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ムスタファ皇子が行った【賜剣の儀式】(kılıç kuşanma merasim) って本当は・・です。

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オスマン帝国の「賜剣の儀式」は、ヨーロッパでの 帝冠式 にあたります。 関連記事 ムスタファの入隊式は賜剣式のことなの? オスマン語で正式にはこの賜剣式は 「タクィーディ セイフ タッカルディ シェムシール」(taklîd-i seyf, takallüd-i şemşîr)と言います。 起源はいつ頃? 起源は かなり古く オスマン帝国以前にもあった習慣のようです。 いつ始まったのかはほんとは明らかではありません. 一説では 、   「幸福の時代」 と呼ばれるメッカと メディーナに預言者が生きていた 600年代に始まった と言われています。 ハイバルの戦 い後では、 預言者が剣だけでなく、アリ( のちのカリフ に)鎧もつけさせること がありました。 どうやってオスマン朝まで伝わったのか? その後 アッバース朝時代 には、カリフが将校たちに 剣や旗 を授けたり、 また アッバースのカリフが皇位につくときは、預言者の遺品とされる剣がカリフに渡されました。 柴山さんよれば 「トゥーズーンの大アミール任命の儀式 が行われた。 この時政府はトゥーズーンに 賜衣 (khil‘a) と 軍旗 (liw a’) を与え, クンヤ (父称) で呼ぶことを命じた。」(引用 大アミールによるカリフ交代に関する一考察 大アミール・トゥーズーンの事例を中心にー:柴 山 ) アミールの任命式に衣と旗を与えることもあったようです。 時代が下って アッバース朝が弱体化 し、地方勢力が強くなり地方に国が散在するようになると、そこの 統治者たちに高価な宝石や金メッキの柄で飾られた剣 も与えられるようになりました。 懐柔政策を行ったのかもしれませんね。 例えばガズナ朝の統治者メスード1世やサラハッディーン エイユービーそして セルジューク長のスルタン・アラウッディーン・ケイクバート1世には 衣 などのほかに 剣 も与えたましたよ。 さらに1059年にはセルジューク朝スルタン・トゥール・ベイに、そして1133年にはイラクのセルジューク朝スルタン・メスド1世にも 剣 が与えられました。 そしてマムルーク朝のスルタンたちにもアッバース朝のカリフは 衣と剣 を授けました。 剣 だけでなく 衣 や 旗 を 賜った ことがわかります 。 この

ほんとのオスマン帝国 記事一覧(随時更新)

 オスマン語はこちら 史実オスマン帝国の人物 オスマン帝国外伝スレイマン1世の時代から続オスマン帝国外伝キョセムまでに起こったこと New 賜剣式の謎   宮廷学校と小姓頭 エンデルン ハティジェスルタンはイブラヒムパシャと結婚しなかった コルクト皇子 とは ムスタファケマルの家族

オスマン帝国外伝(キャスト)登場人物(史実) 

実際のオスマン帝国 実際に存在した登場人物で(オスマン帝国外伝)随時更新 皇室 ♠スレイマン大帝 10代皇帝 ♦ヒュッレム妃 スレイマンの妃 ♦アイシェ・ハフサ母后  スレイマンの母 ♠バヤズィット皇子  ヒュッレム妃の息子 家来 ♠マルコチョール 小姓頭 ♠マトラークチュ 歴史家 ♠エブッスード イスラム長老 ♠アヤスパシャ 大宰相 ♠チョバン・ムスタファパシャ 宰相 ♠タチュルジャル ヤフヤー (ムスタファの忠臣 ) ♠アフメトパシャ 宰相 エジプトで反乱を起こす 実際に実在した人物(続オスマン帝国外伝・キョセム)  ♦ハンダン・スルタン アフメトと皇帝の実の母

反逆者アフメトパシャ(AHMED PAŞA, Hain )(ö. 930/1524)

