ムスタファ皇子が行った【賜剣の儀式】(kılıç kuşanma merasim) って本当は・・です。
オスマン帝国の「賜剣の儀式」は、ヨーロッパでの帝冠式にあたります。
関連記事ムスタファの入隊式は賜剣式のことなの?
オスマン語で正式にはこの賜剣式は
「タクィーディ セイフ タッカルディ シェムシール」(taklîd-i seyf, takallüd-i şemşîr)と言います。
起源はいつ頃?
起源はかなり古くオスマン帝国以前にもあった習慣のようです。
いつ始まったのかはほんとは明らかではありません.
一説では 、
「幸福の時代」と呼ばれるメッカと メディーナに預言者が生きていた600年代に始まった
と言われています。
ハイバルの戦い後では、預言者が剣だけでなく、アリ(のちのカリフに)鎧もつけさせることがありました。
どうやってオスマン朝まで伝わったのか?
その後アッバース朝時代には、カリフが将校たちに剣や旗を授けたり、
また
アッバースのカリフが皇位につくときは、預言者の遺品とされる剣がカリフに渡されました。
柴山さんよれば
「トゥーズーンの大アミール任命の儀式 が行われた。 この時政府はトゥーズーンに賜衣 (khil‘a) と軍旗 (liw a’) を与え, クンヤ (父称) で呼ぶことを命じた。」(引用 大アミールによるカリフ交代に関する一考察 大アミール・トゥーズーンの事例を中心にー:柴 山 )
アミールの任命式に衣と旗を与えることもあったようです。
時代が下ってアッバース朝が弱体化し、地方勢力が強くなり地方に国が散在するようになると、そこの統治者たちに高価な宝石や金メッキの柄で飾られた剣も与えられるようになりました。
懐柔政策を行ったのかもしれませんね。
例えばガズナ朝の統治者メスード1世やサラハッディーン エイユービーそして セルジューク長のスルタン・アラウッディーン・ケイクバート1世には衣などのほかに剣も与えたましたよ。
さらに1059年にはセルジューク朝スルタン・トゥール・ベイに、そして1133年にはイラクのセルジューク朝スルタン・メスド1世にも剣が与えられました。
そしてマムルーク朝のスルタンたちにもアッバース朝のカリフは衣と剣を授けました。
剣だけでなく衣や旗を賜ったことがわかります。
この伝統がオスマン帝国にも引き継がれ独自の発展を遂げ、「クルチュ クシャンマ メラスィム」となりました。
オスマン朝時代の賜剣式
統治者の印とされる剣を装着する儀式がオスマン時代のいつごろから始まったかは明らかではありません。
ある説によると、父の税金と贈り物をコンヤに運んだオスマンベイが聖メヴラーナの息子
スルタン・ベレドが剣を授けられたと言われています。
また他説ではオスマンベイが、シェイフ・エデバリの剣を授かったも言われます。
実際にこの儀式が行われたのは電撃王ベヤズィットの時代です。
1396年カイロ在住のアッバース朝カリフがバヤズィットに「ルームのスルタン」と言う称号を与えました。
この時カリフは剣を一緒に送り、バヤズィットはエミール・スルタンのご自身の手で腰に差されたとのことです。
他説では
統治者のシンボルとして剣が与えられたのは1421年でした。この儀式はムラト2世が皇位についた後で、ブルサで行われたとされています。
またエディルネのエスキジャーミで行われたとも言われています 。これはメフメット2世について書かれた記録の中に「父のようにメフメト2世もエディルネでクルチュクシャンマスを行った」あるためです。(引用:スィラフダル,Ⅱ,580)
メフメト2世のコンスタンティノープルの獲得後、エイユプ・スルタン・ジャーミで行われた式がからかなり制度化が進みました。
バヤズィット2世とセリム1世については何も資料が残っていません。
エヴリヤー チェレヴィはスレイマン大帝が アッバース朝の最後のカリフから剣を授かったと記していますが、確かな事実ではありません。
スレイマンの後の時代のセリム2世、ムラト3世そしてメフメト3世については、詳しいことは書かれておらず、ただ先祖の墓をお参りしたとあります。
アフメド1世の時代、剣がようやく統治者の象徴となり、以後この儀式はオスマン朝最後のスルタンであるスルタン・ヴァフデディーン(メフメド6世)まで続きました。
ただムラト5世(1800年代)は病気のため行いませんでした。 そしてムスタファ2世(1600年代後半)については何も書いてありません。
どの剣を誰が授けるかが重要!
