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アンカラ空港に水あるよ

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アンカラ空港はとてもいいかんじです. なんと水がながれているんです. すずしくかんじます. 木のそばの黒い部分にみずがあります 水に天井が写っているるようす

【オスマンベイの墓】 写真追加

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オスマン1世のお墓 彼は1258年で生まれました。 彼の人生はほぼ戦いですぎたと言われています。弓の名手です。父はエルトゥールルベイで母はハイマ・アナと言われています。。 1258年シェイフ・エデバーリの娘マルフムハートゥンと、結婚しオルハンベイと言う息子がいました。 ブルサを包囲したときオスマンはブルサの町の中にあるクッベをさして、もし自分が死んだらそこへ埋めるようにと遺言したと言われています。 オスマンガーズィーにとってブルサ攻略は最大の夢だした。まだ攻略していないそのブルサの街の中に埋葬するということは、オスハンに必ずその街を手に入れるようにと遺言したとも言えます。 年を取るにつれて彼は痛風に悩まされました。そのため統治者としての役をオルハンに譲りました。1324年亡くなったと言われています。 クッベのあった建物とはトプハーネ公園の左側にあるエリエ修道院の礼拝堂のことだそうです。 ブルサを手にした後、オルハンガーズィーはこの修道院をお墓に変えます。 1855年に地震によりお墓が崩れたため1863年にアブドゥル・アズィーズによって修復されました。天井は8角形です。 この墓にはムラト1世の息子サヴジュベイ、オルハンベイの妻のアスプルチェ・ハートゥンと彼女の息子イブラヒムベイ、そして オスマンガーズィーの息のアラエッディーンベイ、名前不明の2つの棺があります。 関連記事  オスマンベイの墓 の説明  ブルサ旅行1・オスマンベイの墓のある公園    ブルサのママは強し オスマンベイの廟の入り口の横にある説明文 廟の外観 入口 向かって左側の紋章拡大すると 入り口から入って見えるもの 茶色ぽい覆いと茶色のターバンがオスマンベイの墓 右回りするとこんな感じ上の写真の旗のある方からの取ったオスマンベイの墓 ここでファーティハをおくる。 先に進むと オルハンベイの息子イブラヒム皇子の墓とその隣にオルハンベイの妻のアスプルチェ・ハートゥンの墓(ターバンがしてある方が皇子)ここでもファーティハをおくる。 さらに右に曲がると反対側はこんな感じ 入り口の反対側の拡大写真 簡素な模様の天井 オスマン帝国君

ブルサのアタトゥルクジャッデスィのようす

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この通りはとても危険な通りで人々は信号ないところをいのちがけでわたっています 一昨日その通りのケバブやさんでご飯を食べているときバスがじこをおこし渋滞になってし枚まいました イスタンブルのみちもこわいとおもいましたが ブルサのみちはこわいです

【オルハンベイのお墓】 写真追加

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オスマンガーズィーのちょうど向かい側に、オルハンガーズィーの墓があります。彼は1281年に生まれました。 15歳で初めて戦いに出かけ、彼も父オスマンと同様戦いでほぼ人生を過ごします。45歳で長になり、1326年ブルサを、1329年イズニクをそして1337年ゲミリクを征服しました。 ブルサを獲得した後すぐに行ったこと城壁の外に新しい中心地を作ったことです。それからオルハンモスク、隊商宿のエミルハン そして公共浴場のセンギュルハマムとイマーレトなどの複合施設を建設していき、商業の発達に貢献します。 ビザンツ帝国にマルテペの戦いで勝利し、アンカラとゲリボルでもかったため多くの君侯たちが彼の元へ集まってきました。 1345年にビザンツ帝国と協議の結果、 皇女テオドラ を妻に迎えることになります。え!とおどろくことでしょう?ビザンツ帝国は完全なる敵だと思っていましたが、実はオルハンベイの時代にはかの国からお嫁さんをもらっていたんですね。 彼はヨーロッパ側からコンスタンチノープルに徐々に迫っていきます。ゲリボルの次にはボアユゥル、 ハイラボル、 テキルダウを獲得しました。 1360年79歳で亡くなります。 ブルサのエリア修道院の一角を墓の形に整えそこに埋められました。 そのためか教会にによくあるモザイクタイルが今で墓に残っています。1855年の地震で崩壊しましたが、1863年アブドゥルアズィーズによって建て直されました。 ほかにお墓には配偶者の ニルフェル・ハートゥン 、息子のカスィム、娘のファティマ、ジェムスルタンの息子アブドゥッラー、バヤズィット2世の息子ムーサ・チェレビ、名前の不明の4つの棺があります。 撮影日2019年7月26日 お墓のある公園の入り口 オルハンベイ墓の説明文 入り口  向かって右側がベヤズィット2世の息子コルクト皇子の墓 左はオルハンベイの墓 オルハンベイの墓 オルハンベイの配偶者ニルフェルはハートゥンの墓 オスマン帝国君主10代まで オスマン  オルハン  ムラト1世 バヤズィト1世 メフメト1世 ムラト 2 世 メフメト2世 バヤズィト 2 世 セリム 1 世 スレイマン 1 世