 1524年死亡。オスマン帝国の宰相だった。教育はエンデルンで受けた。 エンデルンについてはこちらから その後、イェニチェリに配属された。 1516年から1517年セリム1世の時代、エジプト遠征に参加した。 1521年スレイマン大帝の時代、ベオグラードの戦いに参戦。彼は功績を立てその後ルメリ・ベイレルベイに就任。この時同時に第三宰相として御前会議に参加し始める。 1522年ロードス島の戦いに参加し、彼が指揮して島へのじょる六作戦と包囲作戦を指揮した。敵との降伏条件の交渉も彼がした。

史実では【ハティジェスルタンとイブラヒムパシャは結婚していなかった】

イスマイル ハック ウズンチャルシュルル  Prof. İsmail Hakkı Uzunçarşılı トルコの歴史家。 1888年イスタンブルで生まれる。数多くの歴史書を残している。 大學卒業後歴史の教師をしていたが、バクルエスィルのから国会議員として当選した。 そ1926年1月14日から1950年までの職を務める傍ら, 1932年から1938年までイスタンブル大学で歴史を教えた。 89歳で亡くなった。

【コルクト皇子】セリム1世の兄。スレイマン1世のおじ

1467年アマスィヤで生まれた。イスタンブルのメフメット2世の宮殿で教育を受けた。アラビア語、ペルシャ語が堪能。 1481年に祖父メフメト2世が亡くなり、父親のバヤズィット2世がイスタンブルに到着するまでイスタンブルの皇帝の留守居役をつとめた。 1491年マニサのサルハーンの知事になる。1502年アマスィヤの知事アフメトの訴えによってアンタリアのテケ知事に左遷される。オスマン海軍の発展に貢献した。シャフィー派だったようだ。 皇位継承問題 もう一度マニサに戻りたかったコルクトはそのことを皇帝に願い出たがうけいれられなかった。 1509年巡礼に行くと言いアンタリアからエジプトへむかった。そこでマムルーク朝スルタンカンスにあったことで皇帝が激怒する。 一応許され 1511年アンタリアに戻る。

【ムスタファケマルの家族】と彼の幼少期から陸軍学校卒業まで

父方はアルバニア系、母方は中部アナトリアのカラマン出身で農民の娘ズュベイデ。 父親アリルザは1871年から始まったロシア戦争で注意として戦った。サロニカで税関職員を務めていたが後に木材商になった。1881年生まれた。兄弟は5人。名はハティメ 、オメル、 アフメット、ナージイェ、マクブレ。4人は幼少のころに亡くなり、マクブレは4歳年上のムスタファ・ケマルについての「兄のアタテュルク」(Büyük Kardeşim Atatürk )」「私の兄ムスタファ・ケマル」(Ağabeyim Mustafa Kemal )」という著作を残している。政治家でもある。 ムスタファ・ケマルが小学校に通う時が来る。だが両親の意見は分かれた。母は近所のメクテベに、父は西洋式教育をする私立シェムスィ・エフェンディ学校に行かせたかった。ここははじめの数日間は近所の学校へ、それから私立校へ転向した。ムスタファ・マルはこの父の決定に感謝していた。 しかし1888年父がなくなると、母の義兄弟の住むラプラ農場で生活することになった。彼はしばらく農場の仕事を手伝うが、母の計らいでサロニカへ戻り学校を終了した。この間に母は税務職員のラーグプと結婚した。中学校はサロニカ幼年兵学校(Selânik Mülkiye Rüştiyesi)、1893年陸軍士官学校(Selânik Askerî Rüştiyesi)に入学。1902年歩兵少尉として卒業し、陸軍大学に進む。参謀大尉として卒業しダマスカス第5軍に配属された。

スレイマン大帝 誕生から帝冠式後まで

1494年11月6日トラブゾンで生まれる 父セリムは当時トラブゾンの州知事(総督)だった。母はハフサスルタン。

Hümaşah Sultanの謎!その2 ミフリマーフ皇女の娘の名はヒューマシャー (Hümaşah )

