史実の【バヤズィト皇子】

史実 バヤズィット(バヤズィト)皇子

1525年または1526年にイスタンブルで生まれる。
1561年9月25日カズヴィーンで死亡。
スレイマン1世とヒュッレムの3番目の子

1539年にジハンギルと共に割礼を行った。

1543年ハンガリーの遠征に参加した。

1546年カラマンのサンジャクに赴任する。

1538年第2回イラン遠征に出かけた父をアクシェヒルで兄ムスタファと出迎えた。

1553年ナフジヴァンの遠征(第3回Iran遠征)に出発するときバヤズィットをイスタンブル留守居役にするためにエディルネに派遣された。

その遠征にの途中コンヤでムスタファ皇太子が絞殺されアレッポでジハンギルがなくなるとバヤズィットは皇位継承者第2位に浮上した。

もう一人はセリム皇太子だった。
クタフヤ、コンヤそしてカラマンのサンジャクに赴任した。
ヒュッレムの保護の元自分自身を皇位継承者にふさわしいと思うが、
母親の死後力不足になる。その時姉のミフリマーフがバヤズィットを保護した。

1558年セリムとバヤズィットが争ったため、どちらの息子からもスレイマンは距離を置いた。その罰としてスレイマンはセリムをコンヤヘバヤズィットをアマスィヤに移動させた。
不服に思いながらも彼は1558年12月21日アマスィヤへ到着した。
しかし翌年 アマスィヤからアンカラへやってきたバヤズィットは、1559年5月29日コンヤでセリム軍とたたかう。
2日間続いた戦いに敗れアマスィヤに戻った。
スレイマンはバヤズィットの許しを求める声を拒否し、彼を逮捕するよう命じた。
7月7日に彼は息子を連れてアマスィヤを去った。
彼は8月中旬にイランに避難しなければならなくなった。
イランの宮殿で父親の使者によって絞殺された。バヤズィットと彼の息子たちはシバスのメリクアジェム トゥルベスィに埋葬された。この墓はアボドゥルヴェハッブモスクの中にある。

バヤズィットの死後ブルサに送られた彼の妻は城に収容され、3歳の息子は殺された。


 バヤズィットの作品 
「シャーヒー」という詩はバヤズィットによってトルコ語とペルシア語で書かれた。
詩には皇位への望み、愛、許しを請うことについて書かれている。
父親に赦しを求めた詩、それに応対するスレイマンの詩は有名である。
国立図書館アリ エミーリーコレクションにそのコピーが保管されている。

子供( 9人)
全員クタフヤで生まれるが女児2人 ハティジェとハンザーデは小さいときにクタフヤで亡くなっている。
オスハン オスマン アブドッラー マフムードは父バヤズィットと共に死亡している。
5男メフメドはブルサで殺害される。
ミフリマーフという娘は結婚し ムラト3世の時代まで生きた。
アイシェは結婚し子供を産むが、その直後死亡する。

  • オルハン 1543年 クタフヤ生、 カズヴィーン1561年9月25日死亡
  • オスマン 1545年 クタフヤ生、 カズヴィーン1561年9月25日死亡
  • ミフリマーフ1547年クタフヤ生まれ 1593年イスタンブル死亡 1562年ダーマード ムザッフェルパシャと結婚
  • アブドッラー 1548年 クタフヤ生、 カズヴィーン1561年9月25日死亡 
  • ハティジェ クタフヤ生まれ 1550年クタフヤ死亡
  • マフムード 1552年 クタフヤ生、 カズヴィーン1561年9月25日死亡
  • メフメト
  • アイシェ 1553年クタフヤ生 1572年トカト死亡 1568年ダーマドホジャアリ パシャと結婚。出産時に死亡。男子生まれる。
  • ハンザーデ クタフヤ生まれ 1556年クタフヤ死亡

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