【トルコ小説】「メヴラーナ」その8  セマー(旋舞) の説明です

セマー(旋舞)

空は暗くなり始めた。メヴラーナを記念し、セマーを見せるサロンに向かってみんなは出かけた。忠俊はこよなく幸せであった。だが、同時に自分は沈んだ状態で あることも感じていた。何も語らなかった。今でも尚、絶え間なく指導者の御前で感じた相互作用的な感動に浸っていた。まるでプログラムされたロボットのよ うに、グループみんなに従ってはいたが、彼の内的世界では光が満ち溢れていた。一行は友人達とサロンに入り、示された各々の観客席を見つけて席に着いた。 忠俊の人並みならない関心を見極めたガイドは、彼を特に隣に座らせようとした。

「忠俊さん、少し後で観ることになるセマーは、万有の動きを示しています。メヴラーナによると、セマーとは、アッラーが、『われは、汝らの主である。さよう か』と仰せられたのに対し、『はい、さようです。あなた様はわれらの主であらせらます』と返答したその声を聴きながら自我を消滅させ、主に合間見えること です。諸原子は修道者たちのように、太陽の光の中でセマーをし、回転していますが、どのような旋律で、どのような拍子で、どのようなサズ(弦楽器の一種) によってセマーをするのかは、私達は知る由もありません。セマーとは、心の中の神秘に到達した者達が、人の心を和らげる恋人に会うためにする動きです。セ マーに入ると、2つの世界からもっと外の世界へ出ます。セマーの世界は、その2つの世界よりもより外側に存在します。7番目の天は一番高い天ですが、セ マーの位階はこの天よりもより高いのです。顔をクブラ(礼拝する方向)に向けた者達は、この地上においてもセマーの位階の高さに到達します。もちろん、あの世でもですが・・・『たとえ輪となって、セマーをし、回転し、留まる者達の間にカーバが存在したとして も・・・』と語られるようにです。セマーは、聖メヴラーナが霊感によって到達し、発展させたものです。完璧に向かって歩む精神の旅(ミィーラージュ)は、 その行き来の代表的なものです」

「ミィーラージュとはなんですか?」

「忠俊さん、このことについてあなたに本を一冊あげましょう。それから学ぶことができますよ。もしよろしかったら、儀式が始まる前に、セマーについてあなたに少し情報をお伝えしましょう」

「喜んで、どうかお続けください」

「セマーは、7つの部門と4つのセラームから成り立ちます。知識的に綿密に調べるならば、存在することの基本条件は、回転することです。存在するものに共通す る類似点は回転です。その類似は、もっとも小さな原子からもっとも遠い諸星に至るまでみられます。それぞれのあり方は、原子の中の電子と陽子の回転に基づ きます。すべてのものが回転するように、人間という種族も、構造的には原子の中での回転、身体中の血液循環、土から造られ土に戻る事による自然循環など、 無意識的に回転するという作業が見られます。ただ、人間が他の存在よりも優れている点は、知性にあります。そうです、少し後でごらんになるセマーゼンたち は、被造物に共通する行動をセマーによって顕します。知性も共にその動きに加わる形をとります。セマーとは、しもべたちが、真理に方向付けられ、知性と共 に情熱溢れる愛と共に高められ、自我を滅却し、真理なるお方(神)の中で消滅し、完成し、成熟した人間となった後、再びしもべに戻ることです。すべての存 在のため、そしてすべての被造物のため、新生した魂と共に、愛と奉仕のために戻ることです」

「女性たちもセマーをしますか」

「こ の問いは近年何年もの間、討論の的となっているテーマのひとつです。聖メヴラーナの時代、栄誉ある広間(メイダン・シェリフ)という場所では、一度も女性 と男性は一緒にセマーすることはありませんでした。セマーはスルターン・ヴェレドから後、形式化され現在に至ります。女性達は女性達の間だけでセマーをし ていたそうです。今日ではセマーをショーに変えてしまった者達の間では行われていますが、これは大変忌々しきことです。さあ忠俊さん、儀式が始まります よ。また後ほどお話を続けましょう」と言って、ガイドは説明を止めた。