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ミフリマーフは今マルコチョールにむちゅうだけど、彼女の娘はアイシェ ヒューマシャー スルタン Ayşe Hümaşah Sultan ていうんだよ ではヒュッレム妃の孫娘さんは2にんともヒューマシャーっていうのね。 うん、そうだね なぜ当時この名が人気だったのかしら

ローマへ進撃中のスレイマンにローマ法王が画策?~オスマン帝国外伝シーズン3(エピソード86から)

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スレイマン大帝がルトフィパシャに 「11000人の兵士と 10人のサンジャクベイでで南イタリアへ行け。まず初めにを手に入れるの。そのあとでその周辺の城を陥落させよ。安全を確保するのだ。我々はその後海軍を率いてオトラントへむかうぞ。さあおまえの手腕を見せてみよ」。 ルトフィパシャは

~ローマへ進撃中のスレイマンはコルフ島包囲へ作戦変更~オスマン帝国外伝シーズン3(エピソード86から)

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 関連記事  イタリア遠征・コルフ島の包囲って? (1537年夏)包囲後のこともこ書いてあります。面白いのでぜひご覧ください。 それでは動画の説明に入ります。 アヤスパシャが大丈夫だと言っていたベネディクト(ベネチア)が裏切ったことによって戦況が代わる。ローマへ向かっていたスレイマンはまずベネチアをなんとかしようと作戦を変えようとした。そのための作戦会議が開かれている。

Ebüssuûd エブッスード 史実 

(このブログではカーディーと記しています) 彼が自分のことをEbüssuûd Muhammedエブッスード ムハンメドと記していること から本名は ムハンメド でエブッスードはあだ名か地位を表すだったと思われる。

イブラヒムパシャのお墓の場所には謎が多い ガラタ説が有力!

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イブラヒムパシャはひそかに葬られたためお墓の場所には諸説が浮上しています。 ドラマでも今後イブラヒムパシャのお墓探しが始まります。 まずはイブラヒムを愛したニギャール。彼女は見つけました!(と言うか元夫もマトラクチュが教えたんですが) 次は妻だったハティジェ、彼女も発見! そしてシャースルタンも! 最後には20年近くたってヒュッレムが訪れます。 と言うわけでイブラヒムのお墓はイブラヒムの死後もドラマではよく出てきます。 イブラヒムのお墓は現在も謎のままです。諸説があり有力なのは2つです。 以前イブラヒムパシャの お墓の動画をご紹介 しましたが、それも諸説の1つです。カバタシュにあった墓はその後崩れ落ちていた壁の一部が修復されました) Kabataş Fındfıklı のCanfeda çıkmazにある墓)(カバタシュ フンドゥクルにあるジャンフェダ・チュクマズ・にある墓) もう一つの お墓の場所の候補はガラタ です。 考古学 Murat Sav(ムラト・サヴ)さんは 『イスタンブルとボアジチ』と言う本によるとイスタンブルのガラタにあるジャンフェダ・テッケスィ(Canfeda tekkesi)にある墓が本物の可能性が高いといいます。 1590年から1657年に生きたキョセムと同時代に活躍した有名な歴史家ソラクザーデメフメド ヘメデミ エフェンディによると ジャンフェダ修行場のパルガル の 埋められた場所の頭上にユダの木( セイヨウハナズオウ)を植えた と記されています。 考古学者サヴさんはワクフの資料からこの ジャンフェダ修行場 と名前が二か所にあることを発見します。 ひとつは以前紹介したカバタシュ フンドゥクルのジャンフェダチュクマズ、もう一つはガラタにあるマクブル・イブラヒム・パシャ・ジャーミの隣の場所です。 2つの場所に墓があるといわれるのは、このジャンフェダ修行場と言う地名を根拠としたんですね。 さらに サヴさんがカバタシュ(最初の方の墓)にある墓を調べたところ、 ワクフ省の資料には ジャンフェダ(フェザー)ババの墓 と記されていました。このことからジャンフェダ修行場を創設したシェイフのお墓の可能性が高くなったと言います。 ここのジャンフェダ修行場は1700年代の終わりごろに活動していたことから、イブラヒムパシ

