【コルクト皇子】セリム1世の兄。スレイマン1世のおじ

1467年アマスィヤで生まれた。イスタンブルのメフメット2世の宮殿で教育を受けた。アラビア語、ペルシャ語が堪能。
1481年に祖父メフメト2世が亡くなり、父親のバヤズィット2世がイスタンブルに到着するまでイスタンブルの皇帝の留守居役をつとめた。
1491年マニサのサルハーンの知事になる。1502年アマスィヤの知事アフメトの訴えによってアンタリアのテケ知事に左遷される。オスマン海軍の発展に貢献した。シャフィー派だったようだ。
  • 皇位継承問題
もう一度マニサに戻りたかったコルクトはそのことを皇帝に願い出たがうけいれられなかった。
1509年巡礼に行くと言いアンタリアからエジプトへむかった。そこでマムルーク朝スルタンカンスにあったことで皇帝が激怒する。
一応許され
1511年アンタリアに戻る。

しかし弟セリムが父親に対して行動に出たセリムはマニサからイスタンブルに向かった。セリム2世はシャーイスマーイルに対する父のやり方に不満を覚え、彼の代わりに皇位につく。皇位にセリム2世がつくとマニサの知事に任命された。
その後
セリム2世送った手紙に反対の意をとなえたためとで捕まえられた。マニサに護送中エメトで亡くなった。

エピソード97ではこのコルクト伯父のことをスレイマンが子供たちに話すシーンがある。
https://osmanteikokugaiden.blogspot.com/2019/11/97_69.html
  • 地中海の海軍の力を強めキリスト教徒の捕虜となった人々を多くすくった。
  • 詩人としても有名。
法学についてのHalli İşkal’il-Efkâr fi Hill-i Emval’il-Küffâr,
道徳のついてのVesilet’ül-Ahbâb 'alâ vechi'l-icâz
スーフィズムについてのDa‘vetü‘n-nefsi‘t-tâliha ile‘l-a‘mâli‘s-sâlihaや、Kitâb’ül-Harîmî fi’t-Tasavvuf’u

などの著作がある。

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