戦い続けてきました。「存在の単一性」を解するクルアーンの諸節と預言者のハディースから影響を 強くいうけ、それに従って説明していました。クルアーンに、『われは地上と天空には入りきらない、信仰者の心にはいる』と言及されているように、私たちは かのお方(神)を私たちの心の中で捜し求めなければなりません。

ユーヌス・エムレも、

『私にはわれが存在するが、そのわれは私よりもっと中に在る』という時、彼の心の中に彼、アッラーについて伝えようとしているのです。

 預言者ムハンマド(彼に祝福と平安あれ)は、

『詩人たちの言葉は天国の鍵である』とおっしゃって真にアッラーを愛する者達の詩が、アッラーの御言葉を解説していると述べられました。

 預言者ムハンマドのハディースによれば、

『いと高きアッラーは神の友たちのために、なんとも見事な葡萄酒(神 への愛)を用意し給い、それを飲むと、彼らは酔う。心地よい状態になり、我を忘れる。我を忘れる者たちはのどが渇き、言葉を失う』とおっしゃられたそうで す。美しきものは、最良で偉大な創造主の美しさのそれを映し出します。まるで霊的葡萄酒、熱愛の葡萄酒を飲んだかのように、自我消滅、無我の境地に至ると 伝えています。

 聖預言者が、『凡そ弓2 つ,いやそれよりも近い距離であったか』(53章9節)の節で語られたように、真の主に完全に近づき、その栄誉を高められ、恵みを与えられると、いと高く 壮大で美しいアッラーを精神の眼で見、神の信託と神の暗号を解くことができた時、言葉にはならない精神的喜びの中で我を忘れます。高貴な聖預言に我を忘れ させたこの精神の葡萄酒(神への愛)は、愛の美酒であり真の霊酒でありました。

聖メヴラーナは、アッラーの純粋なしもべたちに我を忘れさせ、この霊的葡萄酒(神への愛)について数多くの詩を残しました」

「その詩の中からひとつ読んでいただけますか」

「私を大変感動させる『偉大な詩作集』の中からひとつ詩をあなたにお読みしましょうね」

『それはなんとも見事な葡萄酒(神 への愛)であり、一滴でもこぼれ落ちようものなら、草も出ない荒れた土地からバラが芽を出しバラ園となる。なんとも光沢のあるルビーのような見事な色彩を 持つ葡萄酒(神への愛)なので、真夜中に溢れ出ると、天と地に満ち溢れ、燦然と輝いた。きたれ、私の心に秘密が隠されている。ルビー色の酒(神への愛)を 差し上げよう、心の覆いが開かれるように。秘密が明らかになるように。愛するお方よ、あなたが私をあなたの美しさによって酔わせるたびに、私をお眺めくだ され。狩りをする時の酔いしれたライオンが、如何にかごらんなされ。洞窟の友たち、その若者たちの状態をごらんなされ。彼らはこの愛の葡萄酒を飲み、ちょ うど390年、荒れ果てた洞窟の中で横たわり、眠り続けた。あの葡萄酒(神への愛)はなんとも見事な酒であることよ、預言者ムーサーがそれを魔法使いたち に与えると、彼らは酔い始め、陶酔し、手足を折った。エジプトの女性たちはユースフ(預言者の一人)の美しさに酔いしれ、ヘンナで染めた指を粉々に刻ん だ。剣を持つ者たちの前に、盾も鎧もなく放り出された教友は、聖ムハンマドが届けた信仰の葡萄酒(神への愛)によって酔い、陶酔した。いやいや誤って申上 げた。聖ムハンマドが与えたのでないのだから、酒も届けたわけではない。彼は、真の主によってなみなみと注がれた酒杯であった。善き者達へ、成熟者たち へ、葡萄酒(神への愛)を届け給うたのは真の主アッラー。アドハムはどの葡萄酒を飲んだのか、陶酔し、王冠を捨て国々から逃げ出した。なんとも見事に陶酔 したものよ、バヤーズィードも、この葡萄酒(神への愛)を飲むと、『われは超越せしもの、われに栄光あれ』と語った。同じ葡萄酒(神への愛)を飲むと、 ハッラージュ・マンスールは陶酔し、『われは神なり』と叫び、絞首台へ引き出された。その葡萄酒の香りによって、水は清められ、清水となった。酔いしれる 者達のように、跪き、谷川となり、海へ駆けるようにながれ始めた。この真っ暗な夜に、思いに浮かぶものといえば、その霊酒(神へ愛)のみ。さかずき一杯で 人を寝かせ、彼らを困難から救う。その比類なき偉大な芸術家の恵みと善を、如何に語ろうとも語りつくせぬ。かの方の権能の海の端さえ見ることはかなわぬの に。我らは熱き愛の酒を飲もうではないか。陶酔の葡萄から作られた美酒を。清い酒、永遠の命の水を。一方(我々が知っている通常の葡萄酒)は汚水である。 葡萄酒は、飲むものを時には汚し、ときには醜くさせる。その赤い酒は、最後にあなたの顔を真黒くする。アッラーの霊酒の器とは、心である。その器の注ぎ口 を開けなされ、その器の注ぎ口を悪戯好きの自然が粘土によって覆ってしまった。その穢れた粘土を注ぎ口から取り去りなされ』」

「とてもすばらしい。メヴラーナの中の、その大いなる神への熱き愛を、さらに理解し始めたような気がいたします」

「そ うです。その神への熱き愛が、聖メヴラーナを人間的なあらゆる欲望やさまざまな害悪から守り、それらを浄化させたのです。人間を精神的価値あるものを預け られた優れた存在として捉える原因がここにあります。どの宗教の方であろうと、どの宗派の方であろうとも、彼は人間を慈しみました。そのため、あらゆる宗 教に敬意を表しました。少し前このことについて申し上げましたが、このために神の友の棺の後からは、ムスリムのみではなく、キリスト教徒もユダヤ教徒も、 共に涙を流しました。

  聖エフラーキーによれば、コンヤのある説教者が、キリスト教について話す時、『アッラーに讃えあれ、我々を不信仰者とはなさらなかった』と語ったそうで す。この言葉がメヴラーナの耳に入るや否や、この言葉を語ったものに対して、『彼は道を反れた者であり、また彼の信条によって、人々をも逸脱させる。彼は 自分自身をキリスト教徒の秤にかけて、1ディルヘム重くなったと自慢しておる。来なされ、自分自身を預言者達、成熟者の秤でおはかりなされ。さすれば真の 価値を理解なさるだろう』とおっしゃったそうです。

メ ヴラーナのすべての宗教に敬意を払うことは、すべての宗教や宗派が同一で同等あるということを意味しません。ここではイスラームも、他の宗教も、同一とみ るのではなく、全ての宗教に内在する真実を同一と見ること、それがこの話のポイントとなります。そうです、聖ムハンマド(彼に祝福と平安あれ)は最後の預 言者であり、伝えられた宗教も最後の神の教えであるため、イスラームはそれ以前存在したあらゆる宗教を権力で制圧しようとせずそのままにしておきました。 このため誰の側につくということもなく、知識と熱き愛によって行動する者やさまざまな宗教をよく調べ、そして宗教の真実を理解する西洋の知識人達は、イス ラームの道を選んだわけです。たとえば、有名な英国作家バーナードショーは、『イスラームは人間にとって、最後の宗教となるであろう』と語りました。

 聖メヴラーナは、誉れ高き『メスネヴィー』の1巻500の二行連句の冒頭でも、同じようなことを綴っています。

『宗 教間の相違や不一致は振る舞いの仕方や崇拝行為の仕方にある。道の真実性においてではない』正に、さまざまな宗教さまざまな宗派もまた、アッラーの美名と 属性の顕現のために形成されたのです。この道について、誰にも何もいう権利などありません。『それぞれの宗派に属す人々はそれぞれの信念と他の信念とを比 べて誤った部分があったとしてもそれを正しいと確信し、その確信した道を歩んできました』と、シェフィク・ジャンも記しています。(シェフィク・ジャン、 メヴラーナ頁146) 

聖メヴラーナはそのことを、『メスネヴィー』の2行連句で解説しています。

『世 界には天まで一段一段登っていく秘密の階段がある。各々の集団にはそれぞれの階段がある。各々の歩みにはそれぞれの天空が存在する。各々は他の状態につい て知らない。諸天は広々としており、誠に壮大な国である。限りなく広く、無限に続き、創(はじ)めも、終わりもない』

  この二行連句からわかるように、聖メヴラーナが、ムスリム以外の人々にも決して軽々しく接することはなく、不信仰の人々に対しても、責めるような姿勢は一 度も見せたことはありませんでした。イスラームのほかの諸宗教は「真の宗教」ではないけれども、真の主の真理と管理下にある宗教です。

  人間の信仰と崇拝行為に対して、真の主の大いなる真理と管理が顕現する「正しく導かれた道」の外に放置された人々も、アッラーのご命令と神意の下に「逸脱 の道」つまり、それた道を歩くしもべ者達です。そのためクルアーンでは、諸節は「ムスリム達の主」で始まらずに、「万有の主、あらゆる存在、あらゆり人 々、全ての被造物の主」で始まります。このことをよく留意しておかなければなりませんが、正しく導かれた道も、逸脱の道も、ただアッラーのみが創り給いま す。全てのことは、彼のご命令と創(はじ)めなく続く彼の神意によっています。逸脱の道に残された者でも、アッラーのお許しがあれば正しい導きを得ること ができます。正しい道を歩む者達も、アッラーがお望みならば逸脱の道に一瞬にして落ちることもありえます。これが現前なる真実でありますが、アッラーの許 しの下に、私達の努力も熱意もその役割を果たすことができるのです。そのため、ある修行者の大家は、『創めなき続く神意は、努力に恋焦がれる』と語ったそ うです。

 よく注意してご覧になれば、理性によって、アッラーへ全ての人が辿り着くことがわかります。人間の自我が、害悪によって腐食し、状況が悪化すると、不適切な行動が始まります。もし人間の本質が正常ならば、そこから良い受け入れられる行動が現れます。

聖メヴラーナは誰にも不信仰という言葉を使いませんでした。不信仰も、信仰も超えた次元で、人間を捉えていました。神への熱き愛とタウヒードに至り、真の主と真実を見出しました。

フィルザンフェル、4行詩、1070番において

『私は歓喜の海、精神の喜悦の海の塩のように溶けた。私には不信仰も、信仰も、完全なる信念も、疑念も、残っていない。私の心の中にひとつの星がはっきりと現れた。なんともすばらしい星であることよ、その星の中に、7天も全てのものが消え失せた』

  タウヒードと神への熱き愛を上手に伝えるこのような見方は、ユーヌス・エムレや他のイスラームの詩人たちの間にも見られます。彼らは同じような形を取りま す。これらの見方は、イスラームの観点そのものです。これはイスラーム思想に基づく、寛大さに由来します。ムスリムたちが、制覇した国々では、ムスリム達 は、その国々の宗教に敬意を持って接し、混乱は起こらず、キリスト教教会を存続させました。この信条に基づいて、23才の若きオスマン帝国の王であった ファーティフ・メフメット2世は、ビザンティン帝国の宗教にも敬意を表しましした。メフメット2世が、イスタンブールを制覇した後も、ゲオルギオスをそのままギリシャ正教の総主教の地位につかせました。この寛大さゆえに、三日月(イスラーム)の入った国々では、十字(キリスト教)は生き続け、キリスト教の制覇したイスラームの国々で、イスラームは存続しませんでした。バルカン半島、ギリシャ、アンダルシアが生きた例です」

  「あなたが伝えて下さるごとに、私の驚きも増しました。そして自問自答しないわけには参りません。なぜもっと以前に、イスラームについて調べてみようと思 わなかったのかと、自分自身に対して、申し訳ない気持ちになりました。広範囲にわたって、このことをよく調べてみようと思います。結果は予想できますが、 それにしてもよく調べてみるべきですね」

「少 し前に、申し上げましたね、忠俊さん。全てのことには、それをなすべき適切な時があると。ということは、あなたにとってイスラームについて調べるべきとい う確信が、あなたの心に正に今、生まれたということです。あなたは大変幸運な方です。あなたが最後におっしゃった言葉を聞いてとてもうれしいです。今か ら、おめでとうと言わせて下さい。「知り、見出し、そして、成る者」となることを。インシャアッラー、名残はつきませんが、お暇しなければなりません」

「あなたには、いくら感謝しても足りません。どのように感謝できるかもわかりません。生まれて始めて、人に対して大いなる恩と感謝を感じました。自分を無力に感じます」

「どうか、忠俊さん、そんな風におっしゃらないでください。あなたは私に何の恩も、感謝の念も感じる必要はありません。ムスリムとして、私達が果たす義務を行おうと努めただけなのですから。もし少しでもお役に立てたのでしたら、光栄です」

「そうおっしゃられても、やはり感謝の気持ちでいっぱいです。本当にありがとうございます。あなたに何か御礼をしたいのですが。日本から何か欲しいものはございませんか」

「はいあります。心から欲しいものがあります」

「すぐ、おっしゃって下さい」

「あなたから、『イスラームを詳しく調べ、私はムスリムになりました』という良い知らせを得ることです」

忠俊は大変感動し、泣きそうになった。帰ろうと立ち上がったガイドに抱きつき、さよならの挨拶をした。

 

以前とは違った日本での生活

忠 俊とその一行は日本へ戻り、以前と同じように会社での活動的な忙しい、規則的な仕事をし始めた。しかし、忠俊にとっては全てが変わった。周りを見て、見た ものを解釈し、そして熟考すること。全てのものが新鮮に感じられ、新しい観点、新しい思想によって、彼は回りの出来事を捉えなおしていた。

  帰ってきてからずっと、ガイドが贈り物としくれた英訳の聖メヴラーナの本を、噛み砕き飲みこむように読みこんでいた。メヴラーナの神への熱き愛の雰囲気 は、彼にも感染した。新しい水平線の窓を開け、眼は星のようにキラキラと瞬いていた。新しい愛の種を一粒ずつ、分け合いたいと感じたが、周りには分かち合 う人は誰も見当たらなかった。

 夜中、メヴラーナの英訳の本を注意深く読み、考え、また始めに戻っては深く熟考するという日々を過ごした。

一方、仕事を怠らないように十分働いた。会社は急速に発展を遂げ、多くの支社が全世界に広がった。国々の文化や価値観を摂取し、適応能力を大いに発揮する、勤勉で活動的な会社の一員でもあった。

自 国の文化や価値観を重視する一方、支店の開かれた国々の文化や価値観も、十分良く調べた。「トルコの文化と価値観には、特に良い価値付けをすべきだ。メヴ ラーナの息づく国は、良い価値付けをするのにふさわしい国だから」という考えがよく浮かんだ。成熟した人々だけでなく、一人の人間として、人は、他の何よ り貴重な存在であった。会社の見解も同様であった。忠俊は物質的存在としてのヒトよりも、人間性がより重要であるとも考えていた。

  忠俊は、地位の高い会社の幹部の一人だったが、時折、販売の現場を訪れ、直接、彼らと話したいと願った。現場の人々、一人一人を大切した。これもおそらく 彼の人間に与える価値が高かったからである。が、その何百倍も高い価値付けをメヴラーナの中に見出したので、彼に大いに心を打たれたのだった。

会 社の経営は合理的で、実践的で、エネルギッシュであった。会社の役員のひとりが語った、「私達の基本な方法は、まず問題に発見し、それに至ること。見つけ 次第、放置せず問題のレベルに応じて分け、確実に対処し、問題の拡大を防ぐこと」という原則を守り、従っていた。忠俊の会社は、イニシアチヴをとる経営陣 を力強く支援していた。不一致を実践的になくし、お互いを近づけようと努めた。利益以前に、まず「奉仕するという姿勢と信念」を働く人々に身に付けさせ た。実際に生産による利益や宣伝をかえりみず、働く人々の生活に奉仕することは、人間としての価値を高めるものでもあった。商社の成功に最も重要と考えら れる要因とは、働く人々の内面に目を向け、手を差しのべながら、彼らに精神的な目標を獲得させることにある。会社は内面に存する信念というものに敬意を示 していた。正直さ、公正さ、公平さ、規律、忍耐、献身というような価値観をたいへん大切にしていた。信念を持つ者たちこそが、このような成功を治めること ができると知っていたからである。

忠俊はメヴラーナの先を読めば読むほど、価値あるこれらの美徳の例として、さまざまな美しさが、彼の中に顕現されていると思った。それを知れば知るほど、感激も増していった。

 

アメリカ人の客達の観光案内

忠俊の会社の系列の輪は、アメリカまで広がった。そのため、アメリカからしばしば集団で日本へやってきた。その旅ごとに、いろいろな人々を案内した。

 仕事が大変忙しい日だった。プログラムは、アメリカ人達が東京を観光するという計画が入っていた。そのため観光案内のリストの準備をした。東京タワー、国立科学博物館付属自然教育園、新宿御苑、小石川植物園、物流博物館(品川)、日比谷公園、お台場等々忠俊は準備したリストをかばんの中にいれ、会社へやってきた。

  いよいよ、東京を観光するために出発した。かえでや松に囲まれた大きな公園の中に建てられた明治神宮にやってきた。カラスの鳴き声がする中で、忠俊は説明 した。神宮は自分自身を神と名乗った天皇である明治天皇と昭憲皇太后を祀っていること、鳥居は明神鳥居としては日本最大であり、神宮は初詣の参拝者数26 年連続日本1位であること。前方で手をたたく人々がみえるが、彼らの信仰に寄れば、神がお休みならば、起こすために手をたたくこと。そして合掌は祈りの形 であること。手をたたく人々が、紙に何かを書き、壁のくぼみに置いたり、木の枝に結んだりしているのは、このような仕方で祈りが届けられると彼らが信じて いるからだと解説していた。

