オスマン帝国外伝からオスマン帝国外伝~影の女帝 キョセム~まで何が起こったの?

オスマン帝国外伝の続編「オスマン帝国外伝 キョセム」がトルコでは2015年から2017年にかけて放送されました。アフメド1世の妻 キョセムのお話です。
アフメド1世はスレイマンの玄孫(孫の孫)に当たります。
ところでスレイマン大帝の後オスマン帝国の皇帝はどうなっていったんでしょうか?
オスマン帝国外伝のエピソード139にあるようにセリムが皇位を継ぎました。1566年9月7日のことです。スレイマン大帝の後を継いだセリム2世彼の統治期間は短く8年間で幕を閉じます。あれだけ頑張って得た地位でしたのに・・。 セリム2世は遠征には一度も逝きませんでした。その代わり大宰相のソコルルが頑張ってました。そのソコルルはムラトの時代も大宰相として国を引っ張って行きましたが、暗殺されてしまいます。

その次に皇位を継いだのは、孫のムラト3世です。エピソード139にも出てきていましたよ。ミフリマーフが何とか取り込もうとしていたあのムラトです。 彼の妻はサーフィイェですが、その方も最後のところでちょっと出ていました。ヌールバーヌの同郷で彼女と対等にやりあっていました。 ドラマではミフリマーフが彼女をムラトに送ったということですが、その経緯は実際に定かではありません。ヌールバーヌーは母后として権力を握ります。

サフィイェには強敵ハンダンがいました。
ムラト3世はドラマでは聡明で弓矢のうまい勇敢な人物に描かれていましたが、21年間の在位の間、政治はソコルル大宰相1579年死亡)やヌールバーヌ母后(1583年死亡)やサーフィイェ皇帝妃(1619年死亡)に任せて、自分は積極的に政治には参加せず、浪費ばかりしていましたので、国庫が傾き始めたともいわれています。

そのムラト3世が1595年に亡くなります。 この死は悲劇を伴いました。 なぜなら彼の跡を継いだのはオスマン帝国外伝最終話でサーフィイエが身ごもっていた男の子メフメドでしした。 サフィーイェも母后になったんですね。
でもここでんちょこっと変なことがあります。
メフメドは1566年5月に生まれているんです。スレイマン大帝が亡くなったのは1566年の9月ですから、スレイマンが生存中にこの子は産まれていたはずなんですがドラマではまだおなかの中でした。
ともかくこのスレイマン大帝が亡くなった年に生まれたメフメド3世が即位し1週間以内に異母弟たちがみな絞殺されてしまいます。21人もいました。(これってもしかしたサーフィイェの考えが強く影響したのでしょうか)
サーフィイェは母后として活躍しますメフメド3世は長生きしませんでした。統治期間は8年ぐらいです。
1603年12月メフメド3世が逝去します。
メフメド3世の息子は年上順に
セリム、スレイマン、マフムド、アフメド、ムスタファ、不明の名、ジハンギル、オスマンがいました。
こう見るとアフメドが皇位につくことはかなり難しく見えますが、実は3人の兄は父親よりも先に亡くなっていました。
特にアフメドすぐ上の兄で仲良しだったマフムド兄は父の怒りを買い1603年6月に殺されてしまいます。ここのところは続編『新オスマン帝国外伝 キョセム』のエピソード1にもちょこっと出てきます。
ということでよいやっとキョセムの時代に入ってきました。
キョセムの時代の舞台はアフメド1世の即位からキョセムの死オスマン帝国外伝の続編「オスマン帝国外伝 キョセム」がトルコでは2015年から2017年にかけて放送されました。アフメド1世の妻 キョセムのお話です。
¥ アフメド1世はスレイマンの玄孫(孫の孫)に当たります。
ところでスレイマン大帝の後オスマン帝国の皇帝はどうなっていったんでしょうか?
オスマン帝国外伝のエピソード139にあるようにセリムが皇位を継ぎました。1566年9月7日のことです。スレイマン大帝の後を継いだセリム2世彼の統治期間は短く8年間で幕を閉じます。あれだけ頑張って得た地位でしたのに・・・。セリム2世は遠征には一度も逝きませんでした。その代わり大宰相のソコルルが頑張ってました。そのソコルルはムラトの時代も大宰相として国を引っ張って行きましたが、暗殺されてしまいます。