クイズ ~オスマン帝国の首都~~

1、オスマン帝国外伝と新オスマン帝国外伝キョセムの舞台は主にイスタンブルです。当時そこの首都でした。それでは最初のオスマン帝国の首都はどこでしょう。 コンヤ エディルネ ブルサ 2、オスマン帝国では首都が3回変わっています。二番目の首都はどこでしょう? コンヤ エディリネ ブルサ 3、オスマン帝国の創始者は誰でしょう? エルトゥールル スレイマン・シャー オスマン 4.現在のトルコの首都はどこでしょう? イスタンブル アンカラ エディルネ 5、次の都市のうちアナトリア側にない都市はどこでしょう? コンヤ エディリネ ブルサ 答え 1ブルサ 2エディルネ 3オスマン 4アンカラ 5エディルネ オスマン帝国の首都はブルサ エディルネ イスタンブル吐変わりました。エディルネは今のトルコのヨーロッパ側の土地の中でも西に近いところに位置しています。 オスマン帝国は初め君侯国でドラマに出てくるのような壮麗な国ではなく、質素剛健をモットーにしていたので、生活はシンプルなものでした。 2代目オルハンが 1326年 ブルサを攻略し、その36年後に3代目のムラト1世が 1362年 エディルネを攻略しました。ブルサから直接イスタンブルを攻めず、先にイスタンブルよりもヨーロッパよりのエディルネを奪取します。(イスタンブルはビザンツ人たちにコンスタンチノープルと呼ばれ、エディルネはアドリアノープルと呼ばれていました。) それから徐々にイスタンブルへ攻めよっていきます。東ローマ帝国は海に浮かんだ孤島のようになってしまったのです。 そして90年後の1453年にイスタンブルをメフメト2世が攻略します。オスマン帝国の首都は126年の間に3回変わったことになります。

ムラト2世の複合施設にはおはかがいっぱい

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お墓のまわりはれんが色と白のまじった建物です みなさんいおなじみのムスタファ皇子とマヒデブランもありました 2にんはなかよくとなりどうしです . すこしはなれたところにマヒデブランの2にんのおねえさんのはかがありました。