長いつり橋の上を走る特急列車、神社、寺、自然公園などについて、忠俊はアメリカ人達に、絶えず自国のことを伝えていた。彼らを恥かしがらせないためにと、あえて広島へ連れて行くことを望まなかったが、彼らの要望があったため広島へと出発した。

  広島へ平和記念公園の記念碑の前でしばし留まった。忠俊は、第二次世界大戦時に、軍事基地の一つであった広島に、アメリカが1945年8月6日落とした原 子爆弾による熱と放射線によって、23万人の人が命を落としたこと、何千万人もの人が負傷し、その後も後遺症に悩んでいること、被爆した親から生まれた子 供たちの中には、奇形や白血病の子供たちが生まれていることなどを説明した。アメリカ人達はこれらのことを悲しく思い、謝罪の気持ちでいっぱいであること も知らせた。忠俊は説明中、自分自身に知らずと話しかけていた。「もし、聖メヴラーナのような人間への愛が、人々の生活に息づいていたなら、このような広 島の惨劇は起こらなかっただろうに」と。アメリカの人々は、その記念碑の前で、彼らの流儀で祈りを捧げ、去った。

次 に、新幹線で新横浜まで帰り、鎌倉へと一行は向かった。高さが何メートルもある鎌倉の大仏の前でしばし留まった。忠俊は鎌倉の仏像の前で、セマーゼンたち がセマーをする姿を想像した。想像上の光景にもかかわらず、大仏とセマーゼンたちは非常に対照的なとりあわせであった。

「鎌 倉の仏像は、氷のようで石のように冷たい。セマーゼンは、人間の内面を揺り動かす熱い炎のようだ」と忠俊はつぶやいた。それから見晴らしの良い海の見える 丘に登り、ふと遠くを眺めると山頂が真っ白な富士山が見えた。雲を下に見下ろす壮大な富士山の頂は、人々を熟考へと誘った。尼となり、山の斜面に住む叔母 のことを思い出した。連れ合いを亡くした後、髪を剃り、床の上にせんべい布団で寝起きしている彼女の生活のことを考えたのであった。

それから、忠俊は観光の行程のリストを見るためにかばんを開けた。その時コンヤで買った絵葉書が、何枚か地面に落ちた。そばにいたH・デイヴィド・ジェームスは、直ぐそれらを拾おうとした。

「拝見してもよろしいですか、忠俊さん」

忠俊は、

「もちろんです。どうぞご覧になって下さい。コンヤで買った物です」といいながら、絵葉書をデイヴィドに渡した。

デイヴィドは、長い間眺めていた。まるで旧知の友に偶然出会い、その思い出を思い起こしているかのようであった。忠俊は気になって尋ねた。

 「絵葉書に何か気になることでも?」

「はい、とても。世界のいたるところで、知られ愛されている思索家ですね」

「トルコのコンヤに行かれたことがあるのですか」

「はい、セマーの儀式を見に行きました。大変感銘受けました。あなたもセマーをご覧になりましたか」

「は い、私も見ました。あなたと同じように大変感動しました」と、忠俊は答えた。砂漠のど真ん中でオアシスを見出した時のように、デイヴィドは、喜びと幸福感 の波が押し寄せてくるのを感じた。「そなたに心があるなら、心ある者をお探しなされ」というメヴラーナの言葉を彼はつぶやいた。忠俊も、「真の主を見る2 つの眼をあなたがお持ちなら、あなたの腹心の友たちが、2つの世界で満ち溢れているのにお気づきなさるでしょう」と、ペルシア語のメヴラーナの言葉で応対 した。

「メヴラーナの中に見出される寛容さには驚くばかりです。2行連句で、人道主義を貫いて語ったのです」という彼の言葉に留意し、彼は考え始めた。なぜなら、イスタンブールでガイドが贈り物としてくれた本の中にも、聖メヴラーナと人道主義について触れた言葉があったからだ。

西洋の作家やトルコの一部の作家も、メヴラーナを人道主義者であると解説している。しかし、メヴラーナは本当に人道主義者という言葉にぴったり当てはまるのだろうか。

似 ていることと同じであることではない。人道主義は、中世に悪待遇を受けていた個人が、集団とその価値観に対し反発するという形で生まれた。神を中心とする 以前の考え方に対して、人間を中心とした価値付けをする人間中心の価値観である。人間の過ちにまったく触れずに、人間を放置する状態が生まれる。エピクロ スからホルバッハまで、「その目的は快楽を好み、苦痛から逃れること」として特徴づけられる。メヴラーナは、人間が潜在的な価値を所有する存在であると祝 福し、愛すべき我らのユーヌスに続く者達も、「千回カーバを訪れるよりも、心への一度の訪問がより祝福される」と説明した。このような考え方を見事に語っ ている。「巡礼は、眼に見える館への訪問である。真実に到達する者達の巡礼とは、真の主の心への訪問である」

こ の価値観は、人間の存続は、彼ら自身によるものではなく、神による成就において成立する。しもべが、しもべとしての役割を確信している場合にのみ、人間は 貴重な宝庫と成り得る。メヴラーナは、「存在の単一性」という考え方に確信を持っていた。「自らのイーサーから見れば、どの人も、妊婦のマリヤムとなる」 と。イーサーを産んだものは成熟する。存在の鎖の一方の端にある理性のインクが、天使たちを留まらせる。他方の端には、すべて色欲に支配される動物が存す る。このように人間は、理性と欲情が混ざり合って作られているので、その間を行き来きしている。どちらにも変わる可能性を秘めている。理性に従う人間は、 天使よりも高い位階に到達し、情欲に従うものは、火獄の最下位の場所までに落ち、動物たちよりも低い位階に至る。人間たちは誰でも、理性によって情欲と戦 う。ある時は理性が、ある時は情欲が勝つ。要約すれば、「人間が外見によって人間であると言えるならば、預言者(彼に祝福と平安あれ)とアブー・ジャフルも同一であると見なさなければならない」

こ こでいえる事は、赤ん坊は、この世に人間として生まれてこない。人間の候補者としてやってくる。メヴラーナは、これを葦と人間にたとえて説明する。葦がみ な、葦笛とは限らない。人間がみな、真の意味で人間となるとは限らない。人間は2面性を持って創られている。地上の狼である一方、天の子でもある。高貴な るクルアーンでもこの二面性をしばしば語られる。人間は本来もっとも美しくすばらしい存在として創られた。しかし、結果に関しては、天国の最上階か地獄の 最下位かである。これらのどちらかを選ぶかは、人間自身が関わっており、彼らに選択を任された。このように理解するメヴラーナは、一度も人間を理想化せ ず、人間が不完全であることを十分承知していたので、「放っておきなされ、好きにさせなされ」という考えには至らなかったのである。

こ こでいえることは、近代の人道主義者の理解は、もともと人間性の名の下に、人間であることを否定するものである。なぜか?なぜなら、それは人間に名の下 に、神を否定する。そうであるから、ベルジャエフが言ったように、「神が存在しなければ、人間も存在し得ない」のであり、さらに人間自身は、通常の生物的 存在であると言う度に、自分自身を格下げし、人間のとしての地位を放棄するのである。一方で、人道主義は、自然な形で、人間の不平等さの源を生産してい る。人間は、一個人として、また集団の一員として発揮できる様々な能力や可能性を秘めているが、これを階級や人種差別を正当化するために用いている。宗教 に基づく考え方では、人間に神のしもべであることをしらせ、そして人間は神の下において、平等であると捉える。イゼトベゴヴィッチは、「教会における平等 と他の場所での不平等を比べてみるのは興味深い。この部分の最後の文は、次の言葉で閉じよう。人道主義は、人間に宗教が齎したものを与えることはできな い」と語った。

数多くの書籍には、メヴラーナの「存在の在り方」を、パンテイズム(汎 神論)として捉えている。我々の言う「存在の単一性」と、被造物と創造者を一つの総体とみなすパンテイズムと同様であると捉える。もちろん、メヴラーナは 汎神論者ではない。一般にタサッウフ(神秘主義)の考え方が、彼のそれである。これに従えば、アッラーが創造し給うた物質すべての被造物の中に、彼の権能 と美しさによって、神のしるしを顕現させると捉えられる。『どこを見ようともそこにはアッラーの美しさが現れる』の節はこのことを説明している。

熱き愛の輝く眼は、世界のあらゆるものの中に、彼を見出し、すべてを愛する能力を勝ち得たのだ。

「忠俊さん、考え事をしていらっしゃるようですね」

「そうです、メヴラーナに関して読んだ本の一節が頭に浮かび、それについて考えていました」

「どうか、お話ください」

忠俊は、新たに芽生えた愛の種の力によって、H・デイヴィド・ジェームスに、メヴラーナについて学んだことや感じたこと、人道主義に関して読んだことなどを話した。

H・デイヴィド・ジェームスは、

「メ ヴラーナが『メスネヴィー』で伝えたかったメッセージは、物語の形で記しています。一言で言えば『一つの寓話から千の寓意』という形です。メヴラーナもデ カルトのように、感嘆すべき呼びかによる方法、弁証法的な伝え方をしています。この方法によって、彼はある意味ソクラテスに近づいているといえるでしょ う。ソクラテスは、ご存知のように、真実を最初から命令する形で自らは語りませんでした。質問された質問によって、対話者が望むような結果に方向づけまし た。まさしく、真実を見つけるための手助けをしました。彼はこのことを助産婦としての母親から得たといわれています。『助産婦は出産しないが、出産の手助 けをする』といわれますが、メヴラーナは、ある意味で助産婦の役割をしてくれます。私達に答えが準備された真実ではなく、私達が自ら見出した真実に、私た ちが到達するように手助けします。そして、このようなやり方をとるので、真実を自分で見出したと私たちは感じることができ、私達の血と肉になりやすくなる わけです。どのような助産婦も、妊娠していない女性を出産させることはできません。真実を望む心、情熱がなければ、それは叶わないのです。

あ らゆるイスラームの国々で、『メスネヴィー』の描き方が優れているために、今日まで聖なる本として、なかなか辿り着くことの出来ない本として扱われてきま した。このように、作品に与えられた重要性について、モッラ・ジャーミーは、『かのお方について、何か申し上げることがございましょうか。預言者では、あ りませんが、彼には本があります』と語ったそうです。メヴラーナの、

『気前よさ、人を助けることにおいては、流れる水のようであれ、

情け深さ、親切さにおいては、太陽のようであれ、

人の過ちを覆うことにおいては、夜のようであれ、

怒りや興奮においては、死人のようであれ、

謙虚さにおいては、土のようであれ、

寛大さにおいては、海のようであれ、

在るがままの汝であれ、汝のままに在れ』

という言葉が、私を虜にしました」と話しました。彼の伝えたことは、彼が、これらのテーマについて十分知識を身に付け、感銘を受けたことを示していた。

 

外国人たちがメヴラーナについて語ったこと
H・デイヴィド・ジェームスは、

「メヴラーナのような思想家は、一国に留まらない。あらゆる人々を取り囲む」といいながら、メヴラーナの考えや見方や数々の詩が、国外へさらには世界中に広まったことを強調した。

忠俊は、

「メヴラーナに対して、思想家の代わりに「神の友(ワリー)」とおっしゃる方がより真実に近いでしょう。彼は思想家よりもっと優れた方ですから」といいながら、ガイドの忠告を、デイヴィドにも反映させたのであった。

「そのとおりです。メヴラーナにふさわしい形容が見つかりません。彼は大海、彼は大洋、彼は学識者です。おそらく、あなたがおっしゃった「神の友」という言葉が、一番ふさわしいでしょう。

オスマン時代の音楽作品を残したカンテミルオウル(モルダヴィア公ディミトリエ・カンテミル)は、『メヴレヴィーに おける人間愛を知った時、自らをはずかしく感じた』と語っています。聖メヴラーナの作品のためにその生涯を捧げた偉大なオリエント研究者ニコルソンは、研 究中にメヴレヴィーのスッケをかぶっていたそうです。また臨終の時も、『あなたを今理解しました、メヴラーナよ』と叫んで、亡くなったと伝えられていま す。

ニ コルソンは、メヴラーナの宣教師として懸命に働きました。博士論文に、『偉大な詩作集』を選んだこの偉大な学者は、40年も『メスネヴィー』のために費や しました。1925年に、全8巻からなる『メスネヴィー』の翻訳と解説した作品が出版されましたが、それは、英国において、メヴラーナの研究にとって革命 的なことでした。読む者は、必ず感嘆します。彼と知り合いになった私の友人から聞いた話ですが、客たちを東洋スタイルで配置された部屋に招き、メヴレ ヴィーの衣装とスィッケを身にまとい出迎えたそうです。「メスネヴィーの館」にふさわしい感覚を身に付け、『メスネヴィー』を読み解説し、目からは涙を流 していたそうです。

疑 いなく西洋でも多くの偉大な抒情詩人たちが育っています。M・バレは、彼らとメヴラーナには相違があると異議を唱えました。『メヴラーナを知った後では、 ヒゥーゴ、ゲーテ、シェイクスピアーには葦笛がないことを知った』といったそうです。イレーヌ・メリコフの書いた文によれば、彼はメヴラーナと同世代のダ ンテを比較し、メヴラーナの高貴さを明らかにしています。メヴラーナから光を得たゲーテ、メヴラーナをこよなく愛するM・イクバール、ギリシャでメヴラー ナ協会を設立したタクシス・アレクシーウのような数多くの思索家たちが、彼について語り続けました。M・イクバールがトルコへ飛行機でやってきた時、飛行 機がトルコ領土に入るや否や立ち上がったそうです。『メヴラーナとユーヌスの国に入るとき、座ったままでは礼儀知らずとなろう』と言ったそうです。エ ヴァ・ドゥ・ヴィトレ博士は、イクバールの文を読んでいる時、『私の師、メヴラーナよ』と言う文にぶつかりました。その時、彼女は原語で読むことができる ようになりたいと思い、ペルシア語を学びました。もちろん世界観が変わったそうです。

モッ ラ・ジャーミーは『偉大な詩作集』を全て暗記し、『メスネヴィー』の最初の2ベイトのために、一冊の厚い解説書を書き上げたそうです。「この『メスネ ヴィー』を夜となく昼となく読むもの、彼には地獄の炎は禁ぜられる。この『メスネヴィー』は、ペルシア語で書かれたクルアーンのようである」と言ったそう です。

タ ブリーズ出身のサイイブも、メヴラーナを敬愛し、コンヤへやってきました。霊廟を訪ね、帰郷してからタブリーズで小房を建てました。イランで、ハーレン は、メヴラーナがペルシア詩の最も偉大な代表者の一人とみなしています。ペルシア語は、以前イランの地域だけではなく、インド大陸でも文学的言語として使 われていました。インド詩を代表するタゴーレにも、メヴラーナの影響が見られます。インドに住むムスリムたちの間で、メスネヴィーの解説書が数多く書か れ、出版されました。アクバル、シャー・ジャハーンとアウラングゼーブ・アーラムギルもこの点に関して多くの著作を残しました。インド大陸でメヴラーナと いうと、最初に思い浮かべる名は、何と言ってもイクバールでしょう。彼の全ての作品には、メヴラーナの作品の響きが感じられます。ご自身もこのことを次の ように説明しています。

『メヴラーナは太陽であり、私はその塵に過ぎない。メヴラーナは炎であり、私はその灰に過ぎない』

偉 大なドイツの詩人ゲーテも、イスラームに大いなる関心を示した一人で、ムハンマドという名の戯曲を書いた詩人です。ゲーテは、ただただ『メスネヴィー』を 読みたいがために、ペルシア語を学びました。『西東詩集』という名の作品の中で、メヴラーナの言葉で書かれた4行詩が存在します。

他 にも、ドイツの偉大な学者ハンマーは、1818年に書いた『イラン文学の歴史』の中で、聖メヴラーナについて、詳しく説明しています。メヴラーナをハー フィズのように、優れたペルシア詩人の一人として紹介しています。ハンマーのこの働きは、ドイツにおけるメヴラーナの紹介に大いに役立つものでした。F・ ルッケルトはハンマーに激励されて、トルコ語を含め、3つの東洋言語を学び、抒情詩を書きました。聖メヴラーナの44の抒情詩を、韻を踏んだ詩の形でドイ ツ語に翻訳しました。メヴラーナと『メスネヴィー』をドイツで紹介する大きなきっかけとなりました。より大々的な活動は、1849年ゲオルゲ・ローゼンが 行い、『メスネヴィー』の最初の2巻をドイツ語に翻訳しました。その他、良く知られたドイツのオリエントの研究家であるアーテは、メヴラーナのために、 『彼は東洋で最も偉大な修行者であり、全世界で最も偉大な「存在の単一性」の理解者である』と記しました。人生のほとんどをトルコで過ごしたH・リッター は、タサッウフの歴史に関する研究の中で、メヴラーナについて広範囲にわたって詳しく説明しています。

偉 大な詩人、ハンス・メインケは、メヴラーナから大変感銘を受け、彼のほとんど全ての作品をメヴラーナに捧げました。アンネマリー・シンメルも深く感動し、 メヴラーナについて多くの作品を残しています。言葉の生き字引とも言われる学者レッドハウスは、作品の序文をトルコ語に訳しました。その後、ウィンフィー ルドは『メスネヴィー』の6巻を要約し、1898年に出版しました。