スレイマン大帝の息子・ムスタファ皇子と大帝の妃・マヒデブランの墓 in ブルサ

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コンヤ平原のスレイマン大帝のテントで亡くなったムスタファ皇子のご遺体はブルサに移されました。現在は  ムラディイェ複合施設 (ムラト2世コンプレクス)の中にあります。2019年7月28日のお墓の内部の様子です。ムスタファがなぜなくなりブルサに送られたのかはオスマン帝国外伝シーズン4のエピソード123と124に詳しく描かれています。 オスマン帝国外伝シーズン4 エピソード123前半   オスマン帝国外伝シーズン4 エピソード123後半の1 オスマン帝国外伝シーズン4 エピソード123後半の2  ムスタファの旅立ち オスマン帝国外伝シーズン4 エピソード124前半  オスマン帝国外伝シーズン4 エピソード124後半 ムスタファ皇子の墓の御参りをした7月28日はとても暑い日でした。外観はこんな感じです。 木に囲まれてこじんまりとした感じの雰囲気の良い建物です。 建物の向かって左側にお墓の説明が書かれてありました。 入り口 入り口の上に置かれた文字 入口を入るすぐ手前がムスタファ皇子の棺です。ターバンは男の人だけのせられます。 名前の書かれた石板はこんな感じです。 頭のほうから見ると、  脚の側からはこんな感じです 窓からの光がブルーを基調としたタイルを美しく見せていました。 タイルを近くで見るとチューリップの形がここにもありました。 そして入り口から2番目のムスタファ皇子の隣の棺はスレイマン大帝の息子バヤズィットの子・オスマン皇子と言われています。音kの子だったのでやはりターバンがのっています。 そしてその隣がスレイマン大帝の妃でムスタファの母であるマヒデブランです。 名前の書かれた石板はこんな感じ 次は反対側(マヒデブラン妃の足のほうから)の撮影です。 棺の上には黒を基調にした布がかけられています。 マヒデブランの隣にはもう一つ小さな棺がありましたが、名前はわかりません。ターバンはのっていませんでした。  ドラマの登場人物を身近に感じながら入り口から外に出て、建物の後ろ側を見てみると大きな木がありました。木のおかげか建物のおかげかわかりませんが、お墓の中は涼しいくらいでした。 お墓の中の壁や天井をご覧

【オスマンベイの墓】 写真追加

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オスマン1世のお墓 彼は1258年で生まれました。 彼の人生はほぼ戦いですぎたと言われています。弓の名手です。父はエルトゥールルベイで母はハイマ・アナと言われています。。 1258年シェイフ・エデバーリの娘マルフムハートゥンと、結婚しオルハンベイと言う息子がいました。 ブルサを包囲したときオスマンはブルサの町の中にあるクッベをさして、もし自分が死んだらそこへ埋めるようにと遺言したと言われています。 オスマンガーズィーにとってブルサ攻略は最大の夢だした。まだ攻略していないそのブルサの街の中に埋葬するということは、オスハンに必ずその街を手に入れるようにと遺言したとも言えます。 年を取るにつれて彼は痛風に悩まされました。そのため統治者としての役をオルハンに譲りました。1324年亡くなったと言われています。 クッベのあった建物とはトプハーネ公園の左側にあるエリエ修道院の礼拝堂のことだそうです。 ブルサを手にした後、オルハンガーズィーはこの修道院をお墓に変えます。 1855年に地震によりお墓が崩れたため1863年にアブドゥル・アズィーズによって修復されました。天井は8角形です。 この墓にはムラト1世の息子サヴジュベイ、オルハンベイの妻のアスプルチェ・ハートゥンと彼女の息子イブラヒムベイ、そして オスマンガーズィーの息のアラエッディーンベイ、名前不明の2つの棺があります。 関連記事  オスマンベイの墓 の説明  ブルサ旅行1・オスマンベイの墓のある公園    ブルサのママは強し オスマンベイの廟の入り口の横にある説明文 廟の外観 入口 向かって左側の紋章拡大すると 入り口から入って見えるもの 茶色ぽい覆いと茶色のターバンがオスマンベイの墓 右回りするとこんな感じ上の写真の旗のある方からの取ったオスマンベイの墓 ここでファーティハをおくる。 先に進むと オルハンベイの息子イブラヒム皇子の墓とその隣にオルハンベイの妻のアスプルチェ・ハートゥンの墓(ターバンがしてある方が皇子)ここでもファーティハをおくる。 さらに右に曲がると反対側はこんな感じ 入り口の反対側の拡大写真 簡素な模様の天井 オスマン帝国君

