元気な人をうらやましがるのは不幸のはじまり オスマン帝国外シーズン4 40話ハイライト
スレイマンは無事イラン遠征から戻った。だが遠征中みんなの前で倒れ、馬にも乗れないほど体が弱っていた。
イスタンブルにつくと、あいさつもそこそこに部屋に入るが、彼は歩くのさえ困難だった。ロクマンアーの助けを借りてようやく座ることができた。
足の腫物は悪化していた。ロクマンが医者を呼びましょうというがスレイマンは拒否した。そして出ていくようにロクマンに命じた。スレイマンはこの時50代の半ばだった。病気のせいかぐっと年を取ったように見える。
スレイマンはベッドを見つめた。そして懸命に立ち上がろうとした。足を床におきたちあがったが、痛みがひどすぎて歩けず、ベッドまではまるで1000里もあるかのように彼は感じた。
何とかベッドへたどり着いたスレイマン。かわいそうに・・・
次のシーンではヒュッレムがスレイマンのおそばで懸命に看病していた。アフィフェが亡くなる前、ヒュッレム妃に「スレイマン皇帝のそばにいて彼を助けてほしい」と願って、ヒュッレムのスレイマンの病気のことを話したのだ。
「熱が少しさがったわ」
と少しほっとしたようなヒュッレム。ベッドの周りにはヒュッレムの娘と息子たち、そしてファトマ皇女とギュルフェムがいた。
バヤジトが医者に尋ねると、医者は「遠征でご無理をなさったようですね。全力を尽くします、これ以上悪くならないように祈りましょう」と答えた。
医者が祈るようにというのもなんだか妙な感じだが、当時人々は病気を治すのは神だと思っていた。医者は治療するが、病気を治すのは医者ではないということなのだ。
そもそも病気は神からきて、その病気を治すのも治さないも、神のおのぞみのままと考えられていた。
ではなぜ病気が人々に与えられるのかというと、病気によって試されるという。
病気になったことに不平不満を覚えず、受け入れ、それに耐え、治るように全力を尽くし、なおかつ神に祈ると、神の試験には合格したことになるようだ。「なんで私だけがと感じながら、文句を言ったり、まわりの元気な人をうらやましがったりしがちだけれど、そうするとより不幸になるばかりだわよ」とがんで闘病生活をおくっている友人が話していた。「でも普通はそうおもうでしょ?」と聞くと、
「確かに、最初にそう思うわよね。でも捉え方をかえると、よりシンプルな生き方ができるわよ。治ろうが治るまいが、治ろうと努めることだけが私たちに人間にできることなのよ。治るかどうかは結果かんけいのよ。今生きていることに感謝しながら、一瞬一瞬を生きるしかできることはないものね」と答えた。
その時彼女はすごくいきいきしているなあ!と感じた。いろんなことが日に日にできなくなる中でも、彼女は今彼女にできることをいつも探して、めいっぱいそれをしようとしている。
「あなたの肯定的なメンタルの源はなんなの?」
と不思議に思って尋ねると、
「祈ることかな・・」
という答えが返ってきた。
えっ!これってもしかしたらオスマン時代の人々の考え方とおんなじかな?
当時の考え方が今日まで続いている感じがして、なんだか心にジーンときた。
時代を問わず、トルコの方々は病気でさえも肯定的に捉えちゃう!!
なんか、すごすぎ!