さらに付け加えると、2003年が「トルコ・日本友好親交年」として承認されたように、多くの芸術家、思想家の賛同を受けて、1973年を、「メヴラーナを愛する年」として、ユネスコが承認しました。東京でもセマーが行われたと聞きました。あなたは、ご覧になりましたか」

忠俊は以前、メヴラーナに関心がなかったことを悲しく思った。H・デイヴィド・ジェームスが、メヴラーナについて知っている知識の数々に、言葉なく、耳を疑ったほどだった。どうやってこれほどまで知識を得ることができたのであろうか。驚きと喜びを示すために、

「私がメヴラーナについて知ったのは、つい最近のことです。本当に良くご存知ですね。驚きました。あなたのお話を伺って、私は大変幸せな気持ちになりました。ありがとうございます、ジェームスさん」

「メ ヴラーナについて思い出させていただき、さらに関心を持って聞いて下さって、こちらこそありがとうございました。もう一つ、申上げたいことがあります。メ ヴラーナは、有名なデンマーク生まれの童話作家のハンス・クリスチャン・アンデルセンから弁証法で有名なヴィルヘルム・フリードリヒ・ヘーゲルまで、また ストラウスからシューベルトまで、広範囲に音楽家にも影響を与えました。

本 来、最も重要なことは、ますます悪化していく私達の時代の慢性病に、『メスネヴィー』が精神改善のくすりとなるということでしょう。それを確信していま す。メヴラーナをこよなく愛し、私達の生活に根付かせたならば、少なくとも、今のアフリカの悲惨な現状は起こらなかったでしょう。現代において、人間性 は、感情と快楽の奴隷となっています。理性と能力だけで十分だと考えます。そのため、人間性は貧弱になり、出口が見えず、もだえ苦しんでいます。一部の人 々も、神が人間を創り給うた時に、使い給うた言語と暗号を解こうと懸命になっています。本当は、人間は、利益や欲望の虜となる代わりに、真実を理解しそれ に従うことさえできれば、このような問題や矛盾が生まれることもないのですが。メヴラーナの、『来れ、来れ、何人であれ、再び来れ』と言う言葉に象徴され る普遍的なメッセージは、各々の人間すべてを、一つの体のそれぞれの器官のように見立て、慈しみ、敬愛する姿勢を伝えています。偉大な思索家は、分け隔て することなく、人間一人一人に敬意を示しました。彼の生涯をかけて「人間の価値」を守り続けました。彼の口から発せられる言葉は、全て、平和と同胞愛を伝 えるメッセージでした。現代の生活の中で、生物的必要性を満たすために精神の安らぎを得ることのない人々、無慈悲な競争の中でもがき苦しんでいる人々、人 生の深い意味を探す人々、穴の空いた心を満たしたい人々は、メヴラーナの精神的安らぎに馳せ参じるべきです。彼の壮大な愛と寛大さに満ちた指導力、包容力 のある考え方を役立てるべきでありましょう。これが、現代に生きる全ての人間が緊急に必要としていることです。科学と技術のめまぐるしい発展の中で、世界 のいたるところには飢餓、貧困、戦争、逃走、混乱、迫害、不平等が、考えられないほど増大し続けています。解決不可能な問題を解く鍵は、メヴラーナのよう な人間の魂の深遠さを発見し、普遍的真実をつかもうと努める考えや心を持つ人々の活動が必須なのです。あなたも賛同しますか、忠俊さん」

「もちろん賛同します。ところで、気になって仕方がないのですが、お聞きしてよろしいですか。メヴラーナに、いつ頃から関心を持たれたのですか」

「今 から4年か5年頃前です。ドイツ語の訳で、有名なメヴラーナの「真夜中の歌」と言う抒情詩がありますが、ポーランド人の有名な作曲名キャロルシマノウス キーは、1922年有名な第三シンフォニーとして作曲しました。この作品はいろいろな場所で演奏されました。私も、偶然それを聴き、すばらしいと思い、調 べ始めました。そのときからずっとメヴラーナの言葉を、私自身に刻み込もうと努めて来ました。アメリカでは考えられないほど多くの人が、メヴラーナから感 銘を受けています。特に私も参加しているメヴレヴィー・グループがあります。決まった日に集まります。アメリカにいらっしゃることがありましたら、あなた をお連れしましょう」

「その日が待ち遠しいです、ジェームスさん」

「とても違った感覚を受けるでしょう。きっと気にいられると思います。私の癖は、このようにメヴラーナのことになると、自分に歯止めが利かなくなることです。お疲れになったら、そうおっしゃってくださいね」

「いいえ、大変喜んで伺っています。私もメヴラーナを愛する者の一人ですから。どうか、お続けください」

「メ ヴラーナは、何百年もの間、その影響を与え続け、躍動感あふれる詩人、思索家として特徴づけられています。個人の信仰と思想の自由を、この上なく大切に し、罪びとも罪なき人も、拝火教徒も多神教徒も、黒人も黄色人もそして主人も奴隷も隔てることなく、あらゆる人間を、敬意と愛を持つことが出来るように呼 び招き続けていることが、彼の最も大きな特徴といえます。

メヴラーナは「存在の単一性」を完璧に、守り続けた方です。彼によれば、『各々の被造物には、真の主の様々な顕現が異なって見出される。被造物に対してとる動作は、実は創造主に対して行う動作でもある』と語っています。

メ ヴラーナは形式主義者ではなく、さまざまな強制には反対の立場をとっていました。礼儀、誠実、忍耐、教育のような道徳的な真実の意味を探し、人間にそれを 伝えようとしていました。彼にとって正しいことは、真実へ向かう道を探すことです。この道は、熱き愛をも超えました。終わりのない無限の愛です。この愛は 寛大さと誠実さによって支えられ、育てられます。

メ ヴラーナの語ったこの愛は、(ただ言葉で)伝えるものではなく、愛によって生きること、生きながら学ぶことができるものです。このため、ある日彼に『熱き 愛と何か』と問うた一人の学徒に、彼は、『われになり、そして知りなされ』と答えたそうです。忠俊とH・デイヴィド・ジェームスは、観光中ずっと語り合い ました。アメリカ人の一行が日本に滞在している間、語り合う機会がたくさんありました。忠俊にとって、アメリカの人々もメヴラーナに感銘を受け、知識を求 めたこと、何百年もの間、この神の友に、西の人も東の人も感動し続けてきたことは、忠俊が新しく選んだ道の正しさを証明する大きな糸口となった。確信は 持っていたが、H・デイヴィド・ジェームスと語り明かした後、その確信はより深まった。

 メヴラーナについて感じたことや学んだ言葉は、彼の魂にさわやかにやさしく吹く季節風のようであった。ただ何かが欠けていることを知っていたし、それを完成させる必要があることも感じていた。

 

東京のモスク

忠 俊はある朝早く車に飛び乗り、急いで会社へ向かった。イスタンブールとコンヤで見たモスクに似ているジャーミー(モスク)が東京にもあった。トルコから 戻ってからずっと、そこを訪れたいと思っていたけれども、仕事が忙しくなかなか機会は訪れなかった。いつ開館しているかも知らなかった。

  ある日、またそこの前を通った。東京トルコ・ディヤーネト・ジャーミーの扉から、多くの人々が出てくるのが見えた。何度も通ったことがあるのだが、これほ どの混雑は、今まで見たことはなかった。突然、思い立って、彼は車をジャーミーの側に止めた。そしてジャーミーへ向かった。ジャーミーの前にいる人々は、 お互いに握手をし合い、何かを話していた。

  彼は正面扉の左にある外階段を昇り、そこで立ち止まった。二階が礼拝場の入り口になっていた。しばらくの間、彼らの行動を眺めた。しかし、すぐにでも中に 入り、メヴラーナの霊廟を包む神秘的な雰囲気を、このジャーミーでも感じたいという強い願望が彼を襲った。人々はジャーミーから出続け、扉の入り口のとこ ろで靴を履いていた。中に入る時、靴を脱ぐことを、トルコで彼は学んだ。彼は靴を脱ぎ中に入った。霊廟での不思議な香りが、まるでここまで飛んできたかの ようであった。壁や天井を見渡した。同様の建築家、同様に設置、同様の装飾芸術、ミフラーブ、ミンベル、壁に書かれたクルアーンの諸節が、まるでトルコに いるかのように感じさせた。この精神的雰囲気は、ここを光り輝かせていた。

  向かいに座っている白いあごひげのある高齢の方に、彼の目が留まった。「ありえない」と驚いて叫んだ。セマーを見せる大広間にあった等身大の、メヴラーナ の写真に何ともよく似ていることか、彼は本当にびっくりした。駆け寄って手を握り締めたい衝動に駆られた。急いで側に近づいた。そして対面した。敬意を込 めてお辞儀した。白いあごひげの年老いた光り輝く顔の持ち主も、お辞儀で挨拶をした忠俊に、挨拶を返した後、待って座るようにと場所を示した。

 忠俊は、隅に座って待ち始めた。人々は並んで待ち、次々とその白いあごひげの方の手に口付けをした。「バイラム(お祭り)、おめでとうございます」と口々に言った。彼も一人一人丁寧に返事を返した。

みんなは彼の手に口付けをし終えたが、何人かはまだ残っていた。何かを尋ね、話したがっている様子だった。白い顎鬚の年老いたその方は、お客様がいらっしゃるので、彼らに行くようにと話された。みんなは振り向き、去っていった。そして誰もいなくなった。

忠俊は「私をお客様と呼んだ、なんとうれしいことだろう」と思った。その時、その年をとったその方が、日本語で、

「我が息子よ、こちらへ来なされ」と話しかけた。

一 般に日本人は家では床に座る。ジャーミーでも、同じように床に座っていた。忠俊は、立ち上がって、白い顎鬚のある光り輝く顔のお方により近づき座った。も う一度敬意を表し、頭を下げた。白い顎鬚の年老いたその方も、浅くお辞儀し、彼に手を伸ばし握手を求めた。忠俊は、彼の手をとり、その手に口付けをし、名 を名乗った。彼も、

「私 の名前はヤフヤー・シェリフです。お目にかかれて、大変うれしいです。私の息子、忠俊よ。30年前に、エジプトからあなたの国にやって来ました。それから ずっと日本に住んでいます。何度か自国へいったりきたりしました。いと高きアッラーが望まれたので、私はここでイマムの仕事と伝道の役目を果たそうとがん ばっています。さて、自己紹介して下さいますか」言った。

  忠俊は、ヤフヤー・シェリフが、自分を、「私の息子、忠俊」と呼んだことを大変喜び、血が騒ぎ始めた。彼は座っていても、背が高く体格のよいことがよくわ かった。彼の外観は壮観で、まなざしは人々の心の奥底を流れ込むような精神性を備えていた。ゆったりとした変わった衣装を着ていた。

忠 俊は、ヤフヤー・シェリフがメヴラーナの写真に良く似ていたために、向かいにメヴラーナがいらっしゃるかのように感じてしまい、ヤフヤー・シェリフをその ように見てしまったので、ヤフヤー・シェリフとして見ることが困難だった。「まあいいではないか、聖メヴラーナもシェムス・テブリーズィーを、彼が見る場 所全てに見出していたではないか。詩の最後に、シェムスの名をサインしたこともあったではないか。そうであるなら、このすばらしいお方を聖メヴラーナと重 ねてみても何も困ることはないであろう」と考えた。

ヤフヤー・シェリフは、忠俊が自分のことを話すのを待っていた。

忠 俊は働いている会社、会社での仕事、独身であること、一人で住んでいることなどを話した。そして少し後で、聖メヴラーナの霊廟を訪れたこと、霊廟とセマー の儀式を取り囲む雰囲気から多大な感化を受けたこと、ガイドの説明によってメヴラーナに非常に感嘆したこと、彼の本を読み続けていること、読むたびに驚き が増すこと、そして、メヴラーナの信じた宗教であるイスラームにも関心を持ち始めたこと、そのことを良く調べたいと思っていることなどを話した。

  ヤフヤー・シェリフは、何十年という経験の持ち主なので、忠俊が真剣に探求していることも、忠俊に欠けている部分が何かも直ぐにわかった。彼が何を捜し求 めているか、そして、彼にどのように手助けできるかを良く知っていた。忠俊に何年も前、聖メヴラーナを訪れたことがあること、彼の偉大さを説明できる十分 な言葉が見つからないこと、いまだに、その指導者の本をよく読んでいること、死ぬ前にもう一度コンヤに行き、その指導者(ピ-ル)を、そしてメディーナに 行き、アッラーの使徒(ラスールッラー)を訪問したいと望んでいることなどを話した。

忠俊は、「あのう、聖メヴラーナの本を読んでいるとおっしゃられましたか。それらの本は英語ですか。トルコ語ですか、ペルシア語ですか」と尋ねた。

「原本を読んでいます。ペルシア語で読むと、より深い意味に目覚めます」

「世界的に有名な詩人たちの詩は、他言語に訳されると、母語の意味を完璧にはあらわせません。影響や深さが微妙にかわってしまうのですが、メスネヴィーや4行詩でも、このような微妙な変化が見られるでしょうか」

「そ うですね、私の息子よ。できれば、みながペルシア語を学び、原文を読むことができればよいのですが。非常に感受性豊かな見事な流暢さに気づき、喜びも楽し みも増すでしょう。しかし、翻訳でも十分すばらしいです。意味が適切でペルシア語ほど真意に近づけないとしても。どの言語であってもよろしいが、人間に とって必読の諸本は聖メヴラーナの本です。なぜなら人間達を、善へ、美へ、寛大さへ、同胞愛へ、和平へ、満足へ、忍耐へ、感謝へと招待しているからです。 ただこの世だけでなく、来世でも幸せになれるように導いています。2行連句の中で、神への熱き愛に燃える判官は、伝えたいことを物語によって伝えました。 動物たちに話をさせ、教訓を与え続けました。聖メヴラーナの考え方、教訓を生活に活きづかせることができるものは、この世でもあの世でも困難に会いませ ん」

忠俊は、「『メスネヴィー』の幾つかのベイトの解説を、あなたから聞きたいものです」と言いながら、ヤフヤー・シェリフにお願いした。知識の豊かな彼は直ぐに了解した。

「愛する我が息子よ、あなたがお聞きになりたいのなら、私にとっても、お話しすることは喜ばしいことです」と言い、ジュッペの下の長い衣服のポケットから紙と鉛筆を取り出して住所と電話番号を記し忠俊に渡した。

「いつお電話を差し上げられますか」

「ズフルとアスルの間に来てください。またはイシャーの後でも良いです」

「申し訳ありません、私はこの時間帯を知りません」と言った忠俊に、礼拝の時間表を差し出した。

「この時間帯はムスリムの人々の礼拝の時間帯です」と言った。ズフルとアスルの間とイシャーの後の時間帯に印をつけた。

「はいわかりました。ありがとうございます。あなたにご連絡いたしますね」

と、もう一度頭を下げ、ヤフヤー・シェリフの手に口付けをし、ジャーミーから出た。

お そらく仕事に始めて遅刻したと思われる。電源を切っていた携帯電話の電源を入れたとたん、電話がなり始めた。仕事場の人々が心配して、無事かどうかを尋ね る電話だった。彼らに「私は大丈夫です、道の途中です。直ぐ行きます」といい、電話を切った。何よりも大切な仕事さえ、今は二番目になってしまったよう だ。ヤフヤー・シェリフと知り合いになれたことは、今の彼にとっては何よりも重要なことだった。「おそらくあのような貴重な方と知り合えたのも、偶然では ないだろう」と独り言を言った。

忠 俊はコンヤとコンヤの「緑の塔」をとても懐かしく感じていた。何か見えない力が、忠俊をメヴラーナの方に引き寄せているようだ。心の中のこの思慕の念は周 りを取り囲み、どこもかしこも彼への募る思いが溢れている中で、彼は生きていた。太陽の光は、メヴラーナへのつのる思いによって、毎夕、東京を受け入れぬ かのように沈み消え、毎朝、同じ思いをつのらせ昇ってくるかのようであった。

その朝も、忠俊はいつもと同じように、思慕の念を抱きながら目を覚ました。休みのため、ヤフヤー・シェリフを訪問しようと計画した。ヤフヤー・シェリフがやってくる時間帯の記した紙を取り出し、ズフルとアスルの間の時間を確かめた。行く時間は決まった。

そ の時間までに朝食を済ませた。『メスネヴィー』の最後の巻を開いた。その中のメモ用紙に、尋ねようとした質問が書かれてあったので、それをかばんに入れ た。「贈り物は何がいいかな」と考えている時、コンヤから贈り物として買ってきた品々が、幾つか残っているのを思い出した。幾つかは、友人たちへ渡せな かったもので、自分自身に買って来たものもあった。「何はともあれまた行くだろう。そしたらまた買えばいい。彼もまたメヴラーナをこよなく愛するものの一 人であるから、きっとこの贈り物は喜ぶに違いない」といいながら、綺麗に包装した。包装の中にメヴラーナの英訳の4行詩の書かれた本も加えた。

正午になるところだった。魚料理のレストランに入って、毎週食べている魚料理を食べた。手をきれいに洗った後、東京ジャーミーに向けて出発した。

扉 から頭を伸ばして中を覗いたが、初めてきた時のように混雑していなかった。そこにいた人々は、集団で礼拝している最中だった。忠俊は、礼拝が終わるまで集 団を見つめていた。謙虚に神に敬愛を込めて礼拝をする姿は、忠俊に考えさせた。他の宗教の礼拝の仕方に似ていない。みんな同時に跪拝し(このとき、いと高 き主に讃えあれという)、同時に立ち上がり、同時にセラームをする(礼拝の終わりに座ったままで手をひざの上に載せたまま、首を右にまわせるだけ回す。こ の時アッラーの慈悲と祝福があなた方の上にありますようにという。それから正面に戻し今度は左側に回し、同様の言葉を言う、そして正面に戻すこと)。敬意 のこもった振る舞い、そしてイマム(導師)の唱える言葉等・・・「全ての行動は、一つの決まりに基づいて行われているに違いない。大変感じ入らせ、考えさ せる振る舞いである。魂の状態はどのようであろうか。何にこれほどまで服しているのか」と考えた。