ムラト1世の墓

ムラト1世の墓はコソボとブルサにあります。 ムラト1世のコソボでのお墓 ムラト1世は1326年に生まれコソボで1389年に亡くなりました。 ムラト1世はオスマン帝国の門をヨーロッパに最初に開いたオスマン朝のスルタンです。コソボの戦いで戦争中に亡くなりました。内臓はコソボに埋められ、残りの遺体はブルサに運ばれました。 ムラト1世の墓を含めた複合施設はコソボの首都プリシュティナとミトロヴィツァをむすぶ道沿いのマズギト村にあります。バルカン半島で最古のオスマン帝国の建築物で14世紀にたてられました。バヤズィト1世がたてました。 墓は保全されてきました。 1660年エヴリやチェレビが墓を訪問したと知られています。彼は墓の掃除をするよう同行したメレキアフメトパシャにアドバイスします。多くの苗木も植えられます。 1848年に墓は基礎工事がされ、その後ブハラ出身のハジ・アリに、300クルシュの給与で墓を守る仕事が与えられ、現在も彼の子孫が墓守をしています。 1896年2階建ての建物も憩いの宿として作られました。 1906年アブドゥルハミドが皇位についたとき その建物のオープニングセレモニーが行われました。 なお1911年レシャド皇帝が訪問したときにも修復されています。 第二次世界大戦中占領軍によって墓にあったすべてのものが略奪されました。 戦後、ユーゴスラビア政府の管理下の元1969年に修復されました 2000年にはいっても修復し続けられたこの複合施設は、現在TİKAによって文化促進の建物として存在しています。2010年エルドアン首相によってそのオープニングセレモニーがひらかれました。 ここには400年以上も生き続けてきたと思われる木がありますが、これはムラト1世が埋められたときに植えられたと考えられています。 ブルサでのムラト1世のお墓 1365年から1366年にかけてムラト1世の命で建てられました。彼の複合施設はモスク マドラサす、お墓、ハマム、イマーレトでできています。マドラサとモスクが一緒の建物に作られているのが特徴。 1389年にバヤズィット1世が初めて修復をしてから現在まで何度も修復されてきています。 正方形のドームは8列から成るアーチでできています。 他にムーサチェレビ、ヤクップ・チェレビ、オルハン皇太子バヤズィト

キョセム対サフィイェ(アフメト皇帝の祖母)

キョセムは家族とはなされイスタンブルに連れてこられました。 そのきっかけになったのは、イスタンブルに贈られた一枚のキョセムの絵でした。その絵を見たアフメト皇帝は彼女に一目ぼれし、彼女を贈り物ものとしてサフィイエが勝手に連れてきたのです。 最初はサフィイェのもとで教育を受けていたキョセムでしたが、アフメト皇帝を危険に晒したことに怒り、キョセムはサフィイェと対決姿勢を取り出します。 キョセムの関心は初めから家族のみで、なんども家族の元へ戻るために宮廷を逃げ出そうと計画します。 そしてだしゅつ成功!めでたしめでたし!と言うところで、 キョセムはアフメト皇帝への気持ちが強いことに気づきます。そして家族ではなく皇帝のもとに戻ることに決めます。 サフィイェは自分の権力を奪取するため、アフメト皇帝をその地位から降ろそうと画策します。一方キョセムはアフメト皇帝を護るためにサフィイェだけでなく息子を皇帝につけたがっているハリメたち(ムスタファの母)とも戦うことになります。 その過程でキョセムの父親と妹(間接的に)の命がサフィイェたちの画策によって奪われました。 キョセムがサフィイェとの約束を守ったのにもかかわらず、サフィイェは父親を毒殺してしまいます。ほんとに痛ましいものでしたが、妹の最後はもっと痛ましいものでした。 なんとキョセム自身の命令で妹はいのちがたれたからです。キョセムは彼女が妹だとは知らず、妹もまた彼女が姉とは知らず姉妹は戦うことになります。そして亡くなった後でキョセムは妹だとサフィイェにしらされます。 こうしてサフィイェとキョセムの戦いはサフィイェが自ら命を絶つことで終止符が打たれるまで続きます。(史実ではサフィイェは食べ物があたったと言われています。)  ですが、その後もハリメによってキョセムはさらに大きな痛みを感じることになるのでした。ということで次回はキョセム対ハリメをお送りいたします。おたのしみに

ブルサのおいしいロカンタ

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イスケンデル ケバブが25トルコリラです まいにちたべにいってます スープはレンズ豆のスープのみですが,これもおすすめです