【オルハンベイのお墓】 写真追加

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オスマンガーズィーのちょうど向かい側に、オルハンガーズィーの墓があります。彼は1281年に生まれました。 15歳で初めて戦いに出かけ、彼も父オスマンと同様戦いでほぼ人生を過ごします。45歳で長になり、1326年ブルサを、1329年イズニクをそして1337年ゲミリクを征服しました。 ブルサを獲得した後すぐに行ったこと城壁の外に新しい中心地を作ったことです。それからオルハンモスク、隊商宿のエミルハン そして公共浴場のセンギュルハマムとイマーレトなどの複合施設を建設していき、商業の発達に貢献します。 ビザンツ帝国にマルテペの戦いで勝利し、アンカラとゲリボルでもかったため多くの君侯たちが彼の元へ集まってきました。 1345年にビザンツ帝国と協議の結果、 皇女テオドラ を妻に迎えることになります。え!とおどろくことでしょう?ビザンツ帝国は完全なる敵だと思っていましたが、実はオルハンベイの時代にはかの国からお嫁さんをもらっていたんですね。 彼はヨーロッパ側からコンスタンチノープルに徐々に迫っていきます。ゲリボルの次にはボアユゥル、 ハイラボル、 テキルダウを獲得しました。 1360年79歳で亡くなります。 ブルサのエリア修道院の一角を墓の形に整えそこに埋められました。 そのためか教会にによくあるモザイクタイルが今で墓に残っています。1855年の地震で崩壊しましたが、1863年アブドゥルアズィーズによって建て直されました。 ほかにお墓には配偶者の ニルフェル・ハートゥン 、息子のカスィム、娘のファティマ、ジェムスルタンの息子アブドゥッラー、バヤズィット2世の息子ムーサ・チェレビ、名前の不明の4つの棺があります。 撮影日2019年7月26日 お墓のある公園の入り口 オルハンベイ墓の説明文 入り口  向かって右側がベヤズィット2世の息子コルクト皇子の墓 左はオルハンベイの墓 オルハンベイの墓 オルハンベイの配偶者ニルフェルはハートゥンの墓 オスマン帝国君主10代まで オスマン  オルハン  ムラト1世 バヤズィト1世 メフメト1世 ムラト 2 世 メフメト2世 バヤズィト 2 世 セリム 1 世 スレイマン 1 世