礼 拝が終わり多くのものは、扉から外に出始めた。光り輝く顔を持つお方、ヤフヤー・シェリフは、そこにいらっしゃった。周りには、この間のように人々が集 まっていた。忠俊は靴を脱いで、ヤフヤー・シェリフが見えるところに留まった。ヤフヤー・シェリフは、彼を認め、周りの者達に何か話された。みんなが手に 口付をして去っていった。ヤフヤー・シェリフの周りには、ただ一人残った。ヤフヤー・シェリフは、彼に合図をした。その方は、日本人だった。

ヤフヤー・シェリフはその日本人に、

「高貴なるクルアーンの日本語訳を持ってきたかね」と尋ねた。

彼は、「はい先生、車においてありますので、直ぐに持ってまいります」と出て行った。

ヤフヤー・シェリフが、

「い らっしゃい、私の息子、忠俊よ、少し前外に出て行ったあなたがご覧になった貴重なお方は、イスラームを宗教として選び、ムスリムになった技術者です。博士 課程の勉学のためフランスに行った時、そこでトルコからやはり博士になるためにやってきたトルコ人の女性と知り合い、結婚したそうです。彼の奥さんは、毎 日クルアーンを彼に読んで解説してそうです。そのため、イスラームに関心を持つようになりました。高貴なるクルアーンの日本語版を探し、読み調べたそうで す。探求の結果、イスラームにおける公平さ、愛、慈悲(恵み)の深さに感動し、その結果ムスリムになったそうです。ここに住んでいます。イスラームの基本 に基づいて、細心の注意を払いながら、それらに従い、生きている貴重な存在の一人です。あなたが今日来られるだろうと思ったものですから、彼に高貴なるク ルアーンの日本語版をもってくるように頼んでおいたのです。あなたもお読みになりたいのではと思いまして」

忠俊はなぜ今日私が来ることをわかったのかとびっくりした。聞きたかったが、やはりやめた。そのとき、ムスリムの日本人が入ってきた。

ヤフヤー・シェリフは、忠俊にムスリムとなり、名前をムスタファと付けた日本人を紹介した。二人とも知り合えて喜んでいることを伝え合った。

ヤフヤー・シェリフは、座っていた場所から立ち上がろうとした。重々しい年老いた体を運ぶのは困難であった。ムスタファと忠俊は、ヤフヤー・シェリフの腕を持ち、彼が立ち上がる手助けをした。一緒にモスクを出た。ヤフヤー・シェリフは、忠俊のほうを向いて、

「私の息子、忠俊よ、今日、ご都合がよろしければ、私の家へいらっしゃいませんか」と言った。

忠俊は喜んで、大丈夫だと伝えた。ヤフヤー・シェリフは、忠俊の車に乗った。ムスタファに前を走るように伝えた。忠俊は、ムスタファの車を追いかけた。ムスタファは、彼の家を知っていた。

しばらく行って、ムスタファは車を道の端に車を止め、忠俊も後ろに駐車した。ヤフヤー・シェリフの腕を取り歩き始めた。庭付きの素敵な家の庭門から中に入った。庭は緑溢れ、栗の木がたくさんあった。

ム スタファは、ドアの呼び鈴を鳴らし、後ろに一歩下がった。頭のてっぺんから足の先までイスラーム的衣装で身をまとった笑い顔の美しい高齢の女性がドアを開 け、「いらっしゃい、ようこそ」と言って、道をあけた。ムスタファは、この高齢の女性に息災を尋ねた。よく家にやってきているのは明らかだった。その女性 も彼の妻そして子供たちが元気かどうか尋ねた。

忠 俊も彼らがしたように靴を脱いで揃え、後ろからついていった。引き戸を開けた。日本の家の部屋にもかかわらず、大変大きな部屋だった。壁は天井までガラス 張りの本棚で覆われ、その中には、何百冊もの本が並べられてあった。東洋式に飾られたその部屋には、ソファーも長いすも何もなかった。床に大き目の座布団 が敷き詰められ、その上に、ふわふわした毛のついた皮の敷物が置かれてあった。忠俊は、すぐさまメヴラーナ博物館で見た修行者たちの小房のことを思い出し た。本棚で壁を作り、壁に立てかける背もたれやその上におかれたレースの覆いは、小房の特徴的な設置の仕方であった。さらにその中には、博物館のこの世の ものでない香りを思い起こす何かを感じた。忠俊は喜びと追慕が波のように広がっていくのを感じた。手に持っていた贈り物を渡し忘れたことを思い出した。ヤ フヤー・シェリフに、この些細な贈り物を受け取ってくれるように頼み差し出した。贈り物を手にしたヤフヤー・シェリフは、包みを開けた。まるで何かの印を 探しているかのように香りをかぎ、頬擦りした。彼もまた思慕の念に駆られているのは明らかだった。忠俊に、この貴重な贈り物をありがとうと言いながら、2 番目のガラスの戸棚を指し示した。

「聖 預言者(彼に祝福と平安あれ)が『よき場所』とおっしゃった街、聖なるコンヤから来た贈り物をそこの高い所に置いてくだされ」と言った。忠俊は贈り物をこ れほど気にいってくれるとは思わなかったので、貴重に扱ってくれてことを喜び、彼から贈り物を受け取り、言われた場所に置いた。

ヤ フヤー・シェリフは、「向かいに座りなされ、」といい、ムスタファが持ってきた日本語訳の高貴なるクルアーンを手に取った。高貴なるクルアーンはジブリー ル(彼に平安あれ)によって、預言者ムハンマド・ムスタファ(彼に祝福と平安あれ)に下されたことや短くムハンマドの人生を伝えた。彼は人間性のシンボル であり、聖メヴラーナも一生涯、彼(s)の道を歩み続けたことを伝えた。その後で、聖メヴラーナが『メスネヴィー』でクルアーンについて語ったことまで伝 え始めた。忠俊は、ヤフヤー・シェリフの口元から発せられる言葉を、一言一言注意深く聴いていた。

ヤフヤー・シェリフは、

「聖メヴラーナは、『メスネヴィー』の第1巻でこのようにおっしゃっています。

『ク ルアーンの光は、粒子一つ一つを真実と虚偽とに識別し給う。そして我らに示し給う。その霊知の真珠の光が、我らの光であったなら、さような問いも我ら自身 が尋ねたであろう。どんな答えも我ら自身が応えたであろう。斜視のように眺めたため、あなたには丸い月は二つに見えたのである。あなたの斜めからの視線 は、疑念を生ませる。あなたが問いを問い続ける姿に似ている。正しい見方とは真実の鏡のよう、月を見るときも1つに見えよう。これがあなたへの応えであ る。

正しい考えをよくみなされ。考えとは、その霊知の真珠の輝きから発せられるものであるから。

耳から心へ入る答えの一つ一つに目は、『それを放っておきなされ。答えをわれから聞きなされ』という。耳は媒介の装置にすぎず、見て、見出すのは目である。目は状態(ハール)の持ち主であり、耳は噂話にふける言葉(カール)の持ち主である。

火 が存在することを言葉で知っている。その存在を言葉で近づこうとするなら、つまりイルメルヤキーン(たとえば遠くから煙が見える、その時、知によって火の 存在を知る。このような知)の段階で、知ろうとなさるなら、その火で熱せられ、燃え焦がれることも欲しなされ。火に関する知を、アイナルヤキーン(目で見 て信じること)の段階で、知ろうとなさるなら、火にぶら下がり、火の中に座りなされ。

聞こえる言葉が耳にから入り、耳が真実を中に染み入らせるなら、目のようになる。

さもなくば、耳に言葉が留められ、取り残される。中への道は見出せまい。

アッラーは、預言者たちをご自身が必要とし給うたためではなく、彼の恵み、寛大さ、偉大さを必要とする人々に正しい道を示し給い、救いの知らせを齎すようにと送り給うた。

アッラーは穢れた泥から預言者たち、神の友たちのように、精神的価値の高い王たちを創り給うた。土から創られたものを精製し、彼らを優れた存在と成し給うた。彼らを天に住む者達よりもより高く据え給うた。

アッラーご自身の権能と偉大さの火から炎を取り出し給い、それをご自身の美の顕現によって、純粋な光の状態に成し給うた。その後、純粋な光によって万有に存在する光すべてを輝かせ給うた』」と語りながら、『メスネヴィー』を読み進めた。

アー ダムからシート、ヌーフ、イブラーヒーム(彼らに平安あれ)へ受け継がれ、聖ダーウード、スライマーン、ヤークーブ、ユースフ、ムーサー、イーサー、(彼 らに平安あれ)はその光によって目覚めた者となり、その光が聖ムハンマド(彼に祝福と平安あれ)まで続いてきたことを伝えながら、再び『メスネヴィー』の あるベイトを読み始めた。

「そ の偉大な比類なき光は、真実のためにあり、あれやこれやと言われるものは、そのためにある。すべての中身や芯も、それに比べれば殻のようなもの」と言いな がら、「私達のルーフ(魂、アッラーの息吹)の真の糧は精神的糧であり、アッラーの光であることを私たちに伝えています」と語った。

ヤ フヤー・シェリフはムスタファと忠俊に、長い時間をかけて、聖預言者ムハンマド(彼に祝福と平安あれ)について話された。忠俊は、預言者ムハンマド(s) の神聖さによって、教友たちの間で起こっていた敵対関係を、友好関係にかえさせた事柄に特に興味を持った。ヤフヤー・シェリフは『メスネヴィー』の中で関 連のあるベイトを見つけて読んだ。

「マディーナにアウスとハズラジュと名の部族があった。これらのものはお互いに血を流しあう敵どうしであった。

聖ムハンマドの豊かさとイスラームの光によって、彼らの悪意は消えうせた。敵たちは、以前はぶどう園の葡萄のように、葡萄の房の一粒一粒のように、お互いに強く結びついていた。お互いは兄弟であった。

『信仰者たちは、みな兄弟である』という言葉に従い、動きがとれず、葡萄の粒のように押しつぶされた。

房についている葡萄の一粒一粒は兄弟のようであるが、動きがとれず、押しつぶされると一つになり、葡萄汁となってしまう。

不信仰者の熟さぬ葡萄と、信仰者の葡萄はお互いに対立する。なぜなら、一方はすっぱく、もう一方は甘いからである。しかし、すっぱい葡萄も熟し、葡萄の状態になると、お互いの差はなくなる。それもまた葡萄の良い友となる。

 驚くこともなく熟さぬ葡萄を、真の主は、始めなき始めに、不信仰とたとえ給うた。

 彼は兄弟でも同志にもならぬ。それは外郭が不快な不信仰のままである。

 真実の見えないめくらの不信仰者の秘密を語らないことはより善い。同様に、地獄の煙の立ち上るイラムの園から遠ざかることもより快い。

 希望を断つべきではない。不信仰のすっぱい葡萄へもアッラーは哀れみ給う。ついには、それらの中の見込みのある良いすっぱい葡萄は、心ある者の息吹と品性を備えた信仰者たちと出会い、見事な心を持つ者へと変化する。

 みな葡萄となろうと駆け出す。2つの相違、すっぱい葡萄と熟した葡萄の相違はなくなり、悪意も闘争も消えてなくなる」

ヤフヤー・シェリフは『メスネヴィー』の名からこのベイトを読んだあと、

「信者たちは兄弟である。だからあなたがたは兄弟の間の融和を図り,アッラーを畏れなさい。必ずあなたがたは慈悲にあずかるのである」(クルアーン49章10節)を朗読した。

忠俊は、

「イラムの園から遠のきなさい、とおっしゃられましたか。もう少し説明していただけませんか」と言った。

「イ ラムの園とはアードの民の王、シャッダードがイエメンで作らせた、天国に似た宮殿と庭園の名です。これに円柱のある宮殿と名が与えられています。レンガの 一つは金で、また一つは銀でできていたそうです。庭にはミルクと蜂蜜の川が流れ、川には小石の代わりに真珠が並んでいました。メヴラーナは、『メスネ ヴィー』の2巻で、このことについて触れています。それでは『メスネヴィー』でなんと語っているのでしょうか。あなた方にこのベイトをお読みいたしましょ う。

『何の知らせも得られぬ者よ、あなたは形・姿に気をとられ、知識の木をただの木と思い、その木の枝から実を採らなかった』と語っています。

愛 すべき預言者(彼に祝福と平安あれ)が、「天国の木々の一本に出遇ったとき、その木陰に座り果実をたべなさい」とおっしゃられました。すると教友達の一人 が、「やあ、アッラーの使徒よ、天国の木にこの世で出遇うことなどができるのでしょうか。この世でどのように出遇えるのでしょう」と尋ねたそうです。預言 者(彼に祝福と平安あれ)も、このようにお答えになりました。「真の知に出会ったとき、天国の木々の一本に出会ったことになる」と。

このハディース(伝承)からもわかる通り、アッラーの使徒(s)が知識をどれほど貴重であると思われていたかが伺えます。つまり、『知識は信仰者の果実である。見つけたらどこにあろうとも手に入れよ』といわれるように、聖メヴラーナの『メスネヴィー』の2巻には、

『そもそも、この世は知性がすべてと言う考えに基づいている。知性は、王に似ている。姿、形は彼の使徒、預言者たちのようである』と語り、「全ての知性」とは、はじめに創られた偉大な光のことであり、全てを支配するのはそれである。それは「ムハンマドの真実」と呼ばれる」

忠俊は聖メヴラーナと目の前のヤフヤー・シェリフもまた聖ムハンマド(彼に祝福と平安あれ)がおっしゃられた天国の木々の中の貴重な木の一本であると考えた。「ここで、今、彼らの木陰に座り、果実を食べるべきだ」と考えた。

ヤフヤー・シェリフは再び『メスネヴィー』を読み続けた。

「さあ、欲張る者よ、自我を目覚めさせた者に従う状態を、クルアーンを読み、よくお考え下され」といい、「それで、かれらは諸都市を巡り歩いたが,何処に避難所があろうか」の節とこのベイトを説明した。

「こ のベイトに語られているクルアーンの節はカーフ章36節です。『われはかれら以前に、如何に多くの世代を滅ぼしたことか。かれらは、これら(マッカの多神 教徒)よりも力においてもっと勇猛であったではないか。それでかれらは諸都市を巡り歩いたが、何処に避難所があろうか』」と説明した後、『メスネヴィー』 の第1巻に、聖メヴラーナが書いた序文の言葉から、
 「『この書物は、メスネヴィーの本である。メスネヴィーは真実に至るため、アッラーの神秘に目覚めるため、そして知性を実らせたいと望む者達のための一 つの道である。メスネヴィーは宗教がその基の基をなす。アッラーの最も偉大な正しいシャリーア(イスラーム法)は、真実に辿り着くための光の道である。メ スネヴィーは、中に蝋燭が立てられた蝋燭立てに似ている。朝方に、より光り輝く真実を求める者たちの心にとっての天国である。メスネヴィーには、泉があ る。枝々がある。若枝がある。泉の一つはサルサビールと呼ばれる。ここは、その位階に到達した者、心が目覚めた者にとって、最もよき停車場である。最も善 い憩いの場である。よき人々は、そこで食べ飲み楽しみ幸福になる。メスネヴィーは、信仰者とって癒しであり、不信仰者にとって熱望である』

同 様に、ハックも、『誉れ高きクルアーンよって、多くの道はふるいにかけられ、多くの道は正される。正しい道へ導かれる』と語られました。疑いなく『メスネ ヴィー』は、浄化された人々の心にとって癒しとなります。悲しみは消え、クルアーンを楽に理解する手助けとなります。人格が改善されます。心の清らかな者 達、そして真実を愛する者達とって、他のメスネヴィーに触れることも、道を開くことも必要ではなくなります。『メスネヴィー』は、諸世界の主によって、心 へ下された真実が含まれます。まさしく、『メスネヴィー』は諸世界の主によって霊感を得て、記された本です。不条理なものは一切、それを越え、前を歩むこ とはありません。また、後ろから歩むこともありません。アッラーの慈悲を要する弱いしもべ、バルフ出身のフサインの子のムハンマドの子のムハンマドは語り ます。(アッラーが彼の『メスネヴィー』をお受け入れ下さいますように)『私が頼り信じる者であり、私の体を、魂のように治める者の願いによって、驚くべ き稀に語られる物語、よき偉大な言葉、導く真珠、篤信者たちの道、短い言葉、意味深い韻文のメスネヴィーを私は述べ、まわりにも広めるよう努めた。そのお 方とは、真の宗教の剣(フサム)ハサンの子のムハンマドの子のハサンである。アッラーが彼を嘉し給いますように、彼は生粋のルームの人である。「狼として 創られた。アラブ人として起き上がった」という貴重な、いと高きシェイフ、アブルヴァファーの家系のものである』