新・オスマン帝国外伝~影の女帝 キョセム~ シーズン1 24話後半・25話前半 9の4

24話後半 「サフィイェ・スルタンを宮殿に残すように」と言い出すキョセムに驚く皇帝。 そしてさらに驚かすことを彼女は話し出す。ハンダンがムスタファを殺害しようとしたことを言ってしまったのだ。 急いでハンダンのところへ行く皇帝。怒りに狂い怖い顔をしてハンダンを見つめる。そして手を上げようとするが皇帝は思いとどまり、代わりにテプスィをひっくり返した。 キョセムはサフィイェのところへ行き「父親を渡して」というと、「まだまだよ」とサフィイェはいう。ここに残るとの決定を得た後であわせるというのだ。 キョセムにも考えがあった。父親を救出した後、真実を皇帝に話すつもりだった。サフィイェはこのことをキョセム付きの侍女(サフィイェの間者)からきく。 デルヴィシュとサフィイェはバルコニーで話す。サフィイェはデルヴィシュを謀反人と軽蔑するが、デルヴィシュも「あなたも謀反人だ。もし破滅するなら一緒に破滅しよう。結婚式は行われるし、手紙もよこしてください」と言い返す。 わあ、皇帝の周りには謀反人がたくさんいるのだ。皇帝は生きのこれるのだろうか? デルヴィシュはファフリイェから手紙をもらい燃やす。その手紙にはデルヴィシュがシャーヒンの命令で前皇帝を毒殺したことが書かれてあった。 これでデルヴィシュの憂いは亡くなった。 ファフリイェはメフメトギライに会いに行く。デルヴィシュが天然痘の菌のことを知ってしまったので、デルヴィシュとの結婚を避けることができないと悲しそうに言うと、「決してそうはさせない」とメフメトは彼女を励ますが・・・ 皇帝はサフリイェを宮殿に残すという決定を下した。そして母のハンダンを エスキサライに行くように命じた。サフリェの思いどおりになってしまった。 25話前半 キョセムはこの知らせを聞き、前母后の元へ訪れる。そして「思うようになったのだから父親を渡して」という。前母后は父親の代わりに毒消しの薬の瓶を渡す。そして「父親に毒を飲ませたの。もし間に合えば助かるわ」と冷たく言う。 薬瓶をもって全速力で父親の元へ走る。父の捕らわれている部屋に入ろうとするがカギがかかっている。カギはなかなかあかない。ようやく中にはいることができたキョセムは薬を飲ませ、「助かるわ、お父さん」と繰り返す。娘を見て 父親は「私の娘よ、綿にの天使」といい微笑むが、次の瞬間目を閉

 エミール・スルタン複合施設 (モスク、お墓、ハマム、)

エミール スルタン複合施設 エミール スルタン複合施設は修行場として作られたのが始まりだった。修行者の宿泊施設とモスクとイマーレトで構成されていたらしい。 後Emilスルタンの妻でバヤズィト1世の娘のフンディがモスクの形に整えた。公共浴場も追加した。 後に学校も作られた。 18世紀か19世紀ごろ図書館と水道が追加されたが、現在みられるのはモスクとはハマムと水道だけである。 エミールスルタンの墓 エミールスルタン複合施設の中庭の、モスクの向かい側にお墓がある。アーチ形の窓と照明が素晴らしい。 3代のスルタの時代を生き抜いたエミールスルタンは非常にみんなから尊敬されており、現在の墓は当時の者とはだいぶ違っているが、精神性を重視した人々が今でも数多く訪れる。 他に妻フンディ ハートゥンと息子のエミール・アリと二人の娘の棺がある。 Emilスルタンモスク ブルサで最も大きなクッベのあるモスク。2つのミナーレがある。イズニク製のタイルで飾られたのタイルと大理石が美しい。 ハマム 4角形のハマムは冷水温水そして熱水の出る部分に分かれていた。 エミール・スルタンとは? ほんとの名はシャムセッディーン・ムハンマド。バヤズィットの娘と結婚した後、エミールスルタンと呼ばれるようになった。1368年に生まれた。 17歳ごろ 父親が亡くなる。陶器づくりで生計を立てていた。 後に巡礼のためメッカに行くためブハラを離れた。 数年メディナに滞在したのち、バグダッドへ行く。そこで知り合ったアシュク・チェレヴィとアナトリアへ向かった。 カラマン、 ニーデ、ハミード、クタフヤ、イネギョル(長細い、ハンバーグで有名)そしてブルサへと旅する。 1391年に訪れたブルサでは最初洞窟に住んでいた。その場所は今彼のお墓のあると事だったと言われている。短期間に彼はブルサの人々に慕われ有名になる。民衆だけでなく高官も彼を訪れるようになった。 統治者も彼に一目置く。 彼はティームールの使者を殺さないようにと当時の統治者に忠告する。 アンカラの戦いのときティムール軍にブルサが占領されたとき彼はティムールの元へ連れて行かれる。その後ティムールは彼を解放したので、またブルサへ戻った。 バヤズィットの娘フンディ ファティマ スルタンと結婚した。 オスマン帝国

