投稿

ラベル(オスマン帝国初の首都ブルサ)が付いた投稿を表示しています

ムラディイェ複合施設の中にあるお墓9~10

9 アフメト皇子の墓( Şehzade Ahmet türbesi) スレイマン大帝の父・セリム2世によって1513年に建てられました。セリム2世が即位した翌年です。 バヤズィット2世はシェヘンシャー皇子  ( Şehzade Şehenşah )を後継ぎにと考えていましたが、お父さんより先に亡くなりました。シェヘンシャー皇子とその母ビュルビュル・ハートゥンとシェヘンシャーの息子アフメトが埋められています。 さらにセリム2世が皇位についたときシェヘンシャーと同じ母を持つ弟のアフメト皇子も埋められました。コルクト皇子の棺もそのとなりにあります。この廟にはスレイマン大帝のおじさんたちにあたる方々にゆかりのあるお墓が多くあります。 10  ミュクリメ・ハートゥン(Mükrime Hatun) の墓 シェヘンシャー皇子の配偶者 でメフメト・チェレビのお母さんのお墓です。1517年に亡くなりましたが皇子とは別々に埋葬されました。不思議に思って調べてみましたがわかりませんでしたミュクリメハートゥンと言うとメフメト2世の妻(正式に皇帝と結婚した数少ない女性)のスィッティシャー・ハートゥン検索にヒットしてしまいます。勘違いしてしまいそうですが、その方ではありません。彼女のお墓はエディルネにあります。) オスマン帝国君主10代まで オスマン オルハン ムラト1世  バヤズィト1世  メフメト1世 ムラト 2 世 メフメト2世 バヤズィト 2 世 セリム 1 世 スレイマン 1 世

ムラディイェ複合施設の中にあるお墓6~8バヤズィット2世に関係する人々

6マフムト皇子の墓  Şehzade Mahmut türbesi 1506年になくなったバヤズィット2世の息子・マフムトのためにその母がミーマルヤークプシャーとアリアーに建立させた墓です。 1512年セリム2世が皇位についたとき絞殺されたマフムト皇子の息子のオルハンとムーサーの墓もあります。その後母のビュルビュル・ハートゥンも埋められました。タイルはムラディイェ複合施設の中で最も素晴らしいものです。 7ギュルルフハートゥンの墓   Gülruh Hatun 'un türbesi バヤズィット2世の配偶者の墓。一緒に彼女の娘カメルハートゥン吐その息子オスマンの棺もああります。 8バヤズィット2世の配偶者 シリン ハートゥンの墓 Şirin Hatun ’un türbesi 15世の末期に作られました。彼女のお父さんはアブドゥッラーだった。息子アブドゥッラーの死後ブルサに移ったらしいです。ブルサでジャーミを作らせました。隣には娘アインシャースルタンの棺もあります。息子アブドゥッラーも一緒です。 オスマン帝国君主10代まで オスマン オルハン ムラト1世 バヤズィト1世 メフメト1世 ムラト 2 世 メフメト2世  バヤズィト 2 世  セリム 1 世 スレイマン 1 世

ムラディイェ複合施設(Muradiye Külliyesi)の中にあるジェム皇子の墓 5

4ジェムスルタンの墓 Cem Sultan  türbesi ムラディイェ複合施設の墓の中でいちばん装飾が豊かなのは ジェムスルタンの墓 です。 高さは2.35mのターコイズとダークブルーの6角形のタイルの壁でおおわれています。これは1479年兄ムスタファのために父メフメト2世が作らせたものですが、ムスタファ兄の隣に彼は埋められたのです。彼が埋められた後はジェムスルタンの墓として広く人々に知られるようになりました。 他にもバヤズィットの息子たちアブドゥッラーとアレムシャーが眠っています。 ジェム皇太子は運命に翻弄され、最後にこの墓にたどり着きました。オスマン帝国外伝でスレイマン大帝たちがシーズン2でロドス島を征服したとき、ジェム皇子の短剣でイブラヒムが刺されたことがありましたが、その短剣はジェム皇子の息子がもっていたものでした。ドラマでもロドス島に一人ジェム皇太子の息子がいましたが、その方はスレイマンに捕らえられ息子たちと共に処刑されてしまいました。 ジェム皇子はスレイマンのおじいさんの弟にあたります。メフメト2世の息子さんです。1459年12月にエディルネで生まれ、良い教育を受け数か国語を話し、10歳でカスタモヌ・サンジャクの知事になり、1472年スンネットの儀式をイスタンブルで行いました。 1473年メフメト2世が東方遠征に出かけた際、エディルネで留守居役を命じられましたが、その時メフメト2世から40日間れんらくがとだえたため、彼の周りの者たちは彼を皇帝にしました。 その後都に戻ったメフメト2世はジェムを処罰することも考えたようですが、彼の側近を罰しただけで事なきを得ます。それから2年後、コンヤのサンジャクに赴任先が変わりました。これはメフメト2世が彼を許したことを意味します。 それから8年後の1481年5月3日にメフメト2世がなくなると、兄のバヤズィットが先にイスタンブルにつき、皇位を継承しました。 彼は兄からの攻撃に備えコンヤの周りで兵を集めブルサに向かいました。 5月28日、4000人の兵と共に兄の軍と戦って、勝利したジェムは、ブルサで皇帝になったと宣言します。貨幣も作らせましたが、彼の天下は長くは続きませんでした。 6月20日イェニシェヒル平原での戦いで負けたジェムはコンヤに戻ります。 そこからアダナ 