クイズ ~オスマン帝国の首都~~

1、オスマン帝国外伝と新オスマン帝国外伝キョセムの舞台は主にイスタンブルです。当時そこの首都でした。それでは最初のオスマン帝国の首都はどこでしょう。 コンヤ エディルネ ブルサ 2、オスマン帝国では首都が3回変わっています。二番目の首都はどこでしょう? コンヤ エディリネ ブルサ 3、オスマン帝国の創始者は誰でしょう? エルトゥールル スレイマン・シャー オスマン 4.現在のトルコの首都はどこでしょう? イスタンブル アンカラ エディルネ 5、次の都市のうちアナトリア側にない都市はどこでしょう? コンヤ エディリネ ブルサ 答え 1ブルサ 2エディルネ 3オスマン 4アンカラ 5エディルネ オスマン帝国の首都はブルサ エディルネ イスタンブル吐変わりました。エディルネは今のトルコのヨーロッパ側の土地の中でも西に近いところに位置しています。 オスマン帝国は初め君侯国でドラマに出てくるのような壮麗な国ではなく、質素剛健をモットーにしていたので、生活はシンプルなものでした。 2代目オルハンが 1326年 ブルサを攻略し、その36年後に3代目のムラト1世が 1362年 エディルネを攻略しました。ブルサから直接イスタンブルを攻めず、先にイスタンブルよりもヨーロッパよりのエディルネを奪取します。(イスタンブルはビザンツ人たちにコンスタンチノープルと呼ばれ、エディルネはアドリアノープルと呼ばれていました。) それから徐々にイスタンブルへ攻めよっていきます。東ローマ帝国は海に浮かんだ孤島のようになってしまったのです。 そして90年後の1453年にイスタンブルをメフメト2世が攻略します。オスマン帝国の首都は126年の間に3回変わったことになります。

ムラト1世の墓

ムラト1世の墓はコソボとブルサにあります。 ムラト1世のコソボでのお墓 ムラト1世は1326年に生まれコソボで1389年に亡くなりました。 ムラト1世はオスマン帝国の門をヨーロッパに最初に開いたオスマン朝のスルタンです。コソボの戦いで戦争中に亡くなりました。内臓はコソボに埋められ、残りの遺体はブルサに運ばれました。 ムラト1世の墓を含めた複合施設はコソボの首都プリシュティナとミトロヴィツァをむすぶ道沿いのマズギト村にあります。バルカン半島で最古のオスマン帝国の建築物で14世紀にたてられました。バヤズィト1世がたてました。 墓は保全されてきました。 1660年エヴリやチェレビが墓を訪問したと知られています。彼は墓の掃除をするよう同行したメレキアフメトパシャにアドバイスします。多くの苗木も植えられます。 1848年に墓は基礎工事がされ、その後ブハラ出身のハジ・アリに、300クルシュの給与で墓を守る仕事が与えられ、現在も彼の子孫が墓守をしています。 1896年2階建ての建物も憩いの宿として作られました。 1906年アブドゥルハミドが皇位についたとき その建物のオープニングセレモニーが行われました。 なお1911年レシャド皇帝が訪問したときにも修復されています。 第二次世界大戦中占領軍によって墓にあったすべてのものが略奪されました。 戦後、ユーゴスラビア政府の管理下の元1969年に修復されました 2000年にはいっても修復し続けられたこの複合施設は、現在TİKAによって文化促進の建物として存在しています。2010年エルドアン首相によってそのオープニングセレモニーがひらかれました。 ここには400年以上も生き続けてきたと思われる木がありますが、これはムラト1世が埋められたときに植えられたと考えられています。 ブルサでのムラト1世のお墓 1365年から1366年にかけてムラト1世の命で建てられました。彼の複合施設はモスク マドラサす、お墓、ハマム、イマーレトでできています。マドラサとモスクが一緒の建物に作られているのが特徴。 1389年にバヤズィット1世が初めて修復をしてから現在まで何度も修復されてきています。 正方形のドームは8列から成るアーチでできています。 他にムーサチェレビ、ヤクップ・チェレビ、オルハン皇太子バヤズィト

 エミール・スルタン複合施設 (モスク、お墓、ハマム、)