新・オスマン帝国外伝~影の女帝 キョセム~ シーズン1 23話後半 24話前半 9の3あらすじ

ラシャとキョセムの間はますます悪くなってきく。なぜならジェンネト女官をラシャが助けたため父親を助けることができなかったからだ。キョセムは追い詰められていた。もう後がない。父親の命が危ない。   父親を助けるときギョルゲもけがをした。一緒に同行した侍女にも 「前母后にはかてない。いうことをきくしかない」と言われて考え続けるキョセム。   ハンダンのことを話そうと決心し皇帝を訪ねるが受け入れられなかった。中にはラシャがいた。ラシャは中で楽しそうに「ハンダン母后がマフィルーゼと言う名前をくださった」と伝える。そして「夢で男の子が生まれ、その子にオスマンと呼んでいたのです」と嘘の夢の話を皇帝に話す。 皇帝は「私の頭に浮かんだ名もその名だった。皇太子が生まれたらオスマンと言う名をつけるつもりだ」と答える。 実はラシャはキョセムの侍女から皇帝がオスマンと言う名を皇子につけることを聞いていたのだ。  キョセムは前母后の攻撃に対してハンダンとは協力したが、今はムスタファ暗殺未遂のことラシャのことをがあり2人の仲が良くない。 ハンダンハ暗殺未遂事件だけでなくもう一つ懸念材料があった。デルヴィシュがハンダンに思いを寄せているのだった。 デルヴィシュはずっとむかしハンダンに会っていたのだ。その時の彼女の名はヘレンだった。デルヴィシュそれ以来ハンダンのことが忘れられなかった。  何月が流れ偶然宮殿で彼女に出会ったデルヴィシュは思いを寄せ続けていた。だがハンダンハ前皇帝のお気に入りになり、アフメト皇帝を産んだのだった。  一方ハンダンも禁じられているとはわかっていてもデルヴィシュに惹かれていった。 この恋は2人にとって危険だった。にもかかわらず、心の中の思いをなくすことは2人にはできなかった。 ラシャは皇帝のところから戻り、キョセムにまた突っかかる。そしてラシャの子供にオスマンという名をつけると話す。「オスマン」とつぶやきながらキョセムは以前皇帝と話したことを思い出し不機嫌になる。 ファフリイェにおどかされ皇帝に2人の解放を訴えたデルヴィシュの意見は受け入れられた。彼はギライたちのところへ行く。 だが解放されたのはメフメトのみだった。デルヴィシュはメフメトが裏切ったとシャーヒンに言い残して去っていく。  「出してくれ」とシャーヒンは叫び、頭を

電撃王(バヤズィット1世) 複合施設 (Yıldırım Külliyesi)