アッラーが彼の魂(ルーフ)を、そして彼の家系の者達の魂を祝福し給いますように。諸世界の主に讃えあれ。アッラーよ、アッラーの預言者達に慈悲を垂れ給え。平安を与え給え。そして彼の清らかな家系の方々、教友の方々全てに慈悲を垂れ給え。アーミン、おお万有の主よ」
 その時、ドアが何度かノックされた。ムスタファは、その合図に気がついたかのように、立ち上がってドアを開けた。ドアの前には、置かれたお盆をとって中へ運んだ。忠俊は、ヤフヤー・シェリフの年老いた奥方が、みんなの邪魔をしないようにと中へ入らなかったのだと考えた。
 ムスタファは、ヤフヤー・シェリフに、コーヒーを渡した。そして、忠俊にコーヒーとお茶のどちらを飲みたいか尋ねた。忠俊は、お茶を所望した。ムスタ ファは、日本式に彼にお茶を入れた。飲みながらも話合いは続いた。実を言うと、ヤフヤー・シェリフが話し、ムスタファと忠俊が聞いていた。話はまた『メス ネヴィー』についてとなった。ヤフヤー・シェリフは、「現代人間の生活条件と7世紀前の人間の生活条件には、大きな違いがあります。この原子時代に、人間 は多くの物質的可能性を勝ち得ました。そして、多くの品々を手に入れてきました。多くの人々が裕福になり、機械化によって快適さを手にしました。しかし、 精神面で非常に貧弱になりました。以前の人間のような忍耐力も知識への熱き思いも失いました。なぜなら、飽くことのない欲求の虜となり、もがき苦しんでい るからです。そのため人生は、その人にとって害となっています。このような人は、読書に時間を割くことはありませんし、長々と続く複雑な話に、忍耐も尽き てしまいます。そもそも、『メスネヴィー』は、物語の本ではありません。『メスネヴィー』は、真実を語る本であり、霊知の本です。聖メヴラーナは、その序 文で、『メスネヴィーは、アッラーの秘密に到達したい者達のための一つの道である。メスネヴィーは、清浄化された人々の心の癒しである。悲しみは取り除か れ、クルアーンを明白にするための助けとなる。性格が改善する』と記していますが、メヴラーナの作品を効果的にし、考えや感じ方をよりよく説明するため に、不思議な意外な物語を例として伝え、感受性の豊かな人々を虜にする美しいベイトの間に、これらの物語を挿入しました。お互いが複雑に入り組むこれらの 稀な物語の間に隠されたメスネヴィーの宝石である神の英知を見出し、取り出すためには十分注意し、奮闘努力し、忍耐強くあらねばなりません。

メヴラーナが『メスネヴィー』の冒頭にその聖なる手によって綴られた18ベイトの中で、葦笛の言葉を借りて、次のように語っています。

『葦笛を聞くもの誰もが、私の語ったことを理解できるわけではない。私の叫びが聞こえるわけではない。別離の悲しみを知り、心が痛みを感じる感受性の豊かな人間を私は欲する。私の苦しみ、私の痛みを彼の者と分かちあおう』

『メ スネヴィー』を愛するために、このような特性を備える必要があります。人間としてのこのような感覚は、私たち誰もが持ち合わせているものです。しかし、人 生の様々な条件によって、これらの感覚は萎縮し、錆び付いてしまいました。このように、メヴラーナは、『メスネヴィー』によって、これらの感覚を目覚めさ せようとなさいました。私達に高鳴る気持ちを思い出させようとしました。アッラーの道へ、宗教へ、聖ムハンマド(s)の道へ呼び招きました。このイスラー ムの偉大な神の友の名作の数々を、どのように私たちは背負っていくべきでしょうか。『メスネヴィー』のように必要不可欠な本に関心を持たずにいられるで しょうか。神の愛について語り、私たちがどこから来て、どこへ行くのかを知らせ、寛大なものの見方と感じ方を身に付けさせ、人間を、そして人間らしさを愛 することができるようになる聖なるこの本を注意深く読むべきであり、私達の心の中に染み入らせることが、現代の人間にとって特に必要なことだと私は考えま す」といいながら、タサッウフの生き字引のような霊知の宝庫は、この名作についてシェフィク・ジャンの言葉を引用した。

ヤフヤー・シェリフが話をすればするほど、忠俊の目に彼は大きく映り、感動も増すばかりであった。

「なんとも豊富な知識を持っていらっしゃる。忍耐と感謝を備え、生活の中でじょうずにバランスもとっていらっしゃる。

多 くの人々には見られない比類まれな知性と心の雰囲気を持った方であることよ。人生を、他の人々のように大変で、重苦しいとは感じていない。他の人々には見 られない快適さを彼は確信しているようだ。この秘密は、イスラームにあるに違いない。聖メヴラーナをなんともすばらしく語る。メヴラーナの愛について彼が 語るとき、暖かい季節風が私の頬をかすめているように感じる。私の目の前で、大西洋の泡立つ波が広がっていく。私の耳を指導者の霊廟で聞いた魅惑的な葦笛 の音で満たしてくれる」と独り言を言った。味わい深いその話は、さらに続いた。ヤフヤー・シェリフは疲れ始めたが、話のすばらしさと味わいの深さのため、 疲れを感じることはなかった。忠俊は心の中で、体は年老いて見えるが、知能は見事に健全で、影響力の強い方である事が分かった。だが話の続きをもっと望む ことは妥当ではなかった。これ以上続けるのは酷であった。ヤフヤー・シェリフは休息すべきだと感じ、

「先生、この貴重なお話はこの上なく喜びと益を私に与えてくれました。貴重なお時間を私たちのために、さいてくださり、本当にありがとうございました。そろそろお暇(いとま)いたします」と切り出した。

ヤフヤー・シェリフも彼自身とても喜んだこと、また機会があったら、家を訪ねて欲しいと忠俊に伝えた。ムスタファと忠俊は、この聖なる方の手に口付けをし、彼の家を立ち去った。

ムスタファは忠俊に、日本は2003 年を「日本におけるトルコ年」とし、有名な写真家の作品が「国際交流基金フォーラム」の展示場に展示されているので、それを見学に行こうと誘った。忠俊も 喜んでその提案を受けた。展示場では世界的に有名なトルコの写真家、アラ・ギュレルとアフメット・エルゥーウの写真の数々が展示されていた。50年代、 60年代のガラタ、クムカプ、トプハーネ、ベイオウルなどのイスタンブールの町並みを違った角度から撮った白黒の写真、人物や場所をとった写真が並べられ てあった。

忠 俊が展示を観ている間、イスタンブールとコンヤの町の様々な通りをなつかしく思い出していた。ムスタファは、東京での展示会と同時に、トルコでも展示が実 現され、サナト・ウチュゲン(コンヤ、トルコ、日本の3文化間の展示会)で出会ったトルコと日本の芸術家たちが、トルコと日本の美しい芸術作品の中から、 特に2国に特有の作品、マーブル画(エブル)、掛け軸、写真、ガラス、書道などの芸術品の数々を、世界でも比類のない地位を占めるトプカプサライ、トル コ・イスラーム作品博物館や考古学博物館に展示したことや両国の間の文化交流を継続し発展させ、親交と友好を深める新時代が到来したことなどを話した。

忠 俊は日本とトルコとの親交・友好の時代が長く続くよう心から望んだ。「おそらく、多くの日本人が彼の感知したこの熱き愛の雰囲気(空気)を手に入れ、心の 空虚さを満たすことができるに違いない。彼はこの活動で、メヴラーナの重要性を伝えられるよう望んだ。彼もこのために全力を尽くそうと思った。メヴラーナ の強い影響は、さらに深まるだろう。このような価値を備えた人達は、メヴラーナを軸として、寛容さと愛を知らせ広めるべきだ。また、それらを成し遂げるこ とが、人間としての役目の一つでもあると感じた。

 

日本語訳のクルアーンを読む

忠 俊は家に戻るころ、あたりは暗くなっていた。庭の栗の木の下に置かれた椅子にしばらくの間腰を下ろしていた。そして今日、起こったことを思い返した。「何 より満足できる善い日だった。しかし、心の中に何か物足りなさが残っている。この物足りなさは、ヤフヤー・シェリフのすばらしいお話の間も、ずっと感じて いたものだ。なぜだか、心が落ちつかなかった。手を頭の後ろで組み、空を見上げた。まるで諸星がお互いに光の矢を放っているようであった。月の近くまで見 えない太陽が接近し、共に光り輝いているかのようでもあった。そのすばらしい光景をしばらく眺めていた。東からやってきた黒い雲が、側対歩で走る馬のよう にいなないた。満月を覆ったり、あるいは退いたりしながらすばやく移動していた。その様子は、意味不明な幸福感と不安感が交錯し、見え隠れしている心の中 に似ていた。顔に落ちてきた2、3滴の雨が、強く降り始めたので、彼は家の中に入って、夕食をとった。そして、トレーナーに着替えた。時代の文明のシンボ ルでもあるリモコンを手に取り、テレビのチャンネルを回してみた。ヤフヤー・シェリフの甘美な話の後では、周りの眺め全てが、甘いお菓子の上にかけられた 苦いソースのように感じられる」と言いながら、テレビを消した。

目 はテレビの上におかれた聖クルアーンに留まった。立ち上がってそれを手にした。書斎に行き、ランプをつけ読み始めた。はじめに読んだページでは、その深さ がよく理解できなかった。何度も同じ節を読み返し始めた。読むごとに理解も深まった。何時間も過ぎたがまだ読み続け、なかなか手放すことができなくなって いた。彼はその一週間というもの、仕事から戻ると聖クルアーンの日本語訳を読み、理解を深めようと努めた。20世紀になって発見された多くの科学的事実、 真実が14世紀も前にクルアーンで解説されていた。それを知ると、彼は当惑した。

「これほどすばらしい宗教でなかったら、メヴラーナが信じたはずがなかろう。聖ムハンマド(s)がこれほどまでにすばらしい人間でなかったなら、メヴラーナが彼の後をついていったはずがなかろう」と独りで考えた。

忠 俊は、何週間も読み続け、何度も内省した後、ムスリムになることを決心した。この重要な決断をヤフヤー・シェリフに話した時、通常誰かの手助けがなければ 立ち上がることのできない彼が、信じられないほどすばやく立ち上がり、忠俊を抱きしめ、そして信仰告白を彼に促し、『イスラームを選んだことが、あなたに とってよき事となりますように』と言いながら、彼をターハーと名づけた。

  ターハー(忠俊)は、自分自身を大変未熟と思い、時間があればイスラームの命令と禁止事項を学ぶのに力を尽くしていた。ヤフヤー・シェリフの家によく出入 りするようになっていた。ヤフヤー・シェリフも彼を見るのは快かった。彼も、また幸せを感じた。ターハー(忠俊)がムスリムになったきっかけである聖メヴ ラーナに関する彼が持っている知識を全て、ターハー(忠俊)に伝えようとした。ターハー(忠俊)のいつもとは違った様子から、メヴラーナに深い感銘を受け ていることは明らかだった。この感動は、イスラームと共に一体化しながら、根付き、確実なものとなっていった。

ある日曜日のことだった。ターハー(忠俊)は、ヤフヤー・シェリフの前で正座し、発せられる貴重な彼の言葉を待っていた。

  ヤフヤー・シェリフは手に持っていた本を置き、めがねをはずし、歴史の中で叫び続け、メヴラーナへ忠誠を誓う花のように、大輪を咲かせたシェイフ・ガーリ プと彼のメヴラーナに対する愛について語り始めた。「1792年、若きオスマン帝国の王、セリム3世の車がガラタへ向かっていました。道の通りの人々は、 統治者の美しい、強いやさしいお顔を一目見ようと、興奮状態であり、活気に満ちていました。『またメヴレヴィーの館へむかっているのだ』と口々に言い合い ました。偉大な作家、作詞家でもある統治者は、同時に謙虚なメヴレヴィーの修行者でもあり、真の主をこよなく愛する熱い愛の持ち主でもありました。まさし く、その日もメヴレヴィーの館で他の修行者たちと共に、読み学ぶために向かっていたのです。有名な曲の一つである「スーズィ・ディラーラ・アイン・シェリ フ」を、その日、みんなで聞きつもりでした。セマーハーネの半円型の天井に響く永遠の讃歌によって清められ、存在(被造物)としてのこの世の苦しみから解 放され、穢れを浄化する予定でした。セリム3世がそこへやってくると、シェイフ・ガーリプとメイダンジュ・デデが、上に旋踊用のヒルカ(覆い)をはおり、 彼を待っていました。挨拶を交わした後、シェイフと王は同時に座りました。オスマン帝国の王もテッケ(修行場)に一歩入ると、彼が受ける応対も他の場所と は違います。セリム3世はテッケに入った瞬間から、取るに足らない弱き修行者の一人となるわけです。メイダンジュは祈りを捧げようとする状態で待っていま した。しばらくして、セリム3世を、王の礼拝所に連れて行ったメイダンジュの『白い聖なる衣装に平安あれ、ヤーフー』という声によって、メヴレヴィーのデ デとして役目を続けました。少し後、「スーズィ・ディラーラ・アイン」の音楽と共に、セマーが始まりました。シェイフ・ガーリプには青白い顔を飾る顎鬚が ありますが、彼はセマーの広間の中央にいました。アリフという字のように眼を細めた悲哀に満ちたまなざしは、まるでその旋律を彼自身の存在によって具現化 しているかのようでした。セリム3世が、シェイフ・ガーリプに向けた熱い視線は、シェイフ自身の中に、その旋律に虜となったお方(メヴラーナ)を見ていま した。

白 いスカート状の衣装が、次第に開かれ、それを眺めている者達を天空に導くかのように回転するセマーゼンたちの顔には、1ディルへムほども血は残っていませ んでした。葦笛奏者、クドゥム奏者、預言者への讃歌を朗読する者達は、いつもよりその日は、激しく陶酔し、熱き愛をより強く感じさせました。この世か、あ の世か、どこで生きているのかも分からないほど自我消滅の域に至り、自我がとけ流れ出してきました。愛によって、無となり、消えて無くなったのです。見て いる者達の誰もが、耐えられずに、隣の者の耳元で、『聖メヴラーナが、この誉れ高きセマーに、霊的に共にいらっしゃるのではないかと思う。私は彼を心の中 で感じるし、彼の香りも感じる』と囁きあいました。セマーの終わりにアフチュ・デデの詩人のフールースィーが、シェイフ・ガーリプに向いて手を掲げ、 『アッラーが祝福し給うように。恵みの数々、アッラーの御言葉を・・・』と祈り始めると、そこにいたものは、みな力尽き、燃え尽きて見えました」

 ターハー(忠俊)は、

「シェイフは、チェレビー(メヴラーナの子孫の呼称)でしたか」

「チェ レビーではありませんでしたが、彼のお父上は知識の豊富な方であり、同時に詩人の魂も備えていました。息子にイスラームの知識と共にタサッウフ(神秘主義 思想)の知識と生き方を教え伝えました。ガラタ・メヴレヴィーハーネにも絶えず通っていましたが、彼の心は説明できない苦しみ痛みでいっぱいでした。肉体 が、彼にとっては狭すぎ、彼の魂をそこへ閉じ込めておくことが困難でした。何をしてもその苦痛を忘れることはできず、癒されもしませんでした。彼が確かに 抱いていた考えと言うのは、ただ一つ、コンヤをいつか訪れ、チレ(40日または1001日間、子房に籠もり水とパンだけで行う忍耐を必要とする行、アッ ラーに近づくための行)の修行することでした。そこで、消えて無くなり、忘れ去られ、この特効薬の無い痛み、苦しみから救われたいと望みました。1001 日の修行の中で、自我滅却し、アッラーの中で無となれると信じていました」

ターハー(忠俊)は、「まるでわたしのようだ」と思いながら、注意深く聞き続けた。

「この考えと信条は、このうえなく強く彼を抱きこみ、ついには全てを捨てて、彼はコンヤへ出発することになりました。以前デデとしての段階に達していましたので、小房の人(フジュレニシン)となりました。その後、「美しき愛」と言う作品を記しました。

そして、

『我は霊感をメスネヴィーより得たり。

我は盗み、神の友の宝庫から財宝を盗みけり』

と語りながら、彼に霊感の源が、『メスネヴィー』であることを語りました。

『美しき愛』からは、彼の悲しい叫びと嘆きの声が聞こえてきます。

も ともと、その神秘は『メスネヴィー』から得たものであります。シェイフ・ガーリプは、施し様のない絶望的な困難の多いこの世界を、熱き愛によって乗り越 え、さらに燃え焦がれ、意味深い神の愛の中で、溶けて無くなり、消えたのです。シェイフ・ガーリプは、聖メヴラーナをたいへん深く、本質の部分で愛しまし た。セリム3世も、コンヤの聖メヴラーナの霊廟を改修し、聖なる棺の上に覆いを造らせました。この聖なる信託を実現させる仕事は、シェイフ・ガーリプに与 えられました。シェイフ・ガーリプは、このようにして2度目のコンヤ訪問を成し遂げました。これを記憶に残っている頌詞の中で、次のように語りました。

『ムイッディーンの秘密は、セリムへ解き明かされた、

スルターン、ジェラーレッディーン・ルーミーの恵みに慣れ親しみ、

霊廟を手直し、覆いで飾り、

成した事にて、精神世界で幸せを得た』

  シェイフ・ガーリプは、託された仕事をコンヤで果たし戻った後、統治者の部屋で、彼と向かい合って語り合っていました。伝承によると、こよなく愛したこの 詩人のひざの上に、統治者は彼の頭を乗せ、コンヤの雰囲気に浸りながら、眼を閉じました。恋しいお方が住む場所にそよぐ風を感じ、清められたということで す。そしてその後、『わが師よ』といい、『語って下され、留まらずに、語り続けなされ。聖メヴラーナと聖メヴラーナの数多くの奇跡の中から、いくつかをお 話し下され。あなたのすばらしい声が、私に届けられることによって、我の魂が癒されるように』

