スレイマン大帝の治世1 オスマン帝国外伝2の1話から4話の時代
スレイマン大帝 スレイマン1世 カーヌーニースレイマン
1520年 当時マニサの知事だったスレイマンは26歳で即位する。まずシリアでガザーリの反乱を1521年2月に鎮圧した。それから「赤いリンゴの国」をめざして13回の親征を開始する。
1回 1521年 ヨーロッパンの玄関のベオグラードへ
ベオグラードを手に入れ喜びのうちに帰還したスレイマン大帝には悲しいニュースが待っていた。それは二人の息子ムラトとマフムトの訃報だった。
2回 1522年 ロードス島は海路航路の重要地点であった。スレイマン大帝は曽祖父のメフメト2世が得ることのできなかったロドス島へ向かう。彼にとってロドス攻略を必須だった。そこに海賊活動をしていた聖ヨハネ騎士団がいた、かなり手ごわく、苦戦した。
1522年6月4日海軍が出発。6月18日、スレイマン大帝はウスキュダルから陸路で出発した戦争中にヒュッレムの息子メフメットが生まれたことを知る。
ロドス島にはジェム伯父の息子がいた。彼の命を奪い、彼の娘たちと妻はイスタンブルに送られた。
激戦後ロドスの長は島を明け渡すことを受け入れ、マルタ島へわたった。
12月29日スレイマン大帝はとうとう念願のロドス島に入った。
1523年1月2日島を去った。
イスタンブルに戻るときも狩りをしたり、ラクダのレスリングを見物したりして過ごした。
帰還後、小姓頭(ハス オダ バシュ)のイブラヒムパシャが大宰相となる。エジプト総督に就任したばかりのアフメット・パシャがそれに不満で、反乱を起こす。エジプトの税収はかなり多く、エジプトの安定的な統治は重要課題だった。
3回 1526年 ハンガリーへ西進し、ハンガリー大平原にあるモハーチで戦い、ハンガリー軍の勝利する。
つづく