史実 【ミフリマーフ スルタン】 オスマン帝国外伝登場人物
父はスレイマン1世。母はヒュッレム妃。
ミフリマーフは文献ではMihrimahとよく使われるがオスマン帝国の資料には “Mihr ü Mah”と書かれる。
スレイマン1世には娘が1人しかいなかったためとくに父親にかわいがられ、母親と共にに育った。
ディヤルバクルの長リュステムパシャと結婚することになったが、彼にハンセン病と言う噂がでまわりスレイマン大帝が調べさせるためにディヤルバクルに医者を送ったといわれている。しかしこの伝承は正しくなく、後に政治的な争いの結果書かれた可能性があるともいわれている。
1539年11月ミフリマーフとリュステムの結婚と同時にバヤズィトとジハンギルの割礼式も行われた。
結婚後夫の昇進に尽力し、母ヒュッレムと共に権力を握った。夫リュステムが 大宰相に就任するとますます権力は増大した。
ムスタファの代わりにバヤズィトを支持し、彼を皇位につけようとした。
1553年ムスタファが処刑と同時に、夫リュステムは大宰相の任を解かれた。この時夫が死刑にならないようにヒュッレム母に強くお願いした。ヒュッレムも手紙をスレイマン大帝にかけ婿の許しをこうた。
その後ミフリマーフは母と共に尽力し、カラアフメトパシャの処刑後、再びリュステムを大宰相の座につかせることに成功した。
ヒュッレム妃がなくなるまでバヤズィトを次期皇帝にと懸命に働いた。
ヒュッレム妃の死後彼女のサライでの影響はますます増大した。スレイマン大帝は何でも彼女に相談するようになっていった。
その後もバヤズィトのために働いたが、 バヤズィトが無関心だったためセリム側についた。リュステムパシャが1561年亡くなったがその後結婚はしていない。
子供はアイシェ ヒューマシャーとオスマンの二人いた。
スレイマン大帝がなくなった後のセリム2世の時代に、ミフリマーフは宮廷でもハレムでも最も影響力のある女性の一人として活躍した。
エスキサライで生活していたが、高い給付を獲得していた。
その当時イスタンブルに滞在していたドイツ人旅行家ステファンガーラックStephan Gerlachによると1578年1月25日に亡くなった。お墓はミーマルシナンが造ったスレイマニイェジャーミの父の墓の隣にある。
文献によるとミフリマーフは良い教育を受け上手に話し上手に描くこともできたとある。記した手紙には政治関係の描写が多い。ヒュッレムと同じように ポーランド王への手紙も書いた。
非常に信心深く慈善を好んだ。大金持ちでもあった。セリム2世が皇位につくための資金としてセリムに50000金貨をあたえたそうだ。
1547年にウスキュダルに2本のミナーレのあるジャーミと水道 メドレセ 中学校隊商宿のある複合施設を造らせた。
1566年エディルネカプに連鎖の水といわれるミフリマーフ水場施設と病院を造らせた
さらに500000金貨を使ってメッカのアインズバイダの泉を修復させた。この泉は当時メッカで重要な水源であった。