シェイフ・ガーリプは微笑みながら、

『我 が統治者よ、聖メヴラーナの最も偉大な奇跡とは、今ここにあります。ある統治者が、私のように取るに足らない、か弱い修行者のひざの上に、御頭をおのせに なり、横になっていらっしゃるお姿です。そして、彼(聖メヴラーナ)について語らせていることです。これが、奇跡ではなく何でしょう』といいました。(現 在イスタンブールのガラタ・メヴレヴィーハーネで彼はお休みになっていられます)

ターハー(忠俊)は、強い望みを抱いて、

「今度、イスタンブールに行ったとき、彼のお墓を訪問しよう」と言った。

ヤフヤー・シェリフは、

「さ て、我が息子、ターハーよ。聖メヴラーナは、文学でも、詩の世界でも、詩人たちの芸術理解に関しても、新分野を開拓していきました。彼の死後、今日まで思 想、哲学、作品の数々は、彼の時代だけでなく、その後、何世紀もの間、その寛容さによって、心ある者達の王として、君臨し続けました。聖メヴラーナは尽き ることの無い、無限の霊感の源として、東の世界でも、西の世界でも、科学者、芸術家たちに対しても強い霊感を与え続けました。と同時に、関心もより深く寄 せられ、探求し続けられてきました。モッラ・ジャーミーは、『預言者ではないが、彼には本があった』と記しました。さらに何人かの画家たちにとっても、霊 感の源となりました。ご存知かどうかは分かりませんが、レンブラントもこのうちの一人です」

「はい先生、私がとても気にいっている絵が、それらの中にあります」

聖 メヴラーナの神秘的で感動的な作品は、真実の探求の時代に、言葉の本質と美を追究する文化人の霊感の源となりました。そして、今日でも、それは続いていま す。真実について何巻も書物を記しました。彼の思想、哲学は、13世紀の大混乱の中、アナトリアの人々の希望と癒しの源となりました。必要性が十分認めら れ、平安を伝える聖メヴラーナの詩の著しい特徴は、疑いなく、神の被造物として貴重な存在である「人間と人間らしさ」について、感性豊かに語られているこ とでしょう。

外観は小さく、しかしその真実において偉大な世界である人間と人間の思想に頭を垂れたのです。見方を変えれば、思想の人類学ともいえる分野を開拓しました。

「存 在の単一性」に従って、目に見える現象の基には「完全なる真実」であるアッラーが存在し、彼が全てを創り給うと考えました。最終的に、それぞれの被造物に 彼自身を顕現し給うと捉えました。しかし人間は、全ての被造物の中で、最高レベルの特質を備えています。誉れ高きクルアーンの「アル・ヒジュル章」と 「アッ・サジダ章」の中で明らかにされているように、アッラーは、しもべにご自身の息吹を吹きかけ給い、人間を誉れ高き存在として創り給いました。そのよ うに知られている人間は、その特権である意識を十分活かして行動すべきです。万有が創造された理由に基づき、未熟であっても、燃え焦がれ、熟すべきです。 あらゆる特性と美を備えた唯一の姿をお持ちのお方に戻るべきです。自我の欲望を消し去り、物質的存在を溶かし、美徳、美点、寛容、愛などの精神的概念を統 合し、本質に戻るべきです。ユーヌスの言葉を借りれば、『創られた全てのものを、愛さなければならない、創り給うお方のために』です。寛容でなければなり ません。さらに誠実でない者に対しても、寛容でなければなりません。敵に対しても、40日間、続けてよい言葉よい態度で接し、彼らの心を得るよう努めなけ ればなりません。あるトルコ詩人の語るところによれば、『愛、信念、寛容をシンボルとしてそよぐ風が、そよぐところどこにでも、春の気配を運び込むよう に』または、『光を放つ存在を示さねばならぬ。敵の心をも愛さねばならぬ』のであり、『愛によって、苦さは甘さに変わる。愛によって、銅は金に勝る。愛に よって、よどんだ空気は澄み切った清らかな状態となる。愛によって、痛みが癒される。王はしもべとなる』とのことです。

  このようにアッラーヘの熱き情熱と愛によって得られるこの精神性は、自分自身を孤独で無力と感じ、慈しみ、徳、真実を、彼の精神世界で探し求めたエスラー ル達は、「メヴラーナの思い出の扉」となり、ライラー婦人達も、「苦しむ心を癒す愛の秘密」となり、ズィヴェル王達も、「神の友の王、フンカル(王)、奇 跡の王スルターン、援助する王はシャー」となりました。こよなく愛するヴェイセルも、「愛する者たちのカーバ、心のクブラであるメヴラーナの扉の敷居に頬 擦りし、敬意を込めて手を組み、彼の御前に侍りたい」と言う強い望みを明らかにしています。ハリデ・ヌルサト・ゾルルトゥナも、「枝にて、ナイチンゲー ル、とびらの敷居にて、しもべ」と、なりたかったようです。

メ ヴラーナによると、自我教育をするものは、神への愛によって、誉れ高き存在となり、神とあいま見えることを心から望むようになります。彼に従えば、死とは 甘いシェルベト(甘美な飲み物)です。この考えに基づくと、死に対する冷たい顔は跡形もなく消え去ります。死の瞬間を、追慕する最も偉大で愛されるお方に あいまみえる瞬間と感じます。その瞬間は、全てが終わってしまうのではなく、真の不死への道が始まる時であり、アッラーから離れてしまった人々も、全ての 罪が清められ再び彼にお会いする時であり、永遠の始まりの時です。

メ ヴラーナは、『死後、墓の賢者たちの心の中にわれあり』と語りました。詩人フダイーは、無数の心が、「メヴラーナの扉の敷居」で、完全さに到達することを 暗示し、メスネヴィーの館のマフムート・デデも、抒情詩の中で、メヴラーナの修行場の熱き愛を持つ者達全てに、秘密を明らかにする崇高な修行場であること を強調しています。

  幾人かの詩人たちが語ったように、メヴラーナの修行場は、12世紀の人々を導くために造られた四方壁に囲まれた場所ではありません。その修行場とは、闘 争、喧騒のない世界を探す今日の人間たちに光を燈す諸思想(考え方)であり、探求すればするほど、より深く理解できる作品集です。彼の修行場とは、『ルー ミー語録』であり『偉大なる詩作集』です。さらにすべてのイスラーム世界で、クルアーン、ハディースの後に、最も聖なる書物として知られ、メヴラーナの人 生の真髄といえる『メスネヴィー』です。

ネー フィーの説明によれば、各々のベイト(二行連句)が一つの霊感の世界を形作るこの作品は、その一文字一文字が、大海に匹敵する光を放ちます。どの話にもク ルアーンの物語が解説され、数多くのベイトにクルアーンの節とハディースを引用し、補足もされているため、「クルアーンの精髄」と呼ばれる『メスネ ヴィー』が備えた神聖さは、何世紀も後でマフムート2世の兄弟アーディレ・スルターンによって、

「メスネヴィーの抒情詩は、クルアーンの秘密を暗示せり

預言者の言葉を伝えるもの、霊知と喜びの源なり」

と言う2行を作りました。

B・ケシフ・アクギュネシュによると、彼を、『心的境地に達した者、カマールッラー』と形容しました。

宗 教的知識から実証的知識まで、天文学から医学まで、心理学から哲学まで、歴史から神話まで、果てしない広々とした知識の大海であるメヴラーナ・ジェラー レッディーン・ルーミーは、一方でメヴレヴィーと言う名で形づくられ、何世紀もの間、影響し続けることができる世界観を確立し、礼節の理解を保ち、喜びの 源となり続けてきました。その一方で、芸術や芸術家も、また様々な新しい観点を勝ち得ました。芸術を礼拝所とし、崇拝行為と切り離せないものとして捉えま した。メヴレヴィー音楽、メヴレヴィーのセマー、メヴレヴィー文学など、彼の開いた新天地の分野で、芸術の概念に新たな意味を勝ち得させました。ただ彼の 芸術は、人間の楽しみに応える芸術ではなく、神への愛を包み込む芸術です。

メ ヴラーナは、原始時代からずっと人間たちが、魂の高揚の表れとして表現し続けてきた舞踊と音楽芸術を、神への愛に溢れた心の中で作り出された魂の恐れと慄 きと共に溶けさせました。トルコ詩人、ギョクハーン・エヴリヤーオウルの説明によると、『宗教に音楽をではなく、音楽に宗教を持ち込んだということです』 改革を旨とするこの新しさは、時が経つにつれ、他のタリーカ(教団)にも波及しました。同じように向かい合って美しい何千もの神に関する歌の合唱に、ク ドゥム(鍋型太鼓)、ネドベ(サズの一種)、ハリレ(サズの一種)、ベンディル(サズの一種)などの楽器も加え、大コーラスを結成し、長い間その美しさを 伝え続けてきました。宗教的感覚を美しく伝えるためのシンボルである葦笛はバナルルの説明によると、神の御前で、肉体という鳥かごからすくわれる熱き望み と良心のかけらを人間たちに感じさせるものであるということです。この熱望の極みは、メヴレヴィーの館で育成されたイトリーレル(作曲家)、ハーフィズ・ ポストラル(宗教色の濃い曲を作る作曲家)、デデ・エフェンディなどで、その芸術の最高峰といえましょう。メヴラーナを「驚異なる天才」と価値付けした葦 笛奏者のテウフィークは、時折4行詩を用い、メヴラーナに近づきたいと欲しました。A・K・シェノールの「メヴラーナの霊知の潤沢」によって、満たされた 霊的器である葦笛が作り出す魂の高揚を、有名な詩人ヤフヤー・ケマルも、

「我らはメスネヴィーの熱き思いを天空に引き出す葦笛なり、

我らはハシュルの時、メヴラーナの聖なる吐息そのものなり」

と言う行に、その思いを凝縮させました。

あ れから何百年もの年月が過ぎたのにもかかわらず、残された作品の数々は大いなる学問の世界で探求し続けられているテーマとなっています。メヴラーナは、よ せてはかえす波のように、心の琴線を震えさせ続けています。私が大変気にいっているトルコ詩人、ナージプ・ファーズィル・クサキュレキレリもまた、

『われは知る、芸術とはアッラーを捜し求めることなり、

これが真の知、他の知はただの棒打ち遊びなり』

これらの行によって、新しい芸術理解に至ったファーズィル・クサキュレキ派も文学上、無限の霊感の源として語り継ぎ、詩作もしました」

  忠俊は、心をすまして注意深く聞き入っていた。しかしヤフヤー・シェリフが伝えたことは、コンヤでの旅の間、ガイドが伝えたことや読んでくれたものの要約 であり、それとよく似ていた。重なる情報は、確実さを証明することとなった。「今聞いたことを100回いや1000回聞いたとしても、飽く事はないだろう 思う」と呟いた。だが、ヤフヤー・シェリフが、これほど知識豊かで、教養があることには驚くばかりであった。ヤフヤー・シェリフは、かなり疲れている様子 だった。そこで彼は休むため許可を求めた。忠俊は腕をつかみ、彼が立ち上がるのを手助けし、寝室へ連れて行き、寝かせた。手に口付けをして祈りをしてくれ るようにお願いした。

 

メヴラーナへの熱き思いがコンヤへ引き寄せる

ター ハー(忠俊)の魂に吹く風は向きを変え、風はコンヤへ向かって吹き始めた。彼は引き寄せられ、ついに耐えられなくなった。「この年まで会社のために過ごし てきた。一生懸命がんばってきた。ここでしばらく暇を取り、風の吹くまま気の向くままに、心の向くほうへむかっていってみたらどうだろう」と呟いた。そし て、思い立ったが吉日と、コンヤの指導者の許へ飛んでいこうと突然決めたのであった。次の日、直ぐに会社の仕事に段取りをつけ、航空券を購入した。ヤフ ヤー・シェリフに別れの挨拶をし、メヴラーナに敬意と平安を届けることを約束した。

数時間後、飛行機はトルコ上空に向かって飛び立った。ムハンマド・イクバ- ルが行ったように、トルコ上空に入ると彼もまた立ちあがった。イスタンブール空港に到着すると直ぐ、コンヤ行きの飛行機があるかどうか尋ねた。航空券を買 い、待ち始めた。ガイドの魂を揺さぶるような話し方を思い出した。すぐに電話を取り出し、彼に電話してみた。そしてしばらくの間、彼と話をした。そして、 ターハー(忠俊)はイスラームを選び、ムスリムになったと言う吉報を伝えた。ガイドはこれを待ち望んでいたこと、信じられないくらい幸せであることを、涙 声で伝えた。彼は、この吉報には、自分も何らかの役割を果たしたと思った。また、そう思うことでより幸せな気分になっていた。

「忠 俊さん、『メヴラーナは、「知りなされ、見出しなされ、成りなされ」とおっしゃられました。不幸にも、多くの方がメヴラーナを知り、見い出し、そしてこよ なく愛しましたが、ムスリムになることはできていません。あなたはなんと幸運な方でしょう。知り、見出しそして成ったのですから。もう一度、おめでとうと 言わせてください」と言った。

ター ハー(忠俊)はコンヤへの航空券を買ったことを伝え、もし時間があれば、ぜひ一緒コンヤへと行こうと提案した。ガイドは一瞬沈黙した。数分後、自分は黒海 地域でガイドを現在していること、もし時間が取れたらコンヤへ行きたいと思っていること、さらに友人のアドレスをあげること、彼があなたの手助けをしてく れることなどを話し始めた。最後に、聖メヴラーナに平安の願いを届けてくれるようにとお願いした。ターハー(忠俊)は直ぐにアドレスをメモし、何度もお礼 を言った。

そ れからの数時間は、まるで数世紀間のように長く感じられた。やっとコンヤへ出発する飛行機が到着し、搭乗の準備が始まったと言うアナウンスが聞こえてき た。忠俊は飛行機が一分でもいいから早く出発してくれないかと思った。「翼があって飛べたなら、飛行機よりもより早くつけるような気がする」と思うほど我 慢できなくなっていた。飛行機は、ついにコンヤの上空に近づいた。忠俊は、胸がどきどきし始めた。あふれ出る指導者への愛を胸に、彼の香りを感じ、彼の霊 廟の前に跪くことでつのる思いを消し去り、永遠という感覚の中で息づくという瞬間が、正に数分後やってくる。飛行機の窓から、天空を眺めると、そこでも、 指導者の神への熱き思いによって、秘められた真実が飛び舞っているように感じた。まるでそれらの秘密によって、感覚もまた飛び立った。指導者の神への熱き 愛に出会い、永遠の世界へと高められていくようであった。突然、飛行機は高く、さらに高く飛びあがった。ロケットのように、いくつもの大気圏を抜けていく 感じがした。そこで、神への熱き愛が、メヴラーナの魂(ルーフ)と出会うことを望んでいるかのように、愛を乗せた飛行機は、より早く高く飛んだ。十分語る ことのできない言葉、的確に形容できない文が、満たされることのない心の中で、もがき苦しんでいた。天空の果てのさらにその向こう側でも、メヴラーナの吐 息から天の川まで広がる熱き愛の輝きが瞬いていた。愛する者に会いたいという熱望は、シェムス・テブリーズィーのそれと同一のものかもしれないと感じた。 指導者は、死を「婚礼の夜」とたとえた。母親に会いたくて、彼女の腕の中に飛び込みたいと望む子供のように、彼の魂の中に、心の中に、そして眼の中に追慕 の気持ちが色濃く表れていた。

つ いに、コンヤだ。メヴラーナの種が芽吹き息づく、優しい指導者の香り漂う街。歴史の一頁、一頁が並べられたような数々の通り。寛容さと愛が円を描いて周 り、天高く昇っていく。メヴラーナを軸とし、愛を軸とした熱き愛の大洋、まれに見る街、コンヤ・・・ 初めてやってきたときからずっと、東京とコンヤ間の つり橋が、彼の心の中に架けられていた。つのる思いを胸に抱きながら生きていた。彼は、飛行機の窓に近づき、青緑色の高貴な霊廟を見つけようと必死になっ た。

聖 メヴラーナの霊廟のそばのホテルにチェックインし、受付の者に霊廟のみえる部屋を取りたいと伝えた。荷物を置くと直ぐ、アブテスト(祈りの前の洗浄)を し、2ラクア感謝の礼拝を捧げた。すぐさまその足でホテルを出て、メヴラーナの扉に駆けつけた。チケットを買って、中庭に入った。心のそこから喜びの叫び が湧きあがってきた。来世を偲ばせるそこの香りを、胸いっぱい吸い込んだ。庭の真ん中のくぼんだ貯水池に噴水から流れ落ちる水の音さえ、『メスネヴィー』 の旋律あるベイト(2行連句)を詠んでいるように聞こえた。靴を脱いで、指導者の堂々たる棺の前に留まり、彼にセラームを贈った。まだ覚えたてのクルアー ンのファーティハ章(1章)とイフラース章(112章)をメヴラーナの魂に贈った。頭をたれ、時の神聖さの中で、彼は生き始めた。涙がとめどなく溢れ、頬 をぬらした。思慕という言葉が、水のように透き通り、息を吐くごとに滑り落ちていく。真っ暗な穴の中へ、さらにそのまた奥の底なし井戸に流れ込み、燃え悶 えた。一息一息が心の琴線を爪(撥)で、弾き鳴らした。非常に濃縮された感覚の中で、テブリーズィーが聖メヴラーナに出会った時に感じた熱望(つのる思 い)と熱き愛に、彼は到達していた。つのる思いは、川のように流れ落ちていった。神への愛の鎖は、意欲溢れる彼の心を繋(つな)ぎ留めた。一つ一つの輪 が、『メスネヴィー』の二行連句、熱き愛、静かさをそれぞれ備えており、足枷となる鎖には、恋に焦がれたナイチンゲールが一羽ずつ繋がれていた。ベイト一 つ一つ、恋焦がれた鳥の炎の一つ一つが、体中の細胞一つ一つを燃え焦がした。『葦笛の叫びは、魅惑的でもあり、燃え、焦がれ、もがいているようでもあっ た。すばらしい音響効果だった。高貴な香り漂う愛が、半球型の天井内に鳴り響いた。神のような季節風と勇ましい美が、この愛をさらに燃え上がらせた。