 はじめに、講師が出て、聖メヴラーナについて短い説明をした。ガイドは話を短く切って、翻訳した。彼自身の知っていることも付け加えながら、忠俊の耳元でささやいていた。 

聖 メヴラーナは開花を渇望しており、ちょうどそのころ、その彼の心を満たすためにシェムス・テブリーズィー(シャムス・タブリーズィー)がコンヤの通りに現 れたことや、メヴラーナという芽をだそうと強く望む小さな種子が、シェムスの聖なる息吹によって、殻をばりばりと破り、芽生え、開花したことを話した。そ このくだりに入ると、忠俊は弁慶の泣き所をけられたように、完全に魂を奪われてしまった。

世界でも数少ない優れた文学作品の一つである聖メヴラーナの2万5千ベイト(二行連句)の『メスネヴィー』と蜃気楼の炎にたとえられる5千の詩作集、そのす ばらしさから『偉大な詩作集』と呼ばれているが、これらの作品を読まないわけにはいかないと、彼は考えた。しかし、どのように?ガイドにこの作品の英語版 があるかどうかを尋ねた。彼の返答は満足のいくものであった。

講師は最後を、「メヴラーナよ、おお、預言者の道しるべとなる光よ、あらゆる井戸にも流れ込む大洋よ、あらゆる国を滔々と流れ行く川よ、あふれつづけよ、流れつづけよ、あなた様は、私達にはなくてはならないお方ゆえ・・・」と言いながら話を結んだ。

 話の後、大きなヒルカ(マント、おおい)を身に付け、頭には「自らの墓石、スッケ」と呼ばれる円筒型の形をした墓石を象徴しているフェルト帽をかぶったセ マーゼンたちが靴をはかずに、一人一人やってきて敬意を表した。サーゼン(演奏者)たちもひと角に集まった。その少し後で、背にはヒルカ、頭には緑色の ターバンを巻かれたスッケといういでたちのメヴレヴィーのシェイフ(長老)が近づき、『メスネヴィー』の一節を読み上げた後、毛皮の敷物の上に座った。

また修道者たちの一人が『偉大な詩作集』(ディヴァーン・ケビール)の中から讃歌を朗読した。この詩の朗読は非常に感動的であった。修道者の声は、高い音色 から小さな低い音色へとかわり、さらに低い音から高い音へと下がったりあがったりし、その抑揚が見事であったので、聴衆たちは我を忘れてしまうほどであっ た。

 葦笛奏者は葦笛を即席演奏した。この即興は神の美しい香りを象徴していた。デヴリ・ケビール(トルコ音楽で見られる拍子、28分の12拍子)の拍子で、序 曲を奏で始めた。クドゥムの奏者が始めの一打ちを鳴らし、4つのセラームからなるセマー(旋舞)を始めた。シェイフとセマーに加わる修道者たちは、床を手 のひらでたたいてから、立ち上がった。斜めに腕を交差して組むことによって、その外観は『1』の数字を象徴し、アッラーの唯一性を顕していた。セマーゼン たちは、次に腕を広げた。サラワート(預言者の平安と御祝福をアッラーに祈願すること)を唱えながら、セマーの場所に重々しく、しかしリズミカルな足取り で3度セラームをして、動き始めた。これはスルターン・ヴェレドのデヴリ(拍子の一種)といわれ、神秘的な魂から魂への挨拶である。序曲の後、『偉大な詩 作集』から抜粋され作曲された「アイン・シェリフ」が演奏家達によって演奏された。この間にセマーゼンたちは背中のヒルカを同時に地の上においた。この黒 いヒルカ(おおい)は神のほかのすべての存在を意味する。それを脱ぎ捨て、一心に真理(神)へ突き進むこと、つまり墓にむかうことを意味している。黒いヒ ルカ(おおい)を、下においたセマーゼンたちは、一人一人シェイフの前で乞い願い、その後、腕を組んだ状態となった。その状態は、単一性と唯一性を強調し ている。それから旋回しながら、ゆっくりゆっくりセマーする中へひろがっていった。右手は、祈りを捧げるかのように、天に向かって、左手は、地を指すよう に下へ向いていた。この形は、スーフィー(修道者)が主から得た精神的恩恵を人々へと伝えている。右から左へ心を軸として回ることで、72の国々に住む人 々を抱擁すると言う意味を持っていた。セマーゼンたちは、長いすその広がったスカート状の衣装を舞い上げながら、飛んでいるかのようであった。お互いが触 れあわずに旋回する様子は、奇跡的で見事な光景であった。乞い願う状態を表す斜めに傾いた頭、閉じられた目は、絶え間なく回転し、まるで地から浮いた足は 宙を舞っているかのようにみえた。
旋回という動きによって、真っ白な長いすその広いスカート状の衣が扇のように開かれ、円を描き、さらに描き、描き続けた。

