ある友人との出会いなおし ー「出会いなおし」(作 森絵都)読んでー
図書館から借りた8冊の本を返しに行こうとしたが、なぜかこの「出会いなおし」の本だけもう一度読みなおした。
イラストレーターの主人公が仕事で知り合った編集者のナリキヨさんとの何回かの出会いの様子について書かれてある。
本の最後に
「年を重ねるということは、同じ相手に、何回も出会いなおすということだ。会うたびに知らない顔を見せ、人は立体的になる。・・・ナリキヨさんの後ろ姿を見送りながら、私は泣きたいくらいに強く、面白い、面白いと思い続けた。」
とある。
私たちの日常でも、同じ人に何度か会う経験はする。
実は最初にこの本を読んだときはあまり印象に残らなかった。もう一度読んで、図書館に返すまでに一週間の時が流れた。
その間に偶然にも、私は4人の人との出会いなおしがあったのだ。
私はめったに人に会わないし、親族を除けば、連絡を取り合う友人は数人だ。
にもかかわらず、短期間に4回も出会いなおしを考えることになるとは、、、
どうやらこの本が偶然私の手の中にあるとは思えなくなり、2度目はとくに丁寧に読んだ。
私はかなり作者に共感し、
「年を重ねることは面白い!」と私も思った。
私の出会いなおしは友人。
彼女とは高校1年の時知り合った。部活が同じだったのだ。3年生になって引退するまでのほぼ2年半を毎日朝から晩まで一緒に過ごしていた。
私たちの部活はかなり厳しく、二人にとって高校時代は部活一色だった。
ボール拾いやコート整備、普通の練習時間だけでなく朝練も一緒だった。
土日の1日中練習の時は、お昼ご飯も一緒だった。そして夜遅くなった時や、明日試合を控えて朝時間的に余裕がないときは家に泊めてもらった。彼女の家は高校からバスで15分ぐらいの場所にあり、乗り換えなしに高校にも駅にも行くことができた。
彼女のお母さまは、苦労人。とてもやさしい方だったけど、しっかりしていて、江戸っ子ではないけれど、粋で気風の良い感じの印象を受けた。
試合の日の朝は、おにぎりの弁当を作ってくれた。私たちの部では土日や試合の日の弁当は顧問の先生の分を交代で持っていくという決まりがあり、私が当番に当たった時は、なんと3人前も作ってくれたんだ。
たいへんだったと思うけれど、まったくそんなことはおくびにも出さなかった。
友人は母親になのか、優しいけど、芯のあるひとで、今までいつでも私によくしてくれた。
高校卒業後、私たちはたまにしか会うことができなかったけれど、彼女の優しさ、包容力の深さに触れるたびに、「ああ人間も捨てたもんじゃないな」と思ったりもしたのだった。
長く生きているとわかることだけど、
「ああこの人は何があっても私を信じてくれている。私が間違ったことををしてもかならず許してくれる」
っていう確信を持てる人に出会えるチャンスはごくわずかだと思う。
私は彼女が好きだし、もちろん信じ許してくれるという確信が持てなかったとしても、やっぱり彼女を好きだったと思う。
ただ理由もなく好きなのだ。
でも、好きな人が信じられたらこんな素晴らしいことはない。それはトルコ語でいうところの「スブハーナッラー」ていう感覚に合致する。
ところで
少女だった彼女が社会人になり、あどけなさは残るけれど次第に女性らしくなっていくのを見て、私は少し戸惑ったこともある。
なかなか私が大人になれなかったからだと思う。
大人の女性!
これは私には縁遠い言葉だ。私は天然で、周りへの気遣いがみんなと同じようにできない。昔は少し努力したこともあったが、今ではみんなと同じようにしようとは思わない。
そんな私に彼女は愛想をつかすことなく、彼女は以前にもまして仲良くしてくれる。(感謝!)
ところが、ちょうど出会いなおしを読んだ直後に、
その彼女から中学時代のとっても良い思い出について話を聞いたのだ。
それはポジティブになれるとってもいいお話だった。かなり感動したけど、同時にすごく驚いたのも事実だ。
彼女に会う以前の彼女、つまり高校以前の彼女について私はほんとに知らないことに驚いたのだ。
(なんか彼女のことを私はよく知ってるみたいに感じてたみたいだけれど、それは大きな勘違いだった。)
彼女は数十年たった今でも、こうして時々私に、見たこともない知らない顔を見せてくれるのだ。
面白い!ほんとに面白い!
この時出会いなおしの作者と全く同じように私も感じた。
彼女は年を重ねるごとにますます立体的になって素敵な人になっていくことだろう。
あと何度彼女と出会いなおしの機会があるかわからないけれど、ますます立体的な彼女をみるのはきっと楽しいことだろう。
彼女の幸せと健康を心から祈る・・・