普通式は皇位について数日後行われます。誰が皇帝に授けたかと言うと、イスラム長老、スーフィーの長老たちです。
この授ける行事はタカッリュディ セイフ(takallüd-i seyf)と言われます。
剣はスレイマン皇帝の父セリム1世がエジプトから持ってきたという預言者の剣かカリフ ウマルの剣であったそうです。時にそれらはオスマンベイ、メフメト2世、セリム1世の剣だともいわれます。
一本の剣またはニ本の剣の場合もありました。
これらは皇帝の好みにより決まりました。
賜剣式には主に2つの行事がある!
一つはクルチュアライ
これは皇帝についたその次の日から7日までの間に聖エイユーブの墓へ往来すること。往来は行きが陸からならば帰りは海から、また行きが海からならば帰りは陸から戻ることが習慣とされました。時には陸路だけで行う場合もありました。
もう1つは聖なる剣とみなされる剣のうち1つまたは2つを賜ること
式の日程は?
行きが海路の場合
新皇帝は朝の礼拝の後トプカプ宮殿の部屋へ開かれたドア「覆いの扉」から出発し
馬でスィナンパシャの館へ向かいます。
ここで3つの灯ろうのある船に乗り、スィラフダルやチュハダル リカーブダル アーたちを引き連れて、海路でエイユプまで進みます。
エイユプには、先に到着していた大宰相や政府の高官たちが出迎えます。
お昼の礼拝をする前に、食事をし、それからエイユプ・スルタンのお墓へ向かいます。
この道中で皇帝の形を形どったお金が周りにまかれます。
皇帝は墓に入り定められた場所に座ります。大宰相、イスラム長老、イェニチェリのアーたちも入ってきます。
勝利章が読誦され、長老たちが祈りを捧げます。
そのあとで皇帝が礼拝し、祈り、剣を賜ります。
皇帝がエイユプから宮殿に戻るのは通常陸路でした。
宮殿に到着すると、「幸福の門」から中に入ります。
イェニチェリの長の支えによって馬から降り、皇帝が中に入ったところで、この僥倖は終了します。
この僥倖の間に犠牲の羊を捧げることも習慣となっていました。
多いときは100匹以上もの羊をささげたそうで、それらは人々に配られます。
またエイユプからの帰り道民衆から新しい皇帝への願いをしたためたメモを集めたりもしました。
これらは宰相たちに届けられます。
このようにクルチュアライのメリットには、民衆がふるまわれた肉で作った御馳走を食べることだけでなく、民衆に新皇帝の存在を身近に感じさせることもあったのです。またこの式の後皇帝で働く者たちにボーナスの金銀がふるまわれました。
この儀式はイェニチェリが廃止され改革が始まってからは、簡素化されました。
オスマン帝国外伝では どうかな?
今までみてきたように賜剣式は主に皇位につくために行われる儀式の1つのようですね。
オスマン帝国外伝に出てくる皇子たちがイェニチェリの前で宣誓する儀式もクルチュ・クシャンマスと呼ばれていますが、どうやら少し様子が違うようです。
もう一つ不思議なのは、この儀式は実際にはエイユプ・スルタンの墓のある地域で行われたらしいのですが、ドラマでは観た感じイスタンブルの宮殿で行われているように見える点です。
と言う疑問が残ります。さてほんとのところはどうなのでしょうか?