初めて出会ったこの不思議な独特の雰囲気の漂う光景と、昼間指導者の墓石の前で感じたさまざまな感覚とが、忠俊の中で重なり合い、混ざりあった。まったく奇 妙な感じで、それこそ今までと違う水平線へ向かって翼を広げ、羽ばたいていくような感覚がした。セマーゼンたちはよろめくことなく、お互いに触れ合うこと も、ぶつかり合うこともなく整然と旋回しているが、それは彼にとって不可能だと思われる想定範囲外の出来事であった。ガイドの耳元に屈みながら、

「めまいはしないのでしょうか?」と訊ねた。

ガイドは、

「セマーゼンになるまで、釘を打ち付けた板をつくり、釘と釘の間に足の親指を突っ込みながら、同じ一点を中心点として回転することができるよう練習してきまし た。めまいがしないかということに関しては、ただアッラーヘ対する情熱溢れる愛によってしないとしか説明できません。しかし耳鼻科の医師が、『セマーゼン たちは回転するとき、頭を三十度傾けるため、耳の内耳に影響する圧力の影響を変化させ、めまいを起こさない』と述べています。それだけではなく、めまいに よる不快感にも適用でき、彼らの動きは不快を感じさせないことが、広大な知識によって説明されました。お望みなら、その本をお求めになれますよ。セマーゼ ンたちの回転の仕方、腕の広げ方、直立の仕方、回転しながら歩く様子、しるしのない軌道の上を、左右によろめかず前進する形などさまざまな動きが、今日使 用されている医学的手段と、驚くほど近似していることがわかりますよ。セマーは単一な動きとなり、重力の中心は、セマーゼンの身体を通ります。セマーゼン の回転軸は、傾いた頭、心臓、左足を貫きます。

セマーの間、頭はさまざまな行動から守られ、うなじと首の筋肉により頭を支えています。セマーゼンは半目を開けて、その視線から見える左手の親指を見つめて います。セマーをする前には、食べ過ぎに注意し、それだけではなく、消化しにくいものも避けます。セマーの間、ズィクル(神を想い念ずること)をしなが ら、知性を昇華させ、脳が麻痺状態になるのを防ぎます。近代医学が、めまいをしないため推奨する方法とセマーゼンの動きは驚くほど似ていることに気がつか れるでしょう。さらに、近代医学が最近になって推奨したことを、セマーゼンたちは7百年ものあいだ、適用し続けてきたことは、大変重要な点です。近代医学 と7世紀前の知識とが一致し、完璧に類似しているわけです。セマーは7世紀間、もっとも古いよく知られた演習場での訓練プログラムです」と、語った。

 この返事は、忠俊を深く考えさせた。「何世紀も前に生まれ、無意識的に医学的知識を前提としたこれらの行動が、近代医学と重なることを、理解するのは非常 に難しいことだ」と。神秘的な考えが頭の中でぐるぐると回りっていたが、同時に修道者を観つづけていた。その日、喜びに満ちた一日を過ごし、一方では、集 団の一人としてまた個人として、人生を清算しようと努めていた。