ムラディイェ複合施設の中にある3人の女性の墓2~4

今日はムラディイェ複合施設の中にある3人の女性の墓を紹介します。みんなファーティフメフメト2世に関係している人々です。 2 ギュルバハル(エベ) ハートゥンの墓 Ebe (Gülbahar) Hatun Türbesi メフメット2世の幼少のころ世話をしてくれた方の墓と考えられています。そのほかのことは名がギュルバハル ハートゥンということぐらいしかの詳しいことはわかっていません。1420年代ごろに作られたようです。とてもつつましやかな感じの良い墓です。 3 ハートニイェの墓 Hatuniye türbesi  メフメト2世の母親ヒューマ・ハートゥンの墓です1499年に作られました。そばにもうひとつある墓は誰のか不明です。 彼女についても詳しい情報はありませんが49歳で亡くなりました。ファーティフ・メフメト2世が書かせた記述の中に亡くなった年が1449年と記されてありました。あとはある裁判の記録に彼女の名前がヒューマと書かれでていました。 父親の名前は明らかではありません。ですが、ある記録にアブドッラーの娘である女性(Hatun binti Abdullah)と書かれてあるので、父親は改宗ムスリムであることがわかります。(昔の書き方でアブドッラーの娘と書かれた場合、唯一の神のしもべの娘という意味になり、改宗した名前のわからない人をさします。) ある諸説では彼女はフランス人またはフランス系のユダヤ人で、エステス・ステラという言われています。 4 ギュルシャー・ハートゥンの墓 Gülşah Hatun türbesi メフメト2世の4番目の配偶者で、1480年に作られました。 カラマンオウルラルの君侯イブラヒムベイの娘と言われています。または女奴隷だったという説もあります。 カラマン・サンジャクベイのムスタファの母親にあたります。1466年から1474年の間、息子と共に赴任先へに赴き、コンヤとカラマンの地域で生活しました。 1466年息子さんがなくなるとブルサへ行きました。ブルサでは1487年まで約13年住みました。 オスマン帝国君主10代まで オスマン オルハン ムラト1世 バヤズィト1世 メフメト1世 ムラト 2 世  メフメト2世  バヤズィト 2 世 セリム 1 世 スレイマン 1 世

ムラディイエ キュッリイェスィのムラディイェ・モスクとムラト2世の墓

キュッリイェ(複合施設)の中心は ムラディイェ・モスク です。 空高くそびえるミナーレは2本です。 入り口の天井には幾何学的な星模様がありとても素晴らしいです。 16人の部屋のあるマドラサはそのモスクの西にあり、モスクの北東にはイマーレトがあります。 ハマムはシンプルな構造で何度か修復され倉庫として使われていた時期もあります。 最近では障害者ためのセンターになっています。 1、ムラト2世の廟 II. Murad Türbesi 先日お話した12の廟の中で一番大きいのは ムラト2世の廟 です。 1451年彼はエディルネでなくなりました。ムラト2世が長男アラウッディーンのお墓のそばに埋めてほしいと願ったので、そこから息子の墓のあるブルサまで運ばれたのです。棺に入れることなく直接、土に埋められました。これは彼の遺言だったそうです。 墓の上に雨が降るようにとの要望で天井は作りませんでした。 この廟を立てたのはムラト2世の息子メフメト2世です。ムラト2世の死から2年後のことです。 息子アラウッディーン皇子のほか娘ファトマ皇女とハティジェ皇女の墓がムラト2世の墓を通り過ぎた先のシンプルな造りの部屋の中にあります。  ムラト2世は自然を好まれたのですね。亡くなった後も土にかえるように、そして雨も感じたかったのでしょう。土と骨と雨は相性がよさそうですね。 明日は12廟のうち、3人の女性のお墓を紹介します。 今日のメモ 今、日本は梅雨まっただなか。トルコ語で雨はヤウムル yağmur。 雨のおかげで、 鉢に植えたミニトマトが赤くなり始めました。パセリもなんとか育っています。トルコ風サラダにはトマトとパセリはなくてはならない野菜なので、これからはたくさんチョバンサラタス(トルコ風サラダの一つ)を楽しめます^^ オスマン帝国君主10代まで オスマン オルハン ムラト1世 バヤズィト1世 メフメト1世  ムラト 2 世  メフメト2世 バヤズィト 2 世 セリム 1 世 スレイマン 1 世

ムラディイェ複合施設Muradiye Külliyesiってなんだろう?