参照記事
https://www.akinci944.com/gunce/osmanli-padisahlarinin-kilic-kusanma-torenleri/
https://islamansiklopedisi.org.tr/kilic-alayi
関連記事ムスタファの入隊式は賜剣式のことなの?
オスマン語で正式にはこの賜剣式は
「タクィーディ セイフ タッカルディ シェムシール」(taklîd-i seyf, takallüd-i şemşîr)と言います。
起源はいつ頃?
起源はかなり古くオスマン帝国以前にもあった習慣のようです。
いつ始まったのかはほんとは明らかではありません.
一説では 、
「幸福の時代」と呼ばれるメッカと メディーナに預言者が生きていた600年代に始まった
と言われています。
ハイバルの戦い後では、預言者が剣だけでなく、アリ(のちのカリフに)鎧もつけさせることがありました。
どうやってオスマン朝まで伝わったのか?
その後アッバース朝時代には、カリフが将校たちに剣や旗を授けたり、
また
アッバースのカリフが皇位につくときは、預言者の遺品とされる剣がカリフに渡されました。
柴山さんよれば
「トゥーズーンの大アミール任命の儀式 が行われた。 この時政府はトゥーズーンに賜衣 (khil‘a) と軍旗 (liw a’) を与え, クンヤ (父称) で呼ぶことを命じた。」(引用 大アミールによるカリフ交代に関する一考察 大アミール・トゥーズーンの事例を中心にー:柴 山 )
アミールの任命式に衣と旗を与えることもあったようです。
時代が下ってアッバース朝が弱体化し、地方勢力が強くなり地方に国が散在するようになると、そこの統治者たちに高価な宝石や金メッキの柄で飾られた剣も与えられるようになりました。
懐柔政策を行ったのかもしれませんね。
例えばガズナ朝の統治者メスード1世やサラハッディーン エイユービーそして セルジューク長のスルタン・アラウッディーン・ケイクバート1世には衣などのほかに剣も与えたましたよ。
さらに1059年にはセルジューク朝スルタン・トゥール・ベイに、そして1133年にはイラクのセルジューク朝スルタン・メスド1世にも剣が与えられました。
そしてマムルーク朝のスルタンたちにもアッバース朝のカリフは衣と剣を授けました。
剣だけでなく衣や旗を賜ったことがわかります。
この伝統がオスマン帝国にも引き継がれ独自の発展を遂げ、「クルチュ クシャンマ メラスィム」となりました。
オスマン朝時代の賜剣式
統治者の印とされる剣を装着する儀式がオスマン時代のいつごろから始まったかは明らかではありません。
ある説によると、父の税金と贈り物をコンヤに運んだオスマンベイが聖メヴラーナの息子
スルタン・ベレドが剣を授けられたと言われています。
また他説ではオスマンベイが、シェイフ・エデバリの剣を授かったも言われます。
実際にこの儀式が行われたのは電撃王ベヤズィットの時代です。
1396年カイロ在住のアッバース朝カリフがバヤズィットに「ルームのスルタン」と言う称号を与えました。
この時カリフは剣を一緒に送り、バヤズィットはエミール・スルタンのご自身の手で腰に差されたとのことです。
他説では
統治者のシンボルとして剣が与えられたのは1421年でした。この儀式はムラト2世が皇位についた後で、ブルサで行われたとされています。
またエディルネのエスキジャーミで行われたとも言われています 。これはメフメット2世について書かれた記録の中に「父のようにメフメト2世もエディルネでクルチュクシャンマスを行った」あるためです。(引用:スィラフダル,Ⅱ,580)
メフメト2世のコンスタンティノープルの獲得後、エイユプ・スルタン・ジャーミで行われた式がからかなり制度化が進みました。
バヤズィット2世とセリム1世については何も資料が残っていません。
エヴリヤー チェレヴィはスレイマン大帝が アッバース朝の最後のカリフから剣を授かったと記していますが、確かな事実ではありません。
スレイマンの後の時代のセリム2世、ムラト3世そしてメフメト3世については、詳しいことは書かれておらず、ただ先祖の墓をお参りしたとあります。
アフメド1世の時代、剣がようやく統治者の象徴となり、以後この儀式はオスマン朝最後のスルタンであるスルタン・ヴァフデディーン(メフメド6世)まで続きました。
ただムラト5世(1800年代)は病気のため行いませんでした。 そしてムスタファ2世(1600年代後半)については何も書いてありません。
どの剣を誰が授けるかが重要!
