ムラディイェ複合施設(Muradiye Külliyesi)の中にあるジェム皇子の墓 5

4ジェムスルタンの墓Cem Sultan türbesi
ムラディイェ複合施設の墓の中でいちばん装飾が豊かなのはジェムスルタンの墓です。

高さは2.35mのターコイズとダークブルーの6角形のタイルの壁でおおわれています。これは1479年兄ムスタファのために父メフメト2世が作らせたものですが、ムスタファ兄の隣に彼は埋められたのです。彼が埋められた後はジェムスルタンの墓として広く人々に知られるようになりました。

他にもバヤズィットの息子たちアブドゥッラーとアレムシャーが眠っています。

ジェム皇太子は運命に翻弄され、最後にこの墓にたどり着きました。オスマン帝国外伝でスレイマン大帝たちがシーズン2でロドス島を征服したとき、ジェム皇子の短剣でイブラヒムが刺されたことがありましたが、その短剣はジェム皇子の息子がもっていたものでした。ドラマでもロドス島に一人ジェム皇太子の息子がいましたが、その方はスレイマンに捕らえられ息子たちと共に処刑されてしまいました。

ジェム皇子はスレイマンのおじいさんの弟にあたります。メフメト2世の息子さんです。1459年12月にエディルネで生まれ、良い教育を受け数か国語を話し、10歳でカスタモヌ・サンジャクの知事になり、1472年スンネットの儀式をイスタンブルで行いました。

1473年メフメト2世が東方遠征に出かけた際、エディルネで留守居役を命じられましたが、その時メフメト2世から40日間れんらくがとだえたため、彼の周りの者たちは彼を皇帝にしました。
その後都に戻ったメフメト2世はジェムを処罰することも考えたようですが、彼の側近を罰しただけで事なきを得ます。それから2年後、コンヤのサンジャクに赴任先が変わりました。これはメフメト2世が彼を許したことを意味します。

それから8年後の1481年5月3日にメフメト2世がなくなると、兄のバヤズィットが先にイスタンブルにつき、皇位を継承しました。
彼は兄からの攻撃に備えコンヤの周りで兵を集めブルサに向かいました。

5月28日、4000人の兵と共に兄の軍と戦って、勝利したジェムは、ブルサで皇帝になったと宣言します。貨幣も作らせましたが、彼の天下は長くは続きませんでした。
6月20日イェニシェヒル平原での戦いで負けたジェムはコンヤに戻ります。
そこからアダナ アレッポ カイロへと逃げのびます。
 
カイロの当時のスルタンだったカユトバイは彼を保護しなかったのですが、ちょうど巡礼の時期でしたので彼はヒジャズに行きます。逃亡がきっかけでしたが、ともかく巡礼を行った最初のオスマン家の人はこのジェム皇子です。
そこで記された詩によると皇位継承を完全に放棄したとありました。巡礼の雰囲気で彼にとっては皇位よりももっと大切な何かを再認識したようです。彼の心はそこで平安を取り戻しました。

その後ロドス島へ招待されます。オスマン帝国外伝シーズン2でなぜロドス島にジェム皇子の短剣があったのかと不思議に思いましたが、この史実に基づいて描かれたかれていたんですね。
それから彼は政治の駆け引きの駒として使われ、かなり悲惨な人生を送ることになります。ジェム皇子はルメリ(オスマン帝国のヨーロッパ側の地域)へ行きたかったのですが、フランスへ送られます。
フランス6,7年過ごしたジェムはメフメット2世の死の8年後の1489年にトゥーロンを経てローマへわたりインノケンティウス8世 (ローマ教皇)と会見します。
ローマ教皇はジェムを利用して十字軍を結成したかったのですが、失敗します。
次に教皇が考えたのはジェムをキリスト教徒にすることでしたが、ジェムはそれを拒否します。
当時のジェムの唯一の望みはエジプトに残してきた家族との再会することでした。ですがそうこうしているうちにローマで5年と11か月の月日が過ぎてしまいます。
次に向かわされた国はフランスでした。フランス王のシャルル8世に引き渡されることになります。
その時ナポリへ向かう途中で急病にかかり、亡くなりました。一説では毒殺されたともいわれています。
最後の言葉ではエジプトの家族をイスタンブルに戻し、自分の遺体はオスマンの地に埋めてくれとのことでした。1499年2月25日の寒い日の出来事でした。

ヨーロッパでながく孤独に生活した彼が最後までに思っていたのは家族のことだけだったのですね。とても哀れです・・・
そういえばオスマン帝国外伝のシーズン4でスレイマンの息子バヤズィットがイランで生活したのちオスマンの地で命を奪われるというシーンがありましたが、ジェム皇子とバヤズィット皇子がなぜか重なって見えてしまいました。

ジェムの遺体はどうなったんでしょうか?バヤズィット2世は拒否します。そのため彼の遺体は長い間ナポリに放置されたままになりました。
4年後バヤズィット2世がナポリに宣戦布告したため、ジェム皇子のご遺体は船にのせられブルサに送られました。そしてようやく彼のおじいちゃんが作ったムラディイェ・モスクの庭に埋められました。

他にもバヤズィット2世の息子たちアブドゥッラーエレムシャーが眠っています。
彼の家族はどうなったか気になりますが、母親のチチェキ・ハートゥン1495年に病気で亡くなりました。
彼の子供たちの一人ウウズはジェムがフランスに送られた1482年に、皇帝である伯父に命を奪われました。当時彼はまだ3歳でした。

もう一人の息子ムラトはロドスに住み、キリスト教徒になりました。スレイマンがロドス島を包囲したと騎士側にたって戦いました。
スレイマンが勝った後、ロドスの島民たちは解放されましたが、ムラトとその息子たちはスレイマンによって命を奪われたました。
ドラマでは赤んぼだった末の男の子だけは見逃されましたよね。
実際に後に彼の子孫たちが自分はジェム皇子の子孫だと名乗りを上げたようですが、オスマン家の人とは認められていないようです。
私たちもぜひ一度このジェム皇子お墓を見てみたいものです。お墓のそばで彼の人生を感じられるかもしれません。

オスマン帝国君主10代まで
オスマン オルハン ムラト1世 バヤズィト1世 メフメト1世 ムラト2世 メフメト2世 バヤズィト2世 セリム1世 スレイマン1
バヤズィット2世の兄弟がジェム皇子
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