投稿

ラベル(オスマン帝国初の首都ブルサ)が付いた投稿を表示しています

ムラト1世の墓

ムラト1世の墓はコソボとブルサにあります。 ムラト1世のコソボでのお墓 ムラト1世は1326年に生まれコソボで1389年に亡くなりました。 ムラト1世はオスマン帝国の門をヨーロッパに最初に開いたオスマン朝のスルタンです。コソボの戦いで戦争中に亡くなりました。内臓はコソボに埋められ、残りの遺体はブルサに運ばれました。 ムラト1世の墓を含めた複合施設はコソボの首都プリシュティナとミトロヴィツァをむすぶ道沿いのマズギト村にあります。バルカン半島で最古のオスマン帝国の建築物で14世紀にたてられました。バヤズィト1世がたてました。 墓は保全されてきました。 1660年エヴリやチェレビが墓を訪問したと知られています。彼は墓の掃除をするよう同行したメレキアフメトパシャにアドバイスします。多くの苗木も植えられます。 1848年に墓は基礎工事がされ、その後ブハラ出身のハジ・アリに、300クルシュの給与で墓を守る仕事が与えられ、現在も彼の子孫が墓守をしています。 1896年2階建ての建物も憩いの宿として作られました。 1906年アブドゥルハミドが皇位についたとき その建物のオープニングセレモニーが行われました。 なお1911年レシャド皇帝が訪問したときにも修復されています。 第二次世界大戦中占領軍によって墓にあったすべてのものが略奪されました。 戦後、ユーゴスラビア政府の管理下の元1969年に修復されました 2000年にはいっても修復し続けられたこの複合施設は、現在TİKAによって文化促進の建物として存在しています。2010年エルドアン首相によってそのオープニングセレモニーがひらかれました。 ここには400年以上も生き続けてきたと思われる木がありますが、これはムラト1世が埋められたときに植えられたと考えられています。 ブルサでのムラト1世のお墓 1365年から1366年にかけてムラト1世の命で建てられました。彼の複合施設はモスク マドラサす、お墓、ハマム、イマーレトでできています。マドラサとモスクが一緒の建物に作られているのが特徴。 1389年にバヤズィット1世が初めて修復をしてから現在まで何度も修復されてきています。 正方形のドームは8列から成るアーチでできています。 他にムーサチェレビ、ヤクップ・チェレビ、オルハン皇太子バヤズィト

 エミール・スルタン複合施設 (モスク、お墓、ハマム、)

エミール スルタン複合施設 エミール スルタン複合施設は修行場として作られたのが始まりだった。修行者の宿泊施設とモスクとイマーレトで構成されていたらしい。 後Emilスルタンの妻でバヤズィト1世の娘のフンディがモスクの形に整えた。公共浴場も追加した。 後に学校も作られた。 18世紀か19世紀ごろ図書館と水道が追加されたが、現在みられるのはモスクとはハマムと水道だけである。 エミールスルタンの墓 エミールスルタン複合施設の中庭の、モスクの向かい側にお墓がある。アーチ形の窓と照明が素晴らしい。 3代のスルタの時代を生き抜いたエミールスルタンは非常にみんなから尊敬されており、現在の墓は当時の者とはだいぶ違っているが、精神性を重視した人々が今でも数多く訪れる。 他に妻フンディ ハートゥンと息子のエミール・アリと二人の娘の棺がある。 Emilスルタンモスク ブルサで最も大きなクッベのあるモスク。2つのミナーレがある。イズニク製のタイルで飾られたのタイルと大理石が美しい。 ハマム 4角形のハマムは冷水温水そして熱水の出る部分に分かれていた。 エミール・スルタンとは? ほんとの名はシャムセッディーン・ムハンマド。バヤズィットの娘と結婚した後、エミールスルタンと呼ばれるようになった。1368年に生まれた。 17歳ごろ 父親が亡くなる。陶器づくりで生計を立てていた。 後に巡礼のためメッカに行くためブハラを離れた。 数年メディナに滞在したのち、バグダッドへ行く。そこで知り合ったアシュク・チェレヴィとアナトリアへ向かった。 カラマン、 ニーデ、ハミード、クタフヤ、イネギョル(長細い、ハンバーグで有名)そしてブルサへと旅する。 1391年に訪れたブルサでは最初洞窟に住んでいた。その場所は今彼のお墓のあると事だったと言われている。短期間に彼はブルサの人々に慕われ有名になる。民衆だけでなく高官も彼を訪れるようになった。 統治者も彼に一目置く。 彼はティームールの使者を殺さないようにと当時の統治者に忠告する。 アンカラの戦いのときティムール軍にブルサが占領されたとき彼はティムールの元へ連れて行かれる。その後ティムールは彼を解放したので、またブルサへ戻った。 バヤズィットの娘フンディ ファティマ スルタンと結婚した。 オスマン帝国

電撃王(バヤズィット1世) 複合施設 (Yıldırım Külliyesi)

