皇帝の母の出身の違いが、次期皇帝の皇子に何かしら影響を与えるの?前半 オスマン帝国外伝を語る会

ひとつきになることがあるんだけど?
なに?
よく母后が100年以上のあいだ、皇帝の結婚の慣例はなかったというよね
うん
彼女がそういってるのが1530ねんごろだとすると、100年前は1430年ごろだよね1453年にコンスタンチノープルが陥落したので、 メフメット2世かその父ムラト2世かがこの慣例をはじめたということになるよね

そういうことになりますね
オスマン帝国を作ったとされているオスマンベイはセルチュクの宰相の娘マルフン・ハートゥン(Malhun)と結婚しました。

  • 別名マル ハートゥン。マルフンハートゥンはアナトリアセルチュクの宰相 オメル アブドゥルアズィーズの娘
  • 時にエルトゥールルの友人で敬虔なスーフィーシェイフエデバリーの娘と混同される。シェイフ エデバリの娘の名はラービア バーラー ハートゥン )
オスマンベイは正式な結婚を敬虔なムスリムの娘としたのね。
へえ、じゃあオスマンベイの息子・オルハンベイは(母はトルコ系のマルフム・ハートゥン)どうだったの?
オルハンベイはニリュフェール・ハートゥンと結婚したようですね。彼はほかにもビザンツ帝国の娘を2人と伯父のギュンドゥズの娘とも結婚しています。

  • (ニリュフェールは本名はHolophiraホロフィラ。彼女は結婚前にビザンツ帝国のビレジクの統治者の一人と婚約中だったが、オスマン軍がビレジクを手に入れた時捕虜になったといわれている)
と言うことはオルハン・ベイの相手はトルコ系のムスリムではなかったんだ ね。
そうですね、
オルハンの息子はムラト1世は生粋のトルコ系のスルタンではなく、ビザンツ帝国のローマ人の血が入ってるのね。
1362年ごろだな、
さらにムラト1世はローマ系ギュルチチェキと結婚しています。
ローマ人の血がより濃くなったのがバヤズィット1世なんだな
ではそのバヤズィット1世はどうなの?
デヴレト・ハートゥンが妻になっているですが、この方はちょっと難しいのですよ。
なにが?
歴史家ネジデット・サカオウルによると当時の戸籍簿にDevlet bint-i Abdullahとなっていると言っています。アブドッラーは唯一の神のしもべで、ビントは娘ですので唯一の神のしもべの娘となりますね。
それがなんなのかしら?
アブドゥラーの娘と書かれている場合は後にムスリムになったことを意味しています。
へえ、
ですが一般には
デヴレトの母親は有名なメヴラーナの子孫のムタッハラ・ハートゥンで父はゲルミヤンオウル・スレイマン・シャーと言われています。
へえ、
おいおい、ハナーはへえばかりだな
だっておどろくことがおおいんだもん、デヴレト・ハートゥンのもしこの通説がほんとならすごいことだよ
そういえばハナーはメヴラーナにきょうみがあったんだよな
うん、
通説通りならばここでトルコ系ムスリムの血が入るのね 
ネジデット氏が正しいならまたここでより国際的なスルタンががうまれたことになるな、
ユルドルム地区の広報はユルドゥルム地区の知事の公式サイトなんですが、このサイトは通説を指示していますね。このサイトは実に面白いのですよ。あんまり知られていないけれど重要な方々のお墓の説明がしてあるのです。
へえ、
先を急ぎましょう。
先を急ぐって、今まで何いおうとしてるの?わからないわ、陽さん!
それはですね、オスマン帝国の皇帝がいかにいろんな血が入っているかをオスマン帝国の第1から10までの皇帝で検証しているわけです。
(注オスマンベイとオルハンベイはスルタンの称号を使っていないという説もあります。)
???
後半はこちら
関連記事
にほんブログ村 テレビブログ 海外ドラマへにほんブログ村 芸能ブログ 海外芸能人・タレントへ

このブログの人気の投稿

オスマン帝国外伝シーズン2最終話あらすじエピソード63 (77話、78話、79話) 

プロフィール

最新記事

もっと見る

プロフィール

プロフィール画像
それはオスマン帝国外伝から始まった
Twitter
YouTube
当ブログにお越し下さりありがとうございます。ドラマのあらすじや登場人物のお話のブログです。どうぞお楽しみくださいませ。 ご連絡はEmailでお願いいたします。 Email