スレイマン大帝 誕生から帝冠式後まで


1494年11月6日トラブゾンで生まれる

父セリムは当時トラブゾンの州知事(総督)だった。母はハフサスルタン。

母がクリミアの王女だったまたはドゥルカデイルオウルラル家出身の者というのは信憑性が薄い。
スレイマンと言う名は、クルアーンをランダムに開いて、その開いたページからところ選んだと言われている。
現在よく彼に使われる「立法者」(カーヌーニー)と言う称号は18世紀ごろからのことである。西洋では「壮麗なるもの」(ムフテシェン)と言う称号も付けられた。

法官オメルエフェンディの息子で、乳飲兄弟のヤフヤー・エフェンディと小さいとき一緒にトラブゾンで過ごした。エブリヤー・チェレヴィによるとヤフヤー・エフェンディと一緒にあるローマ人から装飾品のデザイン技術を学んだという。(そういえばドラマでもよくブローチや首飾りや指輪を作ってみんなにあげていたなあ)

最初の教育はトラブゾンの先生から受ける。

サンジャクに行く時期が遅れた。理由はバヤズィット2世の子供たちの妨害したためだった。セリムはスレイマンのためにバヤズィット2世に手紙を送り、スレイマンがサンジャクに行けるようにとお願いしていた。
ようやく1509年カフェ・サンジャクに行くことになった。
母親ハフサも船でカフェへ行った。
父親が皇位につくために助けようとスレイマン大帝は準備を怠らなかった。
1512年、父が皇位についた少し後でイスタンブル行った。
しばらくそこに滞在した後、1513年マニサへサンジャク・ベイとして赴任した。
マニサへ同行したのは母親、姉妹、ハイレッディン師、ララ・カスムと458人の従者たちだった。この従者の中にはマヒデブラン、イブラヒムの名もあった。
相談役ララカスムの次の相談役はスィナン・パシャだった。
1520年、皇位につくまでの7年間マニサで過ごした。 時には父セリムが遠征に出かけるときはエディルネで留守居役を務めた。
狩りが好きだった。ヒュッレム・スルタンともマニサ時代の後期に知り合ったと推定される。
1520年9月21日か22日、ピーリーメフメトパシャからセリム1世が亡くなったという手紙が届く。
彼は近習の者と共に、陸路でイスタンブルに向かった。ウスキュダルについたのは1521年9月30日だった。それからヨーロッパ側のトプカプ宮殿に向かい、玉座についた。
次の日父の遺体を見にエディルネ門まで行った。

彼の葬儀はファーティフモスクで行われた。そのあと

という戴冠式(cülus ジュルス)で、金一封をイエニチェリに配った。

それからマニサのハレムの住人と子供たちをイスタンブルに来るように命じた。

要人の任命はこのようだった。大宰相ピーリーメフメトパシャの地位を留任し、前ララ(爺)のカスィムを始め、ムスタファパシャとフェルハドパシャを宰相に命じた。

その後 公正を重んじ、民衆を守るために努めた。
  • このため父親の時代にタブリーズとカイロか連れてこられた者たち600人から800人をを解放し、自国て帰らせた。
  • イランとの絹貿易の禁止を解除し、そのことで損害を被った商人たちの損害を補償した。
  • また民衆を迫害する統治者たちや兵士たちを罰した。
  • さらに父がカイロからイスタンブルには連れてこられたアッバース朝最後のカリフ・ムタワッキル3世をエジプトへ帰す許可を出した。既存のカリフの地位を利用せず、自らが新しい代理人としての地位を確立する一歩を踏み出した。一人でスルタンでもありカリフでもあるという考えを全ムスリムの人々に明示した。
このように新皇帝としての度量を見せたはじめたが、皇位継承してから2ケ月もたたないうちに、ダマスカスの総督についたマムルーク朝の末裔のエミール ジャンビルディ ガザーリーが反乱を起こした。
1521年1月この反乱を鎮圧した。

これからスレイマン大帝の治世1、2、3 にあるように遠征を続ける人生を送った。

 13回の遠征
  1. 1521年 ベオグラードを奪取
  2. 1522年 ロドス島攻略 
  3. 1526年 モハーチの戦い 
  4. 1529年 ウィーン包囲
  5. 1532年 2回ウィーン包囲  1533コンスタンティノープルル条約( フェルディナントとイブラヒムが窓口で結ばれた)
  6. 1534年から35年 第1回東方遠征 バグダード・タブリーズを奪取
  7. 1537年アドリヤ海遠征へ出発、コルフ島包囲11月22日イスタンブルに戻る。
  8. 1538年 7月9日出発 ボアダンを成敗
  9. 1541年 ハンガリー遠征
  10. 1548年 第2回東方遠征
  11. 1553年 第3回東方遠征 アマスィヤ講和1555
  12. 1565年 マルタ島包囲戦
  13. 最後の遠征 スィゲトヴァール包囲戦

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