その次に皇位を継いだのは、孫のムラト3世です。エピソード139にも出てきていましたよ。ミフリマーフが何とか取り込もうとしていたあのムラトです。彼の妻はサーフィイェですが、その方も最後のところでちょっと出ていました。ヌールバーヌの同郷で彼女と対等にやりあっていました。ドラマではミフリマーフが彼女をムラトに送ったということですが、その経緯は実際に定かではありません。ヌールバーヌは母后として権力を握ります。

サフィイェには強敵ハンダンがいました。
ムラト3世はドラマでは聡明で弓矢のうまい勇敢な人物に描かれていましたが、21年間の在位の間、政治はソコルル大宰相1579年死亡)やヌールバーヌ母后(1583年死亡)やサーフィイェ皇帝妃(1619年死亡)に任せて、自分は積極的に政治には参加せず、浪費ばかりしていましたので、国庫が傾き始めたともいわれています。

そのムラト3世が1595年に亡くなります。この死は悲劇を伴いました。なぜなら彼の跡を継いだのはオスマン帝国外伝最終話でサーフィイエが身ごもっていた男の子メフメドでしした。サフィーイェも母后になったんですね。
でもここでんちょこっと変なことがあります。
メフメドは1566年5月に生まれているんです。スレイマン大帝が亡くなったのは1566年の9月ですから、スレイマンが生存中にこの子は産まれていたはずなんですがドラマではまだおなかの中でした。
ともかくこのスレイマン大帝が亡くなった年に生まれたメフメド3世が即位し1週間以内に異母弟たちがみな絞殺されてしまいます。21人もいました。(これってもしかしたサーフィイェの考えが強く影響したのでしょうか)
サーフィイェは母后として活躍しますメフメド3世は長生きしませんでした。統治期間は8年ぐらいです。
1603年12月メフメド3世が逝去します。
メフメド3世の息子は年上順に
セリム、スレイマン、マフムド、アフメド、ムスタファ、不明の名、ジハンギル、オスマンがいました。
こう見るとアフメドが皇位につくことはかなり難しく見えますが、実は3人の兄は父親よりも先に亡くなっていました。
特にアフメドすぐ上の兄で仲良しだったマフムド兄は父の怒りを買い1603年6月に殺されてしまいます。ここのところは『新オスマン帝国外伝 キョセム』のエピソード1にもちょこっと出てきます。
ということでようやく 本題のキョセムの時代に入ってきましたよ。

キョセムの時代の舞台はアフメド1世の即位(1603年12月22日)からキョセムの死(1651年9月2日)までです。 ヒュッレムが亡くなって100年後に彼女もなくなったのですね。 彼女が ハセキスルタンとして母后としてなんと6人もの皇帝たちと共に生きたのです。(キョセムの時代の皇帝はアフメド1世からメフメと4世まで)そのため壮麗なる母と呼ばれることもあります。

女性の活躍
ヒュッレムから始まったハセキスルタン(1534年作られる)の猛威はこのように100年以上も続きました。
女性の君臨がヒュッレム、ヌールバーヌ、サーフィイェ、 ハンダン、ハリメ そしてキョセムと続きます。

皇帝たち 
スレイマン1世、セリム2世、ムラト3世、メフメト3世、アフメド1世という順です。そしてそのあとはムスタファ1世、オスマン2世、ムスタファ1世(復位) ムラト4世 イブラヒム メフメト4世です。
一気にオスマン帝国外伝と続編「オスマン帝国外伝 キョセム」の間の流れをたどってみました。
明日からは 新「オスマン帝国外伝 キョセム」のあらすじをお送りいたします。おたのしみに!

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