電撃王(バヤズィト1世) 複合施設 電撃王バヤズィットと彼の息子スレイマン チェレビによって作られた。 オスマン人たちの手によっ建てられた初めての複合施設として有名。これをもって君侯国だったオスマン朝は国という形になったと言われている。 ユルドゥルム地区の丘の上にある。 モスク マドラサ イマーレト ハマム 病院(初めての)が先に作られた。のちにスレイマン チェレビによってバヤズィト1世の墓が作られた。これらは現在でも見ることができる。 モスク 切り石で建てられている。 真ん中に中庭がありその両側にエイヴァン(中庭に続く屋根のあるおおわれた場所)がある。エイヴァンの来たと南にタブハーネがある。 オスマン建築で初のブルサアーチと言うアーチを使った。 ミナーレは北東と北西にあったが破壊され現在の西側のミナーレは後で作られたもの 。 マドラサ ジャーミの80m離れた平地に作られた。 真ん中に庭があり正面が閉じてあるオスマン朝初めてのマドラサである。このマドラサでは著名な先生たち教鞭をとったが、その中の一人にヒュッレムと仲の良かったエブーエスードエフェンディ(このブログのあらすじではカーディーとかれのことを表している)がいる。 マドラサが閉鎖後、建物は放置されたままだった。1948年 厚生省によって修復され調剤所になっている。 ダールッシファー オスマン帝国建築で初の病院。3人の医師 薬剤師 パン職人 飲み物を作る人、料理人が働いていた。一時は武器庫としても使われたが廃墟となる。1990年修復され現在ギョズ病院(Göz Hastanesi)として使われている。 ハマム   冷所、温所、熱所とに分けられ現在も使われている。 バヤズィト1世のお墓 Osman建築で初めて柱廊のある墓として有名。 ティームールに捕虜になアクシェヒルで亡くなった彼の遺体は息子 エミールスレイマンチェレビの作ったこの墓に運ばれた。彼のほかに、息子チェレビの棺もある。 オスマン帝国君主10代まで オスマン オルハン ムラト1世  バヤズィト1世  メフメト1世 ムラト 2 世 メフメト2世 バヤズィト 2 世 セリム 1 世 スレイマン 1 世

オスマン帝国の最初の首都ブルサへ

イスタンブルからバスか船で行けけますが、今年新しくできた新空港は不便な場所にあります。以前の2倍ぐらいかかるようです。市街に出るまで1時間半はみたほうがいいです。イスタンブルのみで仕えるイスタンブルカードを買いハヴァリスト(havarist)と言うバスでオートガルにいきます。そこでバスでブルサに行くか、フェリーで行くのですが、今回新空港が不便なところにあるということで、アンカラまで飛ぶ飛行機で行く道筋を見てみたいと思います。 アンカラ空港からの行き方を調べてみると、 アンカラ空港から HAVAŞ と言うバスが出ています。時刻表ではオオートガル(バスターミナル)まで約 45分 かかり値段は11トルコリラです。( Yaklaşık 45 dakika (Trafik yoğunluğu ve hava şartlarına göre değişebilmektedir.) (Bilet Fiyatı 11,00 TL (KDV dahil)) http://www.havas.net/tr/Hizmetlerimiz/OtobusHizmetleriVeOtopark/OtobusServisNoktalari/Pages/Ankara.aspx ですが、なぜか今のところオートガルからの空港までの時刻表しか出てないです。 午前2時代から22時代めで毎時15分と45分に出発しています。23時代は45分発が一本あります。 ってことはたぶん30分に1本は空港からオートガルまで運航している予想できます。 アンカラ空港からオートガルに無事つきましたら、今度は アンカラからブルサ行のバスのチケットを確保します。バスで6時間~8時間ぐらいです。 https://www.neredennereye.com/otobus-bileti/ankara-bursa/ のサイトをクリックすると Nereden(出発地) Nereye)(到着地) Kişi(人数) Ne zaman (日時) という記入する欄が出てきます。 ちなみにアンカラ(Ankara)から ブルサ(Bursa)まで 1名 7月25日 といれてみましょう。 すると https://www.neredennereye.com/tr/bus-schedules-results/

ムラディイェ複合施設の中にあるお墓11,12 ~ムスタファ皇子とマヒデブランの墓~

11ムスタファ皇子の墓Şehzade Mustafa türbesi https://youtu.be/r8nd2fSltKY 1573年セリム2世によって建てられました。ムスタファ皇子は私たちのよく知っている方です。マヒデブランの息子でヒュッレムの好敵手でもありました。スレイマン大帝の長男にあたります。1533年にムスタファ皇子は絞殺された後、ブルサの別の場所に埋められましたが、しばらくして移動されました。 マヒデブランの棺もここにあります。それからムスタファの息子のメフメト皇太子とヒュッレムの息子でセリム2世に敗れたバヤズィット皇子の息子のオスマンの棺もここにあります。 バヤズィットのほかの息子たちは バヤズィット と共に絞殺されたため オスマン帝国外伝に出演していた人々の棺がここで見られます。は金箔で刺しゅうされたクルアーンの節々は素晴らしいです。ブルサのお墓にはよく見られるミフラーブがないのも特徴の一つです。入口の両側の壁には食器棚があります。 12 サライの人々のお墓(Saraylılar Türbesi) 天空の空いたお墓です。マヒデブランの2人のお姉さんのお墓と考えられています。 オスマン帝国君主10代まで オスマン オルハン ムラト1世 バヤズィト1世 メフメト1世  ムラト 2 世  メフメト2世 バヤズィト 2 世 セリム 1 世 スレイマン 1 世
にほんブログ村 テレビブログ 海外ドラマへにほんブログ村 芸能ブログ 海外芸能人・タレントへ

プロフィール

プロフィール

プロフィール画像
それはオスマン帝国外伝から始まった
Twitter
YouTube
当ブログにお越し下さりありがとうございます。ドラマのあらすじや登場人物のお話のブログです。どうぞお楽しみくださいませ。 ご連絡はEmailでお願いいたします。 Email