永遠の霊酒(神への愛)の中で、自我を消滅させた。

存在と言う世界からすり抜け、この雄大な世界へ飛び込み、その中で、目的となる舞台装置の一部と化した。秘められし旋律は、詩のように体中を取り巻いた。

 会いたいという強い気持ち、無音のシャワーのように流れ出る思慕がしばらくおさまるまで、指導者の前で、何時間も留まっていた。心の中の気が狂いそうになるほどの痛みは、次第に消え、弱まっていくのを感じた。

座っ ていた場所から立ち上がり、博物館を見学し始めた。何世紀も前に、ガゼルの皮に書かれた高貴なるクルアーンをよく観察した。メヴラーナはなんといっている だろう。「クルアーンは針金のベールで覆われた花嫁に似ておる。そなたがそのベールを開くために手を差しださぬなら、そなたにその顔をみせようとはせぬ」 と。そのとき、できるだけ早く、そのベールを開くために手を差し出そうと彼は自分自身に誓った。次に「誉れ高き顎鬚」に近づいた。中からのなんともかぐわ しい香りは、細胞の一つ一つにまで行き渡った。彼が中に入ってから、もうずいぶん経っていた。閉館の時間まで余り時間がないことに気づき外へ出た。

  忠俊の魂には、確かに違った世界が、活き活きと形成されつつあった。空虚さは満たされ、色彩は明るく映え、花々は咲き乱れ、ナイチンゲールがさえずり、す ずめも飛び交い、クローバーは静かに囁きあい、泉は滾々(こんこん)と溢れでる、そんな世界であった。庭の外へ出た。しかし、彼の心は、一時も離れたくは なかった。その時ふと、この前旅の途中に入ったレストランのことを思い出した。名はなんだったろう。そこへ行かなければと思った。その風景をもう一度みた いと思った。

  その指導者のバラの園にちなんでその名がつけられた「バラの園」と言う名のレストランを訪れ、バルコニーに出た。霊廟と彼の聖なる御足が踏まれ、散策さ れ、バラの香りを嗅がれたであろう「バラの園」の全貌が見渡せる席に着いた。やってきた給仕に注文をし、霊廟を眺め始めた。なんともいえない大洋の水が音 を立てあふれ出した。言葉が彼の唇から詩となり、白い紙の上に一滴一滴零れ落ち始めた。

 

バラの園に住み

生き続けるあなたを、私は、

私の心は満たされ、あふれんばかり、

かの壁から中へ、

 

石の壁には熱き愛が、

私も一塊の石となろう、

窓枠にはさえずりが、

恋に焦がれた鳥となろう、

 

飛び回るシェムスとなり

聖なる小房に籠もろう

アユズジュ(御不浄を清める者)となり

私の驕りを砕こう

 

扉のパシュマクチュ(草履取)となり

扉の敷居に顔をすりつけよう

セマーではバラたちと

あなたをあなたの中で見出そう

 

1001日の苦行を終え

ジャン、メヴレヴィーとなろう

自我消滅し

歓喜の海へ自らを放とう

 

もう躊躇わずに

さしのばせ、台所の料理に

飲み込むごとに味わおう

永遠の熱き愛を想い起こそう

 

青緑色は、何にも似合わない

あなたの霊廟のほかには

一度麝香の香りを知ってしまったからには

もう離れることはできまい

 

あなたのベールを開け眺めることができるなら

千度でも命を捧げよう

谷峨のたとえもあるように

燃え焦がれ、墓に落ちることができるなら

 

この炎が私を焼き尽くす

はじめなきはじめからずっと

私の心が燃え焦がれるのを

あなたは私をお待ちくださったのだろうか

 

ター ハー(忠俊)の眼の泉から、白い紙の上に零れ落ちる宝石のしずくが、言葉と混ざり、詩となった。思い出の物語となった。バラとなった。何日も何日も、白紙 のページに彼は記し続けた。葡萄酒の杯を熱き愛によって、埋め尽くすかのように。まるで「チューリップ、ヒヤシンスの手の中に、葡萄酒の杯を持ち、それぞ れが杯を飲みほし、陶酔する。バラはその手の中に葡萄酒の壺を持つ」と言ったように。「バラに尋ねた。この美しさは、このかぐわしい香りはだれから盗んだ のか」と。バラは微笑みながら、「その秘密は、熱き愛に酔う者達にお尋ね下さい」と答えたように。

「肉体よ、汝は黙し、汝の心に語らせよ。心の言葉には、汝も、我も存在せぬ」そして「心の故郷から真の酒の美しい御顔が示され給うた」と言われるように。

  嘗て「愛は最良の友」と言われたように、愛はターハー(忠俊)の最良の友となり、何日間もこの世の全てのことを忘れさせたのであった。小宇宙の世界から大 宇宙の世界まで、全てがわらの束のように取るに足らないものに見え始めた。一方で、絶え間なく悲しみも感じ続けていた。「精神科の医師たちは、メヴラーナ と彼の作品集を必ず読むべきだ。メヴラーナは人生に対し、非常に現実的アプローチをしている。その点から見れば、人間、人生、出来事に対して、いつも前向 きで肯定的な接近方法を用いている。人間性を大変重視し、信仰と人生観を確立する上で、それは必要不可欠なものであると、彼は頭の中で何度も繰り返し考え ていた。何度もホテルとメヴラーナ博物館の間を往来し、過ごした。

恋 焦がれる想いを薄れさせること意外、彼の頭には何もなかった。まるで、別世界に生きているかのようであった。ネクタイをすることさえ忘れ、携帯電話を充電 することも忘れていた。電話が目に留まったので充電をした。しばらくすると、20-30通メールが来ることがわかった。送信者の中には、ガイドの名も記さ れていた。メールを開けると、そこには、仕事の都合がつき、彼はコンヤへやってくることと、その日付が書かれてあった。時計のカレンダーを見ると、ちょう ど今日が、その日であった。「今日やってくる。どうしてこれほどぼんやりしていたのだろうと悲鳴を上げ、直ぐに彼に電話をかけた。泊まっているホテルの名 を伝え、会う約束もした。そしてガイドも同じホテルに泊まることになった。

 その夜、何時間もメヴラーナに関する愛について、ガイドと夢中になって語り合った彼は、時のたつのを忘れてしまった。ガイドのコンヤにいる友人が、2人を朝食に招待したいと連絡してきたため、語り合うのを留め、部屋に入り、休むことにした。

 

メヴラーナ時代のメラム

  ガイドの朋友であるジェラーレッディーン・エフェンディのメラムの家を訪れた。小さな林の中の小川のほとりにあるこの住まいは、涼しさと快適さに包まれて いた。ジェラーレッディーンの息子のメフメットは、微笑みながら敬意を込めて彼らを出迎え、客室に通した。ジェラーレッディーン・エフェンディは、東洋的 に飾り付けをしたサロンの長いすの上に腰をかけて待っていた。ガイドとターハーはこの高齢で光溢れるお方に手に口付けをした。ガイドに示した愛情と親近さ と同様の、いやそれ以上の愛情と親近さをターハーに示した。ターハーが最初に気づいたのは、かすかにネイの音がきこえる不思議な雰囲気だった。メヴラーナ とメヴレヴィーに関する品々がすべてあった。飾り台の上にあるフェルトのメヴレヴィーのスッケ、隣同士に並べられた数々の葦笛、クドゥム、数珠、書物、壁 にかけられたすばらしい手書きのクルアーンの諸節、セマーゼンの写真等々。ターハー(忠俊)もいつか同じような部屋を作ろうとその時思った。

  特別に準備された朝食を、楽しい語り合いと共にいただいた。暇をこうときターハー(忠俊)は、誠意を込めて「今まで、私がいただいた中で一番おいしく、よ い朝食でした。あなたのお話とこの朝食に心から感謝いたします」と言った。ジェラーレッディーン・エフェンディの息子のメフメットも、ガイドとターハーに 同行し、3人はメラムのメヴラーナが生きていた時代が偲ばれる場所へと出かけた。愛と精神と思い出を担う石と土と庭は、愛によって出現し、粉と泥は、愛に よってこねられた。いたるところで愛が語られ、全ての家で愛の広間が建てられた。市場では愛が売られ、愛が得られる場所を、彼らは歩き回った。メフメット の言葉は、自然に生まれ出る心からの表現であり、未熟さが取り除かれ、燃え焦がれ、完成した魂と自我を示していた。神への高鳴る想いと共に、無心無我の境 地に辿り着いた。愛する者と愛される者は、その言葉から零れ落ちずに、彼の御跡と彼の香りと彼の美しさに、そして、明らかな証と豊富さに、胸を高鳴らせ陶 酔し続けた。メヴラーナの広大で豊かな心が、この世に留まり広く知れ渡ることになるのは、この魂の豊かさゆえに、彼の誕生以来ずっと明白なことであった。

「アテシュ・バーズ・ヴェリーのお墓に参りましょう」道すがら、彼はこの偉大な神の友について教えた。

「名 はイッザディーンの息子シャムセッディーン・ユースフであるこの神の友は「学者達の王」の聖なる一団と共にコンヤへやってきて定住しました。役目は、台所 での料理担当でした。料理した食べ物は愛を込め、心の炎で、火を加えました。メヴレヴィーの台所は一つの独自な世界です。独自のしつけの場であり、独自の 教育の館でありました。一般に簡素で謙虚な食卓、一品のおかず、一日に2度、午前中と午後遅くに食しました。大切な日には、少々甘い菓子類が加えられま す。しかし、台所にはより重要な役目がありました。それはメヴレヴィーに入りたいと熱望する者達の精神的能力を、ここで試験するのです。アテシュ・バー ズ・ヴェリーによって、不合格、合格が決められます。未熟、不適応とみなされると、履物が外に向かって並べられました。アテシュ・バーズは、ペルシア語で 『火に忙しいもの、炎を扱う者』と言う意味です。

ある日のことです。修行場の台所に薪が1 片もなくなってしまいました。アテシュ・バーズがどうしたものかとメヴラーナに尋ねました。メヴラーナは、『そなたの足を釜の下にくべて調理なされ』と おっしゃったので、彼はそのようにしました。燃える足で、生煮えの食べ物を調理しました。しばらくして、メヴラーナがそばを通り、その状況をご覧になりま した。そして、『なんとまあ、アテシュ・バーズよ、なんとしたことよ』と、微笑みました。この日以後、彼の呼び名は、アテシュ・バーズとなりました。この 彼の称号は、百をも超える「メヴレヴィーの館」で、彼と同じ役割をする者たちを象徴する名となったのです。メヴレヴィーでは、台所で食べ物を調理する時、 水配を配る者が座る場所(サカ・ポストゥ)では、新しい学人も、燃え焦がれ、熟するわけです。次にジャンとなり、小房へ入ることを許され、ついにはデデと なります」

メ フメットのこのような甘美なお話が続いたが、しばらくすると墓の門に辿り着いた。中庭から中へ入った。彼らを小柄な年寄りの女性が出迎えた。メフメット は、この年老いた女性が何年もこの墓を守っていると話した。それから年老いた婦人に息災かどうか尋ねた。それからアテシュ・バーズ・ヴェリーの墓を訪ね、 祈り(ドゥアー)を捧げた。墓の直ぐ向かい側にある木の椅子に腰を下ろした。墓守の女性は、その墓を大変きれいに掃除してくれていることに礼を述べた。ガ イドは墓守の女性に、「あなたはこの偉大なお方に仕えていらっしゃるわけですが、何か彼についてご存知のことはありませんか」と尋ねた。墓守の女性の話 は、3人を別世界へと連れ出し、大変驚かせ感動させた。

「あ る晩のことです、墓でアテシュ・バーズ・デデを夢で見ました。広い長い衣装から水がぽたぽた落ちていました。『私のデデよ、どうなさいましたか』と尋ねる と、『我が娘、ファーティマよ、水に浸かったままなのじゃよ』と答えました。朝になると直ぐ治安局に駆けつけ、そのことを知らせました。ありがたいこと に、当局の方は、市役所の直ぐ知らせてくださり、役所の方々が来られました。デデの墓の周りをほっていきました。実際、へこみに作られた墓は、水浸しでし た。ほっている時、別の墓が発見されました。

ア テシュ・バーズ・デデの隣に眠っていた方は、どなたかわかりません。役所の人々は、『発見された墓をメヴラーナの側の墓に埋めよう』と言って、市役所に、 その状況報告をしました。霊柩車がやってきて、ばらばらにならないように細心の注意を払い、車に移そうとした時は大変驚きました。ご遺体は、まるで今日な くなったかのように活き活きしていました。『おば様、いらっしゃって、触って見てください。全く腐敗していませんよ』と、役所の人が言いました。遺体の手 は、まるで生きているようでした。彼らは彼を車に乗せ運び去りました。

あ る日、アンタリアに住む娘が、『お母さん、冬をここで過ごしましょうよ。なかなか来てくださらないのですもの。ぜひ、いらっしゃってください』と私を招待 してくれました。デデを残したまま行きたくなかったのですが、娘が何度も頼むので、ついことわりきれず出かけました。アンタリアに来て3 日目のことです。ドアのベルが鳴りました。娘婿が、『こんな夜中に誰だろう、インシャアッラー、良い知らせだといいのだが』と言いながら、ドアを開けまし た。娘も隣にいましたが、娘婿はそこで誰も見ませんでした。娘は麝香の香りを乗せた風が家の中に入ってきたのを感じました。『いらっしゃいませ。私はどな たがいらっしゃったか、直ぐ分かりました。母のデデがやってきたのです』と言いました。その時、閉まっていたステレオが急に鳴り出し、イラーヒ(神への讃 歌)を奏で始めました。私は直ぐ分かりました。私に直ぐ家に戻って欲しいことが・・・どこにも行って欲しくないことを知っています。夢にもドアの前で、白 装束姿で横たわっていたり、または白い長い衣装のいでたちで、私の前に現れたりしましたから。ですから、デデを一人置いてどこにも行きたいとは思いませ ん、巡礼意外には」と話した。その年老いた婦人は、墓の側のワクフの小さな家に一人で住んでいた。ガイドは、「私たちはとても感動しました。他に何かご存 知のことをお話して下さればたいへんうれしいのですが」と興味深く尋ねた。

「私 の息子よ、余りにもたくさんあるので、何からお話すればよいか困ってしまいますね。それでは、この指輪を御覧なさい。この模様は何に見えますか」と尋ね た。みんなやよく見てみた。中央に小さなバラの花があり、さらにその周りを小さなバラが囲んでいた。周りのバラは、識別できるかどうか難しいほど小さかっ た。「一つ向こうの通りに住んでいる息子がいますが、ラマダーンに私をイフタール(斎戒明けの食事)に招きました。孫娘の指の指輪が目に留まり、とても気 にいりました。今までこのようなことはなかったのです。装飾品に興味は一切ありませんでしたが、本当に気にいったので、私は譲ってくれないかと頼みまし た。『おばあちゃん、これは私のではないのよ。友達なの。でも明日学校へ行ったとき頼んでみるわ』と言いました。でも頼みは受け入れられず、孫娘は持って 帰りませんでしたので、少し悲しくなりました。初めて欲しいと思ったものでしたから。数日後、アテシュ・バーズの墓の中を掃除していまいした。あの角に見 える緑色の覆いをした三脚台の上の高貴なるクルアーンの側に、まったく同じ指輪が置いてあるではありませんか。手にとってはめてみました。デデは私が悲し むのを見ていられなかったのですね。指輪を街に行った時、宝石商に鑑定していただきました。ルーペでよく見て調べると、この線のように見えるバラの葉の間 の曲線はアラビア文字で、実は、アーヤトゥルクルスィ(クルアーン2章255節)が記されてあったのです。『指から決してはずさないように、大変貴重な指輪です』と宝石商の方が言いました。その日以来ずっと指輪は、はめたままですよ」と語った。

 3 人ともいとまを乞い、年おいた婦人の手と指輪に口付けをし、去ろうとしたが、墓守の夫人はもっと伝えたいことがある様子で、話したことだけでは足りないよ うだった。アテシュ・バーズ・ヴェリーに関する様々な思い出をさらに語ってくれた。しばらくして、祈りを唱えてくれるように頼み、この平安な簡素な謙虚な 墓から立ち去った。

「もしよろしかったら、タウス・ババも尋ねてみましょう」と言った。メラムの丘の斜面の松の木の間に7 百年もの間眠り続ける心の覚めた、覚醒者が、「精神の館」に横たわっていた。寛大さの中に謙譲心、そして謙譲の中に偉大さの秘密が、そして、それらの秘密 のシンボルである霊廟・・・「タウス・ババ、タウス・アタ、タウス・ハートゥン」などと呼ばれている。その方は、熱き愛の道を歩み恋焦がれる者であり、歓 喜溢れる世界において王妃であったかどうかわからないが、メヴラーナの生きた時代に生き、高貴で完成された人間であったことは間違いない。セルジュークの スルターン・アラーエッディーン・ケイクバート1世が作った知識(イリム)、霊知(イルファーン)による愛、神へいたる真知の食卓のために、祖国インドに 別れを告げ、コンヤまでやってきたと言われている。