ムラディイェ複合施設Muradiye Külliyesiってなんだろう? その前に 複合施設 っていうことばをきいたことがありますか? オスマン帝国外伝のドラマでも時々出てきますね。私たちの観たオスマン帝国外伝のドラマに出てくるスルタンたちや皇族たちやパシャたちは私費で公共設備を作らせることが多いです。 たとえば水道とこモスクとか学校(マドラサ)とかハマムとかイマーレト(オスマン帝国時代に困窮者への食べ物、着物、健康を援助する目的で作られた援助機構)などですが、当時のお金持ちの人々は全部またはその一部を作るための寄付を好んでしました。 ヒュッレムもモスクやマドラサをイスタンブルに作りたいと言ってみんなをおどかせましたね。ヒュッレムはただの寄付ではなく、イスタンブルでそれを行いたいといったのでした。それでみんなが驚いたわけです。(それまで女性がイスタンブルで公共施設を作る前例がなかったからだとオスマン帝国外伝のシーズン2でドラマではいってました。) スレイマン大帝も晩年スレイマニイェ複合施設を建設しています。彼やヒュッレムのお墓もその施設の一角にあります。母后ハフサ・スルタンやマヒデブランもモスクを作りました。マヒデブランは裕福ではなかったけれども、息子ムスタファのためにちいさいながらも雰囲気の良い施設を建設しました。イブラヒムも多くの施設や寄付をいたるところでしたとカーディー(のちのイスラム長老)に話すシーンがとシーズン3にあります。 そうそうシーズン3から出てくるヒュッレムに忠誠を尽くす悪役的?なルステムもヒュッレムとの神の前での誓います。(ヒュッレムは自分の死がちかづくとルステムに息子バヤズィットを守るように聖典にかけて誓わせます。ですが、ルステムはバヤズィットの状況が不利になるとそのヒュッレムとの約束をやぶりました) そこでドラマによるとルステムは苦しみ、ホジャに尋ねます。そのホジャは悔悟し、ハユル(慈善)をすればバヤズィットを助けるという役を苦を破った償いができると言われ、公共施設を作らせたり、多額の寄付をしました。イブラヒムも多くの寄付をして民衆のための公共施設を作りました。 ということで前置きが長くなりましたが、これらの慈善事業(ハユル イシ)の一環として作られたいろいろな公共施設が一つの場所にまとまったものをKülliyeキュッ

今秋 ブラック・オズチヴィット(マルコチョール役)がオスマンガーズィを演じる!オスマンって誰?

オスマン帝国外伝 シーズン2とシーズン3の後半でマルコチョール役を熱演したブラックオズチヴィットさんはこの秋10月か11月から始まるDiriliş Osman(ディリリシュ オスマン)と言うドラマで主役のオスマン ベイを演じます。ところでオスマンって誰なんでしょうか? 彼は実はオスマン帝国外伝のスレイマンの先祖です。(今あらすじをお送りしている続オスマン帝国外伝 キョセム)に出ているアフメト皇帝の祖先でもあります。 オスマンベイは今どこにいるかというと、それイスタンブルからバスで3時間ぐらいのところにあるブルサと言うまちにいます。オスマン帝国は実はブルサとは関係のとても深い地域なんです。オスマン家が帝国になる前の一番苦しかった時代の歴史がブルサにはいっぱい詰まっています。オスマンベイのお墓はブルサにあるんです。 オスマンベイその息子のオルハンベイはほんとにすごい方々で、たとえば皆さんはオスマンベイもドラマに出てくるような壮麗で豪華な生活を送ったとのではと思われるのではないでしょうか?ところがオスマンベイは多くの戦いで勝利し、最後にはブルサ包囲戦の途中に逝去されました。が、その時彼が持っていたものは 乗馬のための服(sırtlak tekelesi)  馬の横にぶら下がっている袋(yancığı ) 塩入れの中の塩、 スプーン入れとスプーン、ブーツ、 数頭の馬、 荷物を引っ張るための 二頭組牡牛が数セット(çift öküzü ) そして数頭の羊 しか残っていませんでした。 彼はこれしか持たずに目の前にブルサを見つめながらこの世を去りました。ブルサ包囲しているときに亡くなったのです。ではなぜオスマン・ガーズィーのお墓がブルサにあるかというと、彼の次男のオルハン・ガーズィーが父の夢を果たし彼をその地に埋めたのでした。 というわけでこれからオスマン・ガーズィーの夢であるl他ブルサとそこにあるお墓についてお知らせしていきたいと思います。お楽しみに! もちろんイスタンブルに都が移っても、ブルサは歴史の舞台にしばしば現れます。例えばオスマン帝国外伝に出てくるスレイマン大帝の息子ムスタファとその母マヒデブランにもゆかりの深い地になっています。 ブルサには私たちになじみの深いマヒデブランとその息子・ムスタファ皇子のお墓もあるんです。 マヒデブラン
にほんブログ村 テレビブログ 海外ドラマへにほんブログ村 芸能ブログ 海外芸能人・タレントへ

プロフィール

プロフィール

プロフィール画像
それはオスマン帝国外伝から始まった
Twitter
YouTube
当ブログにお越し下さりありがとうございます。ドラマのあらすじや登場人物のお話のブログです。どうぞお楽しみくださいませ。 ご連絡はEmailでお願いいたします。 Email