エミール スルタン複合施設 エミール スルタン複合施設は修行場として作られたのが始まりだった。修行者の宿泊施設とモスクとイマーレトで構成されていたらしい。 後Emilスルタンの妻でバヤズィト1世の娘のフンディがモスクの形に整えた。公共浴場も追加した。 後に学校も作られた。 18世紀か19世紀ごろ図書館と水道が追加されたが、現在みられるのはモスクとはハマムと水道だけである。 エミールスルタンの墓 エミールスルタン複合施設の中庭の、モスクの向かい側にお墓がある。アーチ形の窓と照明が素晴らしい。 3代のスルタの時代を生き抜いたエミールスルタンは非常にみんなから尊敬されており、現在の墓は当時の者とはだいぶ違っているが、精神性を重視した人々が今でも数多く訪れる。 他に妻フンディ ハートゥンと息子のエミール・アリと二人の娘の棺がある。 Emilスルタンモスク ブルサで最も大きなクッベのあるモスク。2つのミナーレがある。イズニク製のタイルで飾られたのタイルと大理石が美しい。 ハマム 4角形のハマムは冷水温水そして熱水の出る部分に分かれていた。 エミール・スルタンとは? ほんとの名はシャムセッディーン・ムハンマド。バヤズィットの娘と結婚した後、エミールスルタンと呼ばれるようになった。1368年に生まれた。 17歳ごろ 父親が亡くなる。陶器づくりで生計を立てていた。 後に巡礼のためメッカに行くためブハラを離れた。 数年メディナに滞在したのち、バグダッドへ行く。そこで知り合ったアシュク・チェレヴィとアナトリアへ向かった。 カラマン、 ニーデ、ハミード、クタフヤ、イネギョル(長細い、ハンバーグで有名)そしてブルサへと旅する。 1391年に訪れたブルサでは最初洞窟に住んでいた。その場所は今彼のお墓のあると事だったと言われている。短期間に彼はブルサの人々に慕われ有名になる。民衆だけでなく高官も彼を訪れるようになった。 統治者も彼に一目置く。 彼はティームールの使者を殺さないようにと当時の統治者に忠告する。 アンカラの戦いのときティムール軍にブルサが占領されたとき彼はティムールの元へ連れて行かれる。その後ティムールは彼を解放したので、またブルサへ戻った。 バヤズィットの娘フンディ ファティマ スルタンと結婚した。 オスマン帝国

電撃王(バヤズィット1世) 複合施設 (Yıldırım Külliyesi)

電撃王(バヤズィト1世) 複合施設 電撃王バヤズィットと彼の息子スレイマン チェレビによって作られた。 オスマン人たちの手によっ建てられた初めての複合施設として有名。これをもって君侯国だったオスマン朝は国という形になったと言われている。 ユルドゥルム地区の丘の上にある。 モスク マドラサ イマーレト ハマム 病院(初めての)が先に作られた。のちにスレイマン チェレビによってバヤズィト1世の墓が作られた。これらは現在でも見ることができる。 モスク 切り石で建てられている。 真ん中に中庭がありその両側にエイヴァン(中庭に続く屋根のあるおおわれた場所)がある。エイヴァンの来たと南にタブハーネがある。 オスマン建築で初のブルサアーチと言うアーチを使った。 ミナーレは北東と北西にあったが破壊され現在の西側のミナーレは後で作られたもの 。 マドラサ ジャーミの80m離れた平地に作られた。 真ん中に庭があり正面が閉じてあるオスマン朝初めてのマドラサである。このマドラサでは著名な先生たち教鞭をとったが、その中の一人にヒュッレムと仲の良かったエブーエスードエフェンディ(このブログのあらすじではカーディーとかれのことを表している)がいる。 マドラサが閉鎖後、建物は放置されたままだった。1948年 厚生省によって修復され調剤所になっている。 ダールッシファー オスマン帝国建築で初の病院。3人の医師 薬剤師 パン職人 飲み物を作る人、料理人が働いていた。一時は武器庫としても使われたが廃墟となる。1990年修復され現在ギョズ病院(Göz Hastanesi)として使われている。 ハマム   冷所、温所、熱所とに分けられ現在も使われている。 バヤズィト1世のお墓 Osman建築で初めて柱廊のある墓として有名。 ティームールに捕虜になアクシェヒルで亡くなった彼の遺体は息子 エミールスレイマンチェレビの作ったこの墓に運ばれた。彼のほかに、息子チェレビの棺もある。 オスマン帝国君主10代まで オスマン オルハン ムラト1世  バヤズィト1世  メフメト1世 ムラト 2 世 メフメト2世 バヤズィト 2 世 セリム 1 世 スレイマン 1 世
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