 ここでも、祈りを捧げた後、メフメットは話し始めた。

「メ ヴラーナが、コンヤを愛の炎で燃やし焦がし続けた年月は、毎日セマーの儀式が行われました。話し合いをしたり、詩を詠み合ったりしました。毎朝、メヴラー ナの新しい英知、新しい奇跡によって目覚めました。コンヤは彼の愛と光によって清められ、街を通過する隊商達は、彼の物語や抒情詩や語ったことを世界中へ と運び広める役目を果たしたのです。ブラハ、シーラーズ、デシュトから人々はコンヤへ流れ移り、メヴラーナの訪問にやってきました。彼の善行、美徳の海の 中で、洗い清められました。伝えるところによると、ブハラ、サマルカンドから毎日20人ばかりの人々が、彼に会って戻ろうと言う目的で、家を出発しました が、メヴラーナを見ると離れることができなくなり、コンヤへそのまま残ってしまったとのことです。

ある日、メヴラーナは近親の弟子たちと、『私たちの栄誉が増し、人々が私たちを訪問し、私たちを欲するようになってからこのかた、この世の災いから逃れることが、私たちはできなくなってしまった』とおっしゃっていたそうです。

し かし、預言者(彼に祝福と平安あれ)もおっしゃられているように、『誉れとは災いである。快適さは誉れなきことに在る』しかし、ご命令はこのように下され たので、私たちに何ができましょう。その命令とは、『私の性質を人々に示すように。あなたを見た者は誰でも、私がその中に見えるように、あなたを傷つける 者は誰でも、私を傷つけることになると知るように』です。

あ る日、メヴラーナをこよなく愛する者達を、コンヤまで届けている隊商の中の一隊は、名も素性も分からぬ一人の夫人をも連れてきました。実際、会ったことも ないのに、彼女の心をすっかり奪ってしまったメヴラーナ、彼の愛によって忍耐を学んだこの美しい婦人は、メラムのその小さな丘の頂上が大変気にいりまし た。メラムの有名な情熱のバラ、八重に咲く女王ヒヤシンスが咲き誇る天国を思わせるような丘の上に誰にも知られぬまま、その婦人は小さな庵を建てました。 メヴラーナをこよなく愛する者達は、メラムの園に作られたセマーの広間から帰るところだったのですが、朝が近づいていました。丘の裾野を通った時、レバブ (楽器の一種)の音が聞こえてきました。まるで、イスラーフィールのラッパに似たこの音色は、魂の目覚めを促しているかのようでした。恋焦がれ愛する者達 の胸は高鳴り、夜の疲れも忘れさせました。

深い愛により生ずる熱い何かが、『友よ』とメヴラーナに語らせ、彼はセマーをし始めました。他の人々も後に続き、セマーを始めました。レバブが丘の上でなり始めると、その裾野では、セマーが繰り広げられたのです。

その後、小さな丘の裾野を通ることが、メヴラーナの信奉者達の常となり、次第に道が作られました。

  姿を見せない美しい婦人は、毎早朝、レバブによって魂に警告し、その丘のふもとは、セマーの場と化しました。コンヤの有名な情熱のバラと女王ヒヤシンスの 花たちの間に響く甘美な音色によって、メヴラーナと彼の朋友達の魂は清められたのでした。愛とこの楽器の音色に陶酔し続けるコンヤでは、陶酔の傍ら、陰口 と妬みも広まっていきました。興味本位の人々は、この姿を見せない婦人について、『その美しさを、メヴラーナにも隠そうとなさるのか』と口々に話しまし た。毛糸玉を一本一本解きほぐし始めましが、それらを解きほぐす必要などありません。この世には、秘められたまま齎され、秘められたまま立ち去っていく秘 密もあるのですから。

  ある朝、早くバラの咲き乱れる丘の裾野で待ち続けていた信奉者達は、少しずつ人生に目覚めつつありました。その日も、レバブの音色を待ちましたが、音は聞 こえてきませんでした。胸に不安を抱き、心は暗くなっていきました。メヴラーナも、沈黙の衣装をはおり、待ち続けていました。日が昇り始め、あたりはすっ かり明るくなってきました。とうとう、メヴラーナは、『小屋を見てきてくだされ』と言い見に行きました。がらんとした庵の中央には、まだ生暖かい肉体から 離れたばかりの活き活きとした孔雀の羽が残されていました。このことをメヴラーナに伝えると、彼はただ、『お墓を造りなされ』とおっしゃられました。

歴 史家達はこれに反論しています。タウスは、婦人ではなく、男性であったとか、メヴレヴィーではなく、ベクターシーであったとか論議しています。しかし、コ ンヤの人々は、誰もみなタウス・ハートゥン(孔雀婦人)であると認識しており、この詩入りの物語を人々に伝え続けています」

メ フメットが話してくれたこの美しい物語の後、ガイドとターハー(忠俊)をコンヤの有名な貴重品や価値ある名所へ案内した。このときガイドは見学する前に、 ターハーに幾つか質問し、試したかった。偉大な修行者の大家である学者ムフイッディーン・イブン・アラビーの息子シャイフ・サドレッディーン・コネヴィー の墓にやってくると、質問したそうにターハーを見た。ターハーは、授業を熱心に聴き学ぶ生徒のように、ガイドがツアーの時、観光バスの中で話してくれたこ とを繰り返した。ガイドはメフメットのほうへ振り向きながら、

「メヴラーナが、コンヤをどのように救ったか存知ですか」と尋ねた。メフメットの「いいえ」と言うこたえに、彼は話し始めた。

「バ ユジュの軍隊が、コンヤを包囲すると人々は、メヴラーナのところにやってきて救いを求めました。聖メヴラーナは、コンヤ広場の後方の丘の上に立ち、午前の 任意の礼拝をし始めました。その時まで、イスラームの光について知る機会がなかったモンゴル人の兵士たちは、目にしたイスラームのメドレセ(学舎)、モス ク、マスジド、ミナーレなどを破壊し、人々を殺し、略奪をし続けてきました。そして人々が、恐れおののき、困惑する姿を見慣れていたバユジュの将校たち は、この長い衣服を身にまとい煙色のターバンを被った者が丘のてっぺんに立ち、無我無心で、礼拝している姿を発見すると、彼に弓を放ち始めましたが、彼ら の手は目に見えぬ紐で縛られたようにがんじがらめになり、一本も弓を引くことはできませんでした。又、馬に乗り、馬に拍車をかけても、馬は一歩も前に足を 歩めることはできなかったと言うことです。バユジュにこの知らせを伝えた時、テントから飛び出し、メヴラーナがいるほうへ矢を放ったそうです。矢は3度放 たれましたが、3度とも戻ってきて彼の軍隊ちょうど真ん中へ落ちたそうです。敵意を募らせ、馬から下りてメヴラーナのほうに歩こうとしましたが、創造主の クン・ファヤクン(かれが「有れ」と御命じになれば、即ち有る)という御言葉によって、足が縛られて動けなくなりました。バユジュは、偉大な不思議な力を 目の当たりにすると、『今後、ここで戦いあうのは止めよう』と言ったそうです。モンゴルの兵隊たちは包囲を解きフルバト荒野に到着しました。『彼はなんと 偉大な方だろう。今いずこにおられるのか』と尋ね、彼にそのことを伝えました

  また、ある時は別の戦いが起こりました。メヴラーナの死後のことです。ケユガツハーンが大軍隊を率いてコンヤ付近に進撃してきました。(1291年9月1 日)真夜中に彼の見た夢の中で、メヴラーナが彼の首をきつく絞め、『コンヤは我らのもの、コンヤの民衆にそなたは何用じゃ』と言ったそうです。ケユガツ は、苦しみの余り目覚め、悔悟をしました。そして、この不思議なできごとの真相を知るため彼は使者を送りました。そしてハマムに行き、体を清め、その夢を 街の前線にいる者達に伝えようとしました。やがて拝謁の許可が下り、彼は王のお側に参りました。その時、アヒー・アフメット・シャーにもやってきて、王の 手に口付けをし、彼の隣に座りました。突然、ケユガツハーンは、またもや苦しみに襲われ、アヒー・アフメット・シャーに、『あなたの隣に座っている方はど なたですか』と尋ねたそうです。彼は、『私は一人で腰をかけていますよ、私には誰も見えませんが』と答えました。ケイガツ・ハーンは、『なんということ よ、私には中背の、頭に煙色のターバンを被り、インド風のおおいをはおる男の方が見えるのですが、あなたの隣に座って、ジロジロ私を見ています』と言う と、アヒーは彼が説明した方は聖メヴラーナであることを知り、そう彼に伝えた。ケイガツが、『そうです、昨日も夢で彼を見ました。私を絞め殺そうとし、こ の町は我々のものだと言ったのです。もう悪い企てをすることは諦めました。コンヤの人々には、一切手を出しません、苦しめるようなことはしません、私は悔 悟致します』と言ったそうです。

ス ルターン・ヴェレドは、彼の父聖メヴラーナがたえず語っていたことを伝えています。『さすれば、このように神によって守られているコンヤを、神の友達の街 と呼びなされ。ここで人生を始める子供は、みな神の友となるであろう。バハーエッディーン・ヴェレドの祈りに満ちた肉体、そして彼の子孫がこの街に存在す る限り、ここは敵の剣から守られるであろう。敵はその目的を果たすことはできないであろう。そして最後に消えて失せるであろう。審判の時の不幸な者達から 安全に守られるであろう。この街の一部が、戦争にまき込まれても、あるいは、滅ぼされ、忘れ去られ、重要性を失っても、それでも全てが破壊されることはな いであろう。もしすべて破壊されたとしても、我々の宝庫は、そこに埋蔵されたまま残るであろう』メフメットのすばらしい話は、まだまだ続いたが、また会う ことを約束して別れた。

  歴史の街コンヤでは、聖メヴラーナの息吹によって天高くまで広がり、一生涯、抱えきれないほどの愛情と寛容さが、贈り物として、ターハー(忠俊)に与えら れた。この贈り物が、誰の心に齎されるかは神のみがご存知である。メヴラーナの、「友よ、贈り物として私に何を下されるのか、あなたの心を持ってきなさ れ」と言う聖なる言葉の通り、彼もまた、彼の心を、贈り物として持参したのであった。残りの人生を、彼は東京とコンヤを往来しつづけるであろう。コンヤの 心臓部、霊廟の周りにて、彼は、愛という「はたおり機」で、その心を織り続けていくことであろう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

著参考文献

メスネヴィーの訳                 シェフィク・ジャン

メヴラーナの人生、人格、思想           シェフィク・ジャン

偉大なる詩作集           サーデッティーン・コジャトゥルク

昔のメラム                   ハサンオゾンデル博士

心の中のメヴラーナ                ジハン・オクユジュ

改定版アシェット、8巻                   百科事典

ラルース、2巻4巻11巻                  百科事典

講演(2002年12月15日)          イスケンデル・パラ

トルコ詩における霊感の源メヴラーナ           アリ・エロル

アナトリアのアウリヤー(神の友たち)         ズィヘ・アラズ

聖ムハンマド・ジェラーレッディーン・ルーミー

の人生と彼の人格について               ヒダヤェトオウル

メヴラーナ、彼の大海から          エスィン・チェレビ・バユル

コンヤ聖メヴラーナとセマー           エヴァ・デ・ヴィトレー

日本の芸術                   アンソニー・ニコルソン

 

 

 

最 後の預言者(s)とすべての預言者たちのルーフに、預言者のご家族とご子孫、教友たち、4大イマムのルーフに、アウリヤー、ムタサッウィフィーン、特に聖 メヴラーナと聖ユーヌス・エムレのルーフに、そして心の友たち、姉妹たち、父母、家族の者達のルーフにファーティハを贈ります。アッラーがお受け入れ下さ いますように、アーミン。

用語集(アイウエオ順)

アイラン:ヨーグルトから作られた飲み物

アウラングゼーブ:シャー・ジャハーン第3皇子、1658年帝位に付く

アウリヤー:神の友

アシュク:熱き愛、情熱溢れる愛、情熱、熱愛

アストロラーベ:天体観測をするときに使う道具

アリフ:アラビア語の始めの文字、形は縦の直線に似ている

イーサー:預言者イエス・キリスト

イラム:伝説の古代アラビアの伝説上の四種族の一つ、アードの最後の暴君

シャッダードによって築かれたと言われる伝説の都市。

『クルアーン』の89章にはハドラマウト(イエメン東部)の地に築かれた、

無数の円柱を持つ壮麗な宮殿イラムについて記されている。

イルファーン:霊知、イリム(分別知)とイルファーンとマーリフェトはみな

知識と訳されるが、違いがある。

エスラール:メヴレヴィーの詩人

エ(ア)ルハムドリッラー:アッラーに讃えあれアッラーに感謝いたします

エレストゥ・ベズィム、:主が魂たちを創り給い、「われはあなた方の主で

あるか」と尋ねたとき魂たちが「はいそうです」と答えた時をさす。カールーベラーも同じ時をさす。

カスィデ:15以上の対句(ベイト)により成る

キュラフ:とんがり帽子

クッベ:半球状に造られた天井

クドュム:一対の鍋型太鼓

クブラ:礼拝する方向

サーゼンたち:演奏者たち

サラワート:預言者の平安と御祝福をアッラーに祈願すること

シェイフ:長、長老

シュブィ・アルース:シェブは夜、婚礼の夜、メヴラーナのなくなられた夜

シャー・ジャハーン:ムガル帝国、第5代皇帝。1628年帝位に付く

シャリーア:クルアーンの諸節、聖ハディース、イジュマーゥ、キヤースに

基づいて成りたつ法

ジャン:愛称として、メヴレヴィーの方々の呼称

ジュッペ:長い服

シェルベト:甘美な飲み物

ズィクル:神を想い、念じること。

スーフィー:神秘主義者、修行者

スィペーフサラール:以前セルジューク朝の指揮官でもあり、長い間メヴラーナにつかえた方

スルタヌルウレマー:学者達の王

ズルナ:木管楽器、オーボエに似た笛

スンナ:聖預言者の言動、

セマー:旋踊

セマーゼン:より代

セラーム:サラーム、あいさつ、平安、平和という意味も含む

タウヒード:アッラーのほかに神はなし

タチュベイト:作品の中で、作者自身の名を記した文のある二行連句

チェレビー:メヴラーナの子孫の呼称

チレ:苦行、40日または1001日間、子房に籠もり水とパンだけで行う忍耐を必要とする行、アッラーに近づくための行

デデ:千一日の修行を終えた修行者の称号

デフ:楽器の一種

デルヴィシュ:修行者、

ヌスフィヤェ:短い葦笛

ネイ:葦笛

バユジュ:イランのモンゴル軍の長

パンテイズム:汎神論(はんしんろん)とは全ての物体や概念・法則が神の顕現であり 神性を持つ、あるいは 神 そのものであるという宗教観・哲学観

ビドア:逸脱、異端

ヒルカ:マントのようなおおい

ファトワー:イスラーム法解釈、適用に関し、資格を認められた法学者が文書で提出する意見

フズーリーやバーキー:フズーリー、バーキーは詩人、

フズーリーたちやバーキーたち:フズーリー、バーキーに続く者たち

ベイト:二行連句

ムーサー:預言者モーゼ

ムハンマド・ムスタファ:私達の長である最後の預言者、彼の名を聞いた

とき彼に祝福と平安あれと唱える。

ムレムマ:各行が異なった言葉(言語)で綴られた対句

メヴレヴィーハーネ:メヴレヴィーの館

メスネヴィー:メヴラーナの有名な作品

メラム:地名、

ユースフ:預言者、クルアーンユースフ章を参照

ルバイイ:2ベイトで構成された四行詩

ルーフ:魂、アッラーの息吹

レバプ:3弦の弦楽器、サズのような長い柄を持つ

 

ローマ字

(s):彼に祝福と平安あれ

 

日本語

神の友:ワリー(ヴェリー)複数形、アウリヤー(エウヴリヤー)、聖者

小房:千一日の修行をおえたデデとなった修行者に与えられる場所

修行者:スーフィー、デルヴィシュ

真の主:アッラーのこと

説教壇:ミンベル

陶酔:無我の境地、自我消滅の状態

洞窟の友たち:クルアーン洞窟章を参照

葡萄酒:一般に酒と呼ばれているものではなく、神への愛を意味する霊酒

 

 

表記上の留意点

固有名詞の記述は、基本的にはトルコ語の発音に即して記しました。(日本では、エ行がア行またはウ行、オ行がウ行に記される場合があります。)クルアーン訳、ハディース訳に記されている単語は、既存のカタカナ表記に従いました。

人名に関して、主に日本で使われているカタカナ表記を参考に記します。

ジェ ラーレッディーンはジャラールッディーン又はジェラールッディーン、シェムス・テブリーズィーはシャムス・タブリーズィー、スルターン・ワラドはスルター ン・ヴェレド、バハーエッディーンはバハーウッディーン、ブルハーネッディーンはブルハーヌッディーン、フサーメッディーンはフサームッディーン、サラー ハッディーン・ゼルクーブはサラーハッディーン・ザルクーブ、メリケはマリカ、ヴェイセルはウワイス、シェラフェッティーンはシャラーフッディーン、サド レッディーンはサドルッディーン、エミールはアミール、スィラージェッディーンはスィラージュディーンと記される場合もあります。
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