「この世に生きている人々、スクリーンに満ち溢れる人々、私たちの目に映る人々は、なぜ美しくないのであろうか、なぜわずかな美しさしか感じられないのだろ う。もしかしたら私たちは美しさというものを逆に捉えているのであろうか。ゆがんで眺めているのだろうか。なぜ人としての美しさを熱望せず、遠ざかるのだ ろう。なぜ精神的美しさをすり減らしてしまうのだろうか。メヴラーナの思想はこれらすべてに答えてくれる広大で明白なひとつの真実だ。理性を失った命が引 き込まれるように連れてこられ、私たちが到達した地点から飛び立つ時はまぢかに迫っている。人間の精神をすり減らすのを止めよ、というべきだ。みんな、こ こへ来て、優れた熱い望みに抱かれるべきだ。そして、この熱望は、世界へ広げ反映させなければならない。すばらしい苗木をうえるべきだ。再生する春と魂の 美しさを感じながら、生きるべきだ。人間性の醜い部分を取り去り、余計なものから離れなければならない」と考えていた。

「忠俊さん、今ごらんになった第三のセラームは、人間の感嘆する気持ちと恩恵を感じる気持ちを情熱溢れる愛に変えることによって、知性が情熱溢れる愛にその身を捧げたことを意味します。これが完全な従順さで、アッラーにあいま見えることであり、愛するもの(神)の中で消滅することです。妨げるものは一切ありません。仏教で最も高い位階「涅槃」の境地です。イスラームでは、「アッラーの中での消滅」です。イスラームでは最も高い位階は「しもべであること」です。

「仏教についても、知識をもっていらっしゃるのには驚きました。大変、感心いたしました」。

「アスタグフィルッラー(アッラーに私は赦しを請います)、いえそんなことはありません。私はただ務めを果たそうとしているだけです」

セマーゼンたちは、メヴラーナの位階を継承するシェイフの前で一休みしていた。その後再び懇願した。

4番目のセラームの後、クドゥム(楽器の一種)が後わりをしらせる一打を打った。葦笛が最終ベイト(二行連句)を奏でた。扇のように広げ舞い上がったスカート上の衣は、突然動きが止まったために、小さく萎んでいった。精神的旅路から本来の姿、しもべへと戻っていった。

セマーが終わると、セマーゼンたちは皆座った。ヒルカ(おおい)を後ろに羽織った。クルアーンから10節が朗読された。すぐその後、ドゥアージュ・デデ (祈りをささげる役目のデデ)が祈りを捧げ、立ち上がったシェイフによってギュルバンク(神に捧げる祈りや賛歌)がなされ、修道者たちによってアスマー・ ウル・フスナー(美しい神の御名)が唱えられた。さらに、「フー」(彼、すなわちアッラー)が、コーラス形式で唱えられた。その後、シェイフが座っている 敷物の上から、待ち構えている人々に挨拶をした。このセラームは、アシュチュ・デデ(台所を取締る役目のデデ)によって、声を出す形で受け応えられた。

シェイフは背後を扉に向け返礼するとき、座っていた敷物(その地位を意味する)のために祈った。この祈りに修道者たちも加わった。シェイフはセマーをする場所、セマーハーネから立ち去った。修道者たちも続いてその後から去っていった。

セマーの上演の後、神秘主義的音楽の大家であるアフメット・オズハーンの心魅せられる声と歌われた作品の旋律がセマー中に響き渡り、人々に我を忘れさせた。 すばらしい儀式は深い感銘を残す形で終わりを告げた。しかし、忠俊の心の中では、再びセマーが始まっていたのであった。個々人が自らを解き放ち、セマーに 立ち上がる修道者がヒルカを脱ぎすてた時のように、そしてまた、回転する宇宙の中で、さらに回転する太陽の周りを回転する私たちの惑星地球のように、熱く 燃え上がる愛によって、彼の魂と心は回り始め、さらに絶え間なく回り続けていた。
トルコの旋舞教団
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