今なぜか4冊の本が手元にある。最初の3冊にはカリフ制についてかなり触れている。
興味の持った部分とちょこっとした感想を書いてみようと思う。
対話形式で、キリスト教とイスラームをで対比させているのでわかりやすい。
たとえば
カリフとローマ教皇
キリスト教で使途の後継者はローマ教皇。
イスラームでは神の使徒ムハンマドの後継者がカリフ。
聖書とハディース
キリスト教の聖書はイスラームでは(預言者の言行録である)ハディース。
イエスとクルアーン
キリスト教の神の位格の1つ、神の御言(ロゴス)であるイエスはイスラームでは神の本質と一体である御言(カラーム)であるクルアーン
だそうで、クルアーンについては
p69から「天の書板」にくわしく説明がある。
神は空間の中にいないし、時間や場所に規定されないが「書物の母」は実在している被造物。クルアーンの書かれている文字は被造物。その内容がクルアーン。
これは神の属性。(神の属性は創造されたものではない。)なのでクルアーンの内容は創造されたものではないそうだ。
なあるほど、そう捉えると、クルアーンは物理的な本の形をしながら、神の属性を表しているということがよくわかる。
カリフ制についても触れていた。
「カリフは一人で国境がないというのが本質ですから、・・・一国イスラーム主義はあり得ない・・・」
イスラーム帝国の始まりの30年にはムスリムの人口は半分以下だったようで、
「イスラーム教徒だけの共同体ではもともとなかった。そういう緩い共同体だったのです。・・・つまりイスラーム教徒でなくても『あっ、この世界は緩い世界で、国境がなくて自由に動ける世界であり、内心のことには他人が干渉してこない世界である、いいな』と思う世界」が中田氏の言う再考すべきカリフ制の姿だそうで、「普遍主義でありながらも、地方的、民族的固有性をできるだけ維持する」姿勢を持つものらしい。
彼の再興したいカリフ制は、以前読んだ
『オスマン帝国 イスラム世界の「柔らかい専制」 』鈴木薫著 (講談社現代新書) 新書 – 1992/4/16
に出てくるオスマン帝国と通じる何かがあるように感じた。
この本で一番びっくりしたところは、人間の捉え方についてだ。西欧では人間を理性的存在ととらえるのに対してイスラームでは倫理的な存在として捉えるらしい。
霊と意識をもっている点はみな創造物すべて同じだが、人間だけは悪を犯すことが可能な存在であるという。つまり自由意志を持つ人間は責任の有無を問われる。
本では自由意志について
無数の分岐点があって、分岐点ごとに選択がおこなわれる。
つまり、無数の世界があり、それら全ては独立して存在する。
その中の1つの世界にだけ“意識のある倫理的主体である人間”が存在している。
その世界がいま私の知覚できるこの世界だという。
と説明されている。
自由意志について昔から何度か考えてきたのだが、最終的にはハサン先生の捉え方に近いところで考えるのを放置した感じだ。
”意識のある人間”の部分はわかる。
それで、”倫理的主体である”の部分は審判の日とかかわることらしいが、よくわからない。私はその部分がなくても自由意志は説明できるんじゃないだろうかと安易に考えている。
この本ではみんながよく間違ってとらえがちなジハードのほんとの意味やイスラーム法をわかりやすく説明している。
さらに神と死について考えることで、生をより鮮明に描き出している。
そして最後に真のカリフ制の姿にも触れている。
イスラームでは政教分離はあり得えないので、現代のようなネーションステートの枠組みでのカリフ制もあり得ない。
カリフ制がないことが間違いで、再興する義務があるらしい。
最高権威者がカリフ、そのカリフのもとで国境のない自由に人々が行き来できるグローバルに連帯した世界(ダールルイスラーム)を著者は求めている。
彼の言う真のカリフ制は大体こんな感じ。
カリフ制の本質は”自然法による支配”であり”人による支配の否定”そうで、それについて日本人の私が陥ってしまいそうな勘違いをよく説明してくれてる。
その世界は自由に出入りできる生活圏のようなものを想像するといいかもしれない。
そこでは当然自然法が認める限りにおいて人権を認めている。
それは人ではなく法に従うという立場をとる。(カリフは物理的には人なので一人の人による支配と受け取られがちだが、逆で独裁制ではいけない。権力乱立制御装置)
歴史をちょこっと見てみると、著者が説明しているカリフ制はごくごく短い間だけこの世に存在しただけだし、カリフが世襲制になった時点で、その後のカリフは本来のカリフとは質的に違ってしまったのではないかと私は思う。
一歩引いて歴史的に存在していたカリフをカリフと認めたとして、
例えばローマ教皇や日本の天皇(南北朝時代に乱立したときを除いて)のように、ある世界でのトップが今まで存続している例があるのに、なぜこれほど重要なカリフをイスラムの人々は守れなかったのだろうか?
この世に短期間しか存在しなかった正当なカリフ制をもう一度つくるのは難しい。
現代のイスラームの人々を1つに結束させるはさらに難しい。
なので、カリフ制を再興させるというのはほぼ不可能に近いのではないだろうか。
こちらもジハードの意味が書かれている。
戦争の捉え方、ナショナリズムや法人の問題を対話形式で説明している。
キリスト教徒が戦争に勝てた理由、それによってもたらせれた西欧的システムが正しいかどうかも話し合っている。
で、一番大事なのは核の脅威にさらされている今、人々がどのように生きぬけるのかを真剣に論じあっている。
みんな(自己と他者)が悪夢にの中にいる今、悪夢に耐え、飲み込まれず、悪夢から目覚めるためにすべきことのヒントが記されている。
とはいえ、かなり難しいことを提案していると思う。
なぜって、
「悪夢に飲み込まれないために最も重要なことは、他者との共生の予定調和を夢見ず他者の悪夢と自己の悪夢にどれだけ知力の限りを尽くして誠実に向き合おうとも、悪夢が現実化する可能性をゼロにすることはできない、という冷徹な認識を貫くことである。」
だそうだから・・・
最後の1冊は、
1項目は短めだけれど、わかりやすくかつ情報が豊富。項目は99あり、この99という数字は意味がある。
トルコのエルバカン、エルドアンや私の大好きなムハンマドアリーやジェラールッディーン・ルーミーについても触れている。
ややこしく見える現代のイスラーム世界の動きを、均衡を保った形で伝えているので、先入観に惑わされることなく楽しく読める。
コラムにある大川周明氏は「マホメットの信仰にひかれた」そうで、
大川氏は1942年ごろ「現在の如き国際政局の下に於いて、一人のカリーファの下に全回教徒を統一する政治組織が実現される可能性はほとんどない。それにも関わらずこのことは、一個の理想として今なお多くの回教徒の崩壊するところであり、今後も長く然るでであろう」(p232)
とある。
この文からもカリフ制の再興はかなり難しいことがわかる。
とはいえ、カリフ制が人間に課された義務である限り、そしてその義務を遂行しようとするものが一人でもいれば、大きな力が働いて、いつかそれは成し遂げられるのかもしれないとも思う。