普通式は皇位について数日後行われます。誰が皇帝に授けたかと言うと、イスラム長老、スーフィーの長老たちです。
この授ける行事はタカッリュディ セイフ(takallüd-i seyf)と言われます。
剣はスレイマン皇帝の父セリム1世がエジプトから持ってきたという預言者の剣かカリフ ウマルの剣であったそうです。時にそれらはオスマンベイ、メフメト2世、セリム1世の剣だともいわれます。
一本の剣またはニ本の剣の場合もありました。
これらは皇帝の好みにより決まりました。
賜剣式には主に2つの行事がある!
一つはクルチュアライ
これは皇帝についたその次の日から7日までの間に聖エイユーブの墓へ往来すること。往来は行きが陸からならば帰りは海から、また行きが海からならば帰りは陸から戻ることが習慣とされました。時には陸路だけで行う場合もありました。
出典元:https://islamansiklopedisi.org.tr/kilic-alayi |
もう1つは聖なる剣とみなされる剣のうち1つまたは2つを賜ること
式の日程は?
行きが海路の場合
新皇帝は朝の礼拝の後トプカプ宮殿の部屋へ開かれたドア「覆いの扉」から出発し
馬でスィナンパシャの館へ向かいます。
ここで3つの灯ろうのある船に乗り、スィラフダルやチュハダル リカーブダル アーたちを引き連れて、海路でエイユプまで進みます。
エイユプには、先に到着していた大宰相や政府の高官たちが出迎えます。
お昼の礼拝をする前に、食事をし、それからエイユプ・スルタンのお墓へ向かいます。
この道中で皇帝の形を形どったお金が周りにまかれます。
皇帝は墓に入り定められた場所に座ります。大宰相、イスラム長老、イェニチェリのアーたちも入ってきます。
勝利章が読誦され、長老たちが祈りを捧げます。
そのあとで皇帝が礼拝し、祈り、剣を賜ります。
皇帝がエイユプから宮殿に戻るのは通常陸路でした。
宮殿に到着すると、「幸福の門」から中に入ります。
イェニチェリの長の支えによって馬から降り、皇帝が中に入ったところで、この僥倖は終了します。
この僥倖の間に犠牲の羊を捧げることも習慣となっていました。
多いときは100匹以上もの羊をささげたそうで、それらは人々に配られます。
またエイユプからの帰り道民衆から新しい皇帝への願いをしたためたメモを集めたりもしました。
これらは宰相たちに届けられます。
このようにクルチュアライのメリットには、民衆がふるまわれた肉で作った御馳走を食べることだけでなく、民衆に新皇帝の存在を身近に感じさせることもあったのです。またこの式の後皇帝で働く者たちにボーナスの金銀がふるまわれました。
この儀式はイェニチェリが廃止され改革が始まってからは、簡素化されました。
オスマン帝国外伝では どうかな?
オスマン帝国外伝に出てくる皇子たちがイェニチェリの前で宣誓する儀式もクルチュ・クシャンマスと呼ばれていますが、どうやら少し様子が違うようです。
もう一つ不思議なのは、この儀式は実際にはエイユプ・スルタンの墓のある地域で行われたらしいのですが、ドラマでは観た感じイスタンブルの宮殿で行われているように見える点です。
と言う疑問が残ります。さてほんとのところはどうなのでしょうか?
参照記事
https://www.akinci944.com/gunce/osmanli-padisahlarinin-kilic-kusanma-torenleri/
https://islamansiklopedisi.org.tr/kilic-alayi