トルコドラマ・オスマン帝国外伝の登場人物バヤジト皇子は なぜ亡くなったの? 前半

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バヤジト皇子は悲惨な最期を遂げましたが、まずは彼の生い立ちから観てみましょう。

スレイマン大帝の息子バヤジトは1526年イスタンブールで生まれました。

1539年11月11日に弟ジハンギルと一緒に13歳ごろ割礼をしました。ドラマでは兄のセリム皇子は彼をからかいました。その時バヤジト皇子はとてもおこりましたが、ジハンギル皇子や兄のムスタファ皇子とは仲のよかったバヤジトは、セリム皇子とは小さいうちからよくケンカをしていました。

1541年ハンガリーの遠征に参加しました。初陣ですね。

そして1548年コンヤへ派遣されました。

1548年にイラン遠征へ向かった父スレイマン大帝とアナトリア中央部のアクシェヒルによばれました。アクシェヒルはトルコの一休さんといわれるナスレッティンホジャの故郷として有名です。

1553年ナヒチェヴァン遠征の時には、帝都を守る役目であるtaht muhafazasıに任命され、エディルネヘと向かいました。東のアゼルバイジャンのナヒチェヴァンと反対方向の西へむかったんですね。

ところがこの遠征でムスタファ皇子が絞殺されてしまい、ジハンギル皇子も病気で亡くなります。二人兄弟をいっぺんに失ったバヤジト皇子は大変悲しみました。

その後エディルネでは偽ムスタファ事件が勃発しました。ムスタファ皇子が生きているというのです。スレイマン大帝の命を受けたバヤジト皇子はその征伐に向かいました。でもムスタファ兄を大好きだったバヤジト皇子は偽ムスタファの周りに集まったムスタファ兄を慕う者たちをどうにかして助けようと思いました。そのため征伐が遅れてしまったのです。ドラマではセリム皇子の策略でバヤジト皇子が 偽ムスタファと手を組んでいるという噂が立つようになり、それはスレイマン大帝の耳にまで届きました。が、実際にはセリム皇子が噂を流したかどうかは定かではありません。スレイマン大帝は息子バヤジトをこの時は信じ、彼をキュタフヤへいかせたのです。このころにはバヤジト皇子は自分を皇位継承者と思うようになり、以後兄セリム皇子との戦いが激化しました。

これはバヤジト対セリムと言う個人的な争いではなく国の行政、社会、経済状況が生み出した争いでもあったのです。

ムスタファ皇子殺害後にスレイマン大帝への統治に反感を抱く者たちの不満がたかりました。素朴で平和を愛するバヤジト皇子は、酒を飲み楽しみにふけるセリム皇子よりも自分の方が皇位にふさわしいと感じたのです。

さらにメフメト2世の定めた兄弟殺し是とする法があります。オスマン帝国存続のためには兄弟殺しも矢も負えないという法なのですが、バヤジト皇子が皇位継承を望む理由の一つになっていました。もしセリム皇子が皇位についたら自分は命を奪われるかもしれないという危機感です。

1558年3月16日、彼を支えてくれた母のヒュッレム妃を失い、仲間固めに必死になり始めました。

セリム皇子とバヤジト皇子の争いが激化するのを懸念したスレイマン大帝は、セリムをマニサからコンヤヘ、そしてバヤジトをキュタフヤからアマスヤへ赴任先を変え、二人を引き離そうとしました。1558年9月6日のことでした。まだヒュッレム妃が亡くなって半年もたっていない頃のことです。

ドラマでキュタフヤにいるバヤジトがセリムのいるマニサまで軍を率いて押しかけたシーンが上映されていました。キュタフヤとマニサの間の距離は約310KM、そして黒海沿岸のアマスヤとアナトリア中央のコンヤは約540KMほどです。

ところがバヤジトはこの命令には不服でした。何とか理由をつけてキュタフヤに留まろうとしましたが、父スレイマン大帝がさらに強く命じたので、10月28日にはキュタフヤを去ったのでした。バヤジトは「天国から地獄へ」向かっていると感じながら、ゆっくりとアマスヤへ向かいました。55日もかかってしまい、アマスヤに到着したのは12月の21日だったのです。ところでなぜ天国から地獄へとバヤジト皇子は感じてしまったでしょうか?

実はアマスヤは兄ムスタファ皇子が赴任していた場所だったのです。ムスタファ皇子もマニサからアマスヤそして死へ行きついたのでした。

バヤジトはその兄と自分の身の上を重ねてしまったのでしょう。

後半へ続く

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