電撃王(バヤズィト1世) 複合施設 電撃王バヤズィットと彼の息子スレイマン チェレビによって作られた。 オスマン人たちの手によっ建てられた初めての複合施設として有名。これをもって君侯国だったオスマン朝は国という形になったと言われている。 ユルドゥルム地区の丘の上にある。 モスク マドラサ イマーレト ハマム 病院(初めての)が先に作られた。のちにスレイマン チェレビによってバヤズィト1世の墓が作られた。これらは現在でも見ることができる。 モスク 切り石で建てられている。 真ん中に中庭がありその両側にエイヴァン(中庭に続く屋根のあるおおわれた場所)がある。エイヴァンの来たと南にタブハーネがある。 オスマン建築で初のブルサアーチと言うアーチを使った。 ミナーレは北東と北西にあったが破壊され現在の西側のミナーレは後で作られたもの 。 マドラサ ジャーミの80m離れた平地に作られた。 真ん中に庭があり正面が閉じてあるオスマン朝初めてのマドラサである。このマドラサでは著名な先生たち教鞭をとったが、その中の一人にヒュッレムと仲の良かったエブーエスードエフェンディ(このブログのあらすじではカーディーとかれのことを表している)がいる。 マドラサが閉鎖後、建物は放置されたままだった。1948年 厚生省によって修復され調剤所になっている。 ダールッシファー オスマン帝国建築で初の病院。3人の医師 薬剤師 パン職人 飲み物を作る人、料理人が働いていた。一時は武器庫としても使われたが廃墟となる。1990年修復され現在ギョズ病院(Göz Hastanesi)として使われている。 ハマム   冷所、温所、熱所とに分けられ現在も使われている。 バヤズィト1世のお墓 Osman建築で初めて柱廊のある墓として有名。 ティームールに捕虜になアクシェヒルで亡くなった彼の遺体は息子 エミールスレイマンチェレビの作ったこの墓に運ばれた。彼のほかに、息子チェレビの棺もある。 オスマン帝国君主10代まで オスマン オルハン ムラト1世  バヤズィト1世  メフメト1世 ムラト 2 世 メフメト2世 バヤズィト 2 世 セリム 1 世 スレイマン 1 世

おいしいロクムのみせ アンカラの急行列車の駅2

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おいしいロクムやさん 味見してみたらとてもおいしかったのでおみや8げに1kgかいました

アンカラの急行列車乗り場でおいしいスミットやさんはっけん

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スミットやさんでオリーブ入りのスミットとスジュクいりを紹介してくれたハンサムボーイ

オスマン帝国の最初の首都ブルサへ

イスタンブルからバスか船で行けけますが、今年新しくできた新空港は不便な場所にあります。以前の2倍ぐらいかかるようです。市街に出るまで1時間半はみたほうがいいです。イスタンブルのみで仕えるイスタンブルカードを買いハヴァリスト(havarist)と言うバスでオートガルにいきます。そこでバスでブルサに行くか、フェリーで行くのですが、今回新空港が不便なところにあるということで、アンカラまで飛ぶ飛行機で行く道筋を見てみたいと思います。 アンカラ空港からの行き方を調べてみると、 アンカラ空港から HAVAŞ と言うバスが出ています。時刻表ではオオートガル(バスターミナル)まで約 45分 かかり値段は11トルコリラです。( Yaklaşık 45 dakika (Trafik yoğunluğu ve hava şartlarına göre değişebilmektedir.) (Bilet Fiyatı 11,00 TL (KDV dahil)) http://www.havas.net/tr/Hizmetlerimiz/OtobusHizmetleriVeOtopark/OtobusServisNoktalari/Pages/Ankara.aspx ですが、なぜか今のところオートガルからの空港までの時刻表しか出てないです。 午前2時代から22時代めで毎時15分と45分に出発しています。23時代は45分発が一本あります。 ってことはたぶん30分に1本は空港からオートガルまで運航している予想できます。 アンカラ空港からオートガルに無事つきましたら、今度は アンカラからブルサ行のバスのチケットを確保します。バスで6時間~8時間ぐらいです。 https://www.neredennereye.com/otobus-bileti/ankara-bursa/ のサイトをクリックすると Nereden(出発地) Nereye)(到着地) Kişi(人数) Ne zaman (日時) という記入する欄が出てきます。 ちなみにアンカラ(Ankara)から ブルサ(Bursa)まで 1名 7月25日 といれてみましょう。 すると https://www.neredennereye.com/tr/